悪獣篇

3話 悪獣篇(3)

6,549字 約13分 2006年12月19日 公開

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「あれえ! ああ、あ、ああ……」

 (こわ)かった、胸が躍って、(おさ)えた乳房重いよう、(いま)わしい夢から覚めた。――浦子は、独り蚊帳(かや)(うち)。身の(わなな)くのがまだ()まねば、腕を組違えにしっかと両の肩を抱いた、(わき)の下から脈を打って、垂々(たらたら)(つめた)い汗。

 さてもその()は暑かりしや、夢の恐怖(おそれ)(もだ)えしや、紅裏(もみうら)の絹の掻巻(かいまき)鳩尾(みずおち)(すべ)退()いて、寝衣(ねまき)衣紋(えもん)崩れたる、雪の(はだえ)に蚊帳の色、残燈(ありあけ)の灯に青く染まって、(まくら)に乱れた(びん)の毛も、寝汗にしとど濡れたれば、襟白粉(えりおしろい)も水の(かおり)、身はただ、今しも藻屑(もくず)の中を浮び出でたかの(おもい)がする。

 まだ身体(からだ)がふらふらして、床の途中にあるような。これは寝た時に今も変らぬ、別に怪しい事ではない。二つ目の浜の石屋が(かた)へ、暮方仏像をあつらえに()った帰りを、(いや)な、不気味な、忌わしい、(ばば)のあらもの屋の前が通りたくなさに、ちょうど満潮(みちしお)()げたから、海松布(みるめ)の流れる岩の上を、船で帰って来たせいであろう。()を漕いだのは銑さんであった、夢を漕いだのもやっぱり銑さん。

 その時は折悪(おりあし)く、釣船も遊山船(ゆさんぶね)も出払って、船頭たちも、漁、地曳(じびき)で急がしいから、と石屋の親方が浜へ出て、小船を一(そう)借りてくれて、岸を漕いでおいでなさい、山から風が吹けば、畳を歩行(ある)くより(たしか)なもの、船をひっくりかえそうたって、海が合点(がってん)するものではねえと、大丈夫に承合(うけあ)うし、銑太郎もなかなか素人離れがしている由、人の風説(うわさ)も聞いているから、安心して乗って出た。

 岩の間をすらすらと縫って、銑さんが船を持って来てくれる間、……私は銀の粉を裏ごしにかけたような美しい砂地に立って、足許(あしもと)まで(あい)の絵具を溶いたように、ひたひた軽く寄せて来る、浪に心は置かなかったが、またそうでもない。先刻(さっき)の荒物屋が背後(うしろ)へ来て、あの、また変な声で、御新姐様(ごしんぞさま)や、といいはしまいかと、大抵気を()んだ事ではない。……

 婆さんは幾らも居る、本宅のお針も婆さんなら、自分に伯母が一人、それもお婆さん。第一近い処が、今内に居る、松やの阿母(おふくろ)だといって、この間隣村から尋ねて来た、それも年より。なぜあんなに恐ろしかったか、自分にも分らぬくらい。

 毛虫は怪しいものではないが、一目見ても総毛立つ。おなじ事で、たとえ不気味だからといって、ちっとも怪しいものではないと、銑さんはいうけれど、あの、黄金色(こがねいろ)の目、(きいろ)な顔、()うように歩行(ある)いた工合。ああ、思い出しても悚然(ぞっ)とする。

 夫人は掻巻の(すそ)(さわ)って、爪尖(つまさき)からまた悚然とした。

 けれどもその時、浜辺に一人立っていて、なんだか怪しいものなぞは世にあるものとは思えないような、気丈夫な考えのしたのは、自分が(たたず)んでいた七八間さきの、切立(きった)てに二丈ばかり、沖から燃ゆるような(くれない)の日影もさせば、一面には山の緑が月に映って、練絹(ねりぎぬ)を裂くような、(やわらか)白浪(しらなみ)が、根を一まわり結んじゃ解けて拡がる、大きな高い(いわ)の上に、水色のと、白衣(びゃくえ)のと、水紅色(ときいろ)のと、西洋の婦人が三人。――

