伊勢之巻

4話

1,546字 約3分 2006年3月17日 公開

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内宮(ないぐう)でいらっしゃいます。」

 婆々(ばば)()を挙げて白髪の額に頂き、

「何事のおわしますかは知らねども、(かたじけな)さに涙こぼるる、自然(ひとりで)(つむり)が下りまする。お帰りには二見(ふたみ)ヶ浦、これは申上げるまでもござりませぬ、五十鈴川の末、向うの岸、こっちの岸、枝の垂れた根上り松に(もや)いまして、そこへ参る船もござります。船頭たちがなぜ素袍(すおう)を着て、立烏帽子(たてえぼし)(かぶ)っていないと思うような、尊い川もござりまする、女の()きます(くるま)もござります、ちょうど明日は旧の元日。初日の出、」

 いいかけて急に(ひざ)を。

「おお、そういえば旦那様(だんなさま)、お宿はどうなさります思召(おぼしめし)

 成程、おっしゃりました名の(とおり)、あなた相の山までいらっしゃいましたが、この前方(さき)へおいでなさりましても、()い宿はござりません。後方(あと)古市(ふるいち)でござりませんと、旦那様方がお泊りになりまする旅籠はござりませんが、何にいたしました処で、もし、ここのことでござりまする、必ず必ずお()き立て申しますではないのでござりまするけれども、お早く遊ばしませぬと、お(とまり)が難しゅうござりますので。

 はい、いつもまあこうやって、大神宮様のお(かげ)で、繁昌(はんじょう)をいたしまするが、旧の大晦日(おおみそか)と申しますと、諸国の講中(こうじゅう)道者(どうじゃ)行者(ぎょうじゃ)(しゅ)、京、大阪は申すに及びませぬ、夜一夜、古市でお(こもり)をいたしまして、元朝、宇治橋を渡りまして、貴客(あなた)、五十鈴川で嗽手水(うがいちょうず)、神路山を右に見て、杉の樹立(こだち)の中を出て、御廟(おたまや)の前でほのぼのと(しら)みますという、それから二見ヶ浦へ初日の出を拝みに廻られまする、大層な人数。

 旦那様お通りの時分には、玉ころがしの店、女郎屋の(かど)などは軒並(のきなみ)戸が()いておりましてございましょうけれども、旅籠屋は大抵戸を閉めておりましたことと存じまする。

 どの家も一杯で、客が受け切れませんのでござります。」

 婆々はひしひし、大手の木戸に責め寄せたが、

「しかし貴客(あなた)、三人、五人こぼれますのは、旅籠(はたごや)でも承知のこと、相宿でも間に合いませぬから、廊下のはずれの(かこい)だの、数寄(すき)四阿(あずまや)だの、主人(あるじ)住居(すまい)などで受けるでござりますよ。」

 と搦手(からめて)を明けて落ちよというなり。

 けれども何の張合もなかった、客は別に騒ぎもせず、さればって聞棄(ききず)てにもせず、(なん)機会(きっかけ)もないのに、小形の銀の懐中時計をぱちりと開けて見て、無雑作に突込(つッこ)んで、

「お婆さん、勘定だ。」

「はい、あなた、もし御飯(おまんま)はいかがでござります。」

 客は仰向(あおむ)いて、(あらた)に婆々の顔を見て莞爾(かんじ)とした。

「いや、実は余り欲しくない。」

「まあ、ソレ御覧(ごろう)じまし、それだのに、いかなこッても、酢蛸(すだこ)(あが)りたいなぞとおっしゃって、夜遊びをなすって、とんだ若様でござります。どうして婆々が家の一膳飯(いちぜんめし)がお口に合いますものでござります。ほほほほ。」

「時に、三由屋(みよしや)という旅籠はあるね。」

「ええ、古市一番の旧家で、第一等の宿屋でござります。それでも、今夜あたりは大層なお(ひと)でござりましょ。あれこれとおっしゃっても、まず古市では三由屋で、その上に講元(こうもと)のことでござりまするから、お客は上中下とも一杯でござります。」

「それは構わん。」といって客は細く組違えていた膝を割って、二ツばかり靴の爪尖(つまさき)を踏んで居直った。

「まあ、何ということでござります、それでは気を()むではなかったに、先へ誰方(どなた)ぞお美しいのがいらしって、三由屋でお待受けなのでござりますね。わざと迷児(まいご)になんぞおなり遊ばして、()うござります、翌日(あす)は暗い内から婆々が店頭(みせさき)に張番をして、芸妓(げいこ)さんとでも腕車(くるま)で通って御覧じゃい、お(のぞみ)の蛸の足を放りつけて上げますに。」と煙草(きせる)を下へ、手で(すく)って、土間から戸外(そと)へ、……や……ちょっと投げた。トタンに相の山から戻腕車(もどりぐるま)、店さきを通りかかって、軒にはたはたと鳴る旗に、フト(かじ)を持ったまま仰いで(とま)る。

車夫(くるまや)。」

「はい。」と(なまめか)しい声、婦人(おんな)が、看板をつけたのであった、古市組合。

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