 白衣のが一番上に、水色のその肩が、水紅色のより少し高く、一段下に二人並んで、指を組んだり、(もすそ)を投げたり、胸を軽くそらしたり、時々楽しそうに笑ったり、話声は聞えなかったが、さものんきらしく、おもしろそうに遊んでいる。

 それをまたその人々の飼犬らしい、毛色のいい、猟虎(らっこ)のような茶色の洋犬(かめ)の、口の長い、耳の大きなのが、浪際を放れて、(いわ)の根に控えて見ていた。

 まあ、こんな人たちもあるに、あの婆さんを妖物(ばけもの)か何ぞのように、こうまで(こわ)がるのも、と恥かしくもあれば、またそんな人たちが居る世の中に、と頼母(たのも)しく。……

 と、浦子は蚊帳に震えながら思い続けた。

       十四

 ざんぶと浪に黒く飛んで、螺線(らせん)を描く白い水脚(みずあし)、泳ぎ出したのはその洋犬(かめ)で。

 来るのは何ものだか、見届けるつもりであったろう。

 長い犬の鼻づらが、水を出て浮いたむこうへ、銑さんが()をおしておいでだった。

 うしろの小松原の中から、のそのそと人が来たのに、ぎょっとしたが、それは石屋の親方で。

 草履ばきでも濡れさせまいと、船がそこった間だけ、(おぶ)ってくれて、乗ると()ぎ出すのを、水にまだ、足を浸したまま、(ばん)のような姿で立って、腰のふたつ()げの煙草入(たばこいれ)を抜いて、煙管(きせる)と一所に手に持って、火皿をうつむけにして吹きながら、確かなもんだ確かなもんだと、銑さんの()()めていた。

 もう船が岩の間を出たと思うと、尖った(へさき)がするりと(すべ)って、波の上へ乗ったから、ひやりとして、胴の()へ手を()いた。

 その時緑青色のその切立(きった)ての(いわ)の、(なぎさ)で見たとは趣がまた違って、亀の背にでも乗りそうな、中ごろへ、早薄靄(うすもや)(かか)った上から、白衣(びゃくえ)のが桃色の、水色のが白の手巾(ハンケチ)を、二人で、小さく振ったのを、自分は胴の間に、半ば(そで)をついて、倒れたようになりながら、帽子の(うち)から仰いで見た。

 二つ目の浜で、地曳(じびき)を引く人の数は、水を切った網の(さき)に、二筋黒くなって砂山かけて(はる)かに見えた。

 船は緑の岩の上に、浅き浅葱(あさぎ)の浪を分け、おどろおどろ海草の乱るるあたりは、黒き瀬を抜けても過ぎたが、首きり沈んだり、またぶくりと浮いたり、井桁(いげた)に組んだ棒の中に、生簀(いけす)があちこち、三々五々。(かもめ)がちらちらと白く飛んで、浜の二階家のまわり縁を、()きかいする女も見え、(すだれ)を上げる団扇(うちわ)も見え、坂道の切通しを、(くるま)が並んで飛ぶのさえ、手に取るように見えたもの。

 陸近(くがぢか)なれば憂慮(きづか)いもなく、ただ景色の()さに、ああまで恐ろしかった(ばば)の家、巨刹(おおでら)(やぶ)がそこと思う(なだ)を、いつ漕ぎ抜けたか忘れていたのに、何を考え出して、また今の(いな)な年寄。……

 ――それが夢か。――

「ま、待って、」

 はてな、と夫人は、白き(うなじ)(まくら)に着けて、おくれ毛の音するまで、がッくりと(うち)かたむいたが、身の(わなな)くことなお()まず。

 それとも渚の砂に立って、巌の上に、春秋(はるあき)の美しい雲を見るような、三人の婦人の(きぬ)を見たのが夢か。海も空も澄み過ぎて、薄靄(うすもや)の風情も(たえ)に余る。

 けれども、犬が泳いでいた、月の中なら(うさぎ)であろうに。

 それにしても、また石屋の親方が、水に(たたず)んだ姿が怪しい。

 そういえば用が用、仏像を頼みに()くのだから、と巡礼染(じゅんれいじ)みたも心嬉しく、浴衣がけで、草履で、二つ目へ出かけたものが、人の(せなか)で浪を渡って、船に乗ろうとは思いもかけぬ。

 いやいや思いもかけぬといえば、荒物屋の、あの老婆(としより)。通りがかりに、ちょいとほんの燐枝(マッチ)を買いに入ったばかりで、あんな、恐ろしい、(いま)わしい不気味なものを、しかも昼間見ようとは、それこそ夢にも知らなかった。

 船はそのためとして見れば、巌の婦人も夢ではない。石屋の親方が自分を背負(おぶ)って、世話をしてくれたのも、銑さんが船を漕いだのも、浪も、鴎も夢ではなくって、やっぱり今のが夢であろう。

 ――「ああ、恐しい夢を見た。」――

 と肩がすくんで、(もすそ)わなわな、(ひとみ)を据えて恐々(こわごわ)仰ぐ、天井の高い事。前後左右は、どのくらいあるか分らず、(すご)くて《みまわ》すことさえならぬ、蚊帳(かや)に寂しき寝乱れ姿。

       十五

 果して夢ならば、海も同じ潮入りの蘆間(あしま)の水。水のどこからが夢であって、どこまでが事実であったか。船はもう一浪(ひとなみ)で、一つ目の浜へ着くようになった時、ここから上って、草臥(くたび)れた足でまた砂を()もうより、小川尻(おがわじり)()(あが)って、薦の葉を一またぎ、(やしき)の背戸の柿の樹へ、と銑さんの言った事は――(たしか)に今も覚えている。

 ()よりは潮が押し入れた、川尻のちと広い処を、ふらふらと漕ぎのぼると、浪のさきが飜って、潮の加減も点燈(ひともし)ごろ。

 帆柱が二本並んで、船が二(そう)かかっていた。(ふなばた)を横に通って、急に寒くなった橋の下、橋杭(はしぐい)に水がひたひたする、隧道(トンネル)らしいも一思い。

 石垣のある土手を右に、左にいつも見る目より、(すそ)も近ければ頂もずっと高い、かぶさる程なる山を見つつ、胴ぶくれに広くなった、湖のような中へ、他所(よそ)の別荘の刎橋(はねばし)が、(ながれ)(なかば)、岸近な()へ掛けたのが、満潮(みちしお)で板も()けてあった、箱庭の電信ばしらかと思うよう、杭がすくすくと針金ばかり。三角形(さんかくなり)の砂地が向うに、蘆の葉が一靡(ひとなび)き、鶴の片翼(かたつばさ)見るがごとく、小松も()に似て十本(ともと)ほど。

 暮れ果てず(ともし)は見えぬが、その枝の中を透く青田越(あおたご)しに、屋根の高いはもう我が家。ここの小松の間を選んで、今日あつらえた地蔵菩薩(じぞうぼさつ)を――

 仏様でも大事ない、氏神にして祭礼(おまつり)を、と銑さんに話しながら見て過ぎると、それなりに川が曲って、ずッと水が狭うなる、左右は蘆が(びょう)として。

 船がその時ぐるりと廻った。

 岸へ岸へと(つか)うるよう。しまった、潮が(とま)ったと、銑さんが驚いて言った。船べりは泡だらけ。(うり)の種、茄子(なす)の皮、(わら)の中へ木の葉が(まじ)って、船も出なければ(あくた)も流れず。真水がここまで落ちて来て、潮に(さから)って()むせいで。

 あせって銑さんのおした船が、がッきと当って(くい)(つか)えた。泡沫(しぶき)が飛んで、傾いた(ふなばた)へ、ぞろりとかかって、さらさらと乱れたのは、一束(ひとたばね)の女の黒髪、二巻ばかり杭に巻いたが、下には何が居るか、泥で分らぬ。

 ああ、芥の(におい)でもすることか、海松布(みる)の香でもすることか、船へ(から)んで散ったのは、自分と同一(おなじ)鬢水(びんみず)の……

 ――浦子は寝ながら呼吸(いき)を引いた。――

 ――今も蚊帳に染む梅花の(かおり)。――

 あ、と一声退()こうとする、(そで)が風に取られたよう、向うへ引かれて、(なび)いたので、此方(こなた)()いて(おさ)えたその袖に、と見ると怪しい針があった。

 蘆の中に、色の白い()せた(おうな)高家(こうけ)の後室ともあろう、品の()い、目の赤いのが、朦朧(もうろう)(しゃが)んだ手から、蜘蛛(くも)()かと見る糸一条(ひとすじ)

 身悶(みもだ)えして引切(ひっき)ると、袖は針を外れたが、さらさらと髪が揺れ乱れた。

 その黒髪の船に垂れたのが、(さかさ)に上へ、ひょろひょろと(ほお)(かす)めると思うと――(今もおくれ毛が枕に乱れて)――身体(からだ)が宙に浮くのであった。

「ああ!」

 船の我身は幻で、杭に黒髪の搦みながら、(おぼ)れていたのが自分であろうか。

 また恐しい嫗の手に、怪しい針に釣り上げられて、この汗、その水、この枕、その夢の船、この身体、四角な(へや)も穴めいて、(はだえ)の色も水の底、おされて呼吸(いき)の苦しげなるは、早や墳墓(おくつき)の中にこそ。呵呀(あなや)、この髪が、と思うに堪えず、我知らず、ハッと起きた。

 枕を前に、飜った掻巻(かいまき)(せな)の力に、堅いもののごとく(かいな)を解いて、()とその(びん)掻上(かきあ)げた。我が髪ながらヒヤリと冷たく、(つま)に乱れた縮緬(ちりめん)の、浅葱(あさぎ)も色の(すご)きまで。

       十六

 疲れてそのまま、掻巻(かいまき)(ほお)をつけたなり、浦子はうとうととしかけると、胸の動悸(どうき)に髪が揺れて、(かしら)を上へ引かれるのである。

「ああ、」

 とばかり声も出ず、吃驚(びっくり)したようにまた起直った。

 扱帯(しごき)一層(ひとしお)しゃらどけして、(つま)もいとどしく崩れるのを、(ものう)げに持て扱いつつ、(せわ)しく肩で呼吸(いき)をしたが、

「ええ、誰も来てくれないのかねえ、私が一人でこんなに、」

 と重たい(まげ)をうしろへ振って、そのまま(のけ)ざまに倒れそうな、身を()んで(ひざ)で支えて、ハッとまた呼吸(いき)()くと、トントンと岩に当って、時々(がけ)を洗う浪。松風が(しん)として、夜が更けたのに心着くほど、まだ一声も人を呼んでは見ないのであった。

「松か、」

 夫人は残燈(ありあけ)に消え残る、幻のような姿で、蚊帳の中から女中を呼んだ。

 けれども、直ぐに寐入(ねい)ったものの呼覚(よびさま)される時刻でない。

 第一(松、)という、その声が、出たか、それとも、ただ呼んで見ようと心に思ったばかりであるか、それさえも(うつつ)である。

「松や、」と言って、夫人は我が声に我と我が耳を傾ける。胸のあたりで、声は聞えたようであるが、口へ出たかどうか、心許(こころもと)ない。

 まあ、口も利けなくなったのか、と(なさけ)なく、心細く、焦って、ええと、片手に左右の胸を(ゆす)って、

「松や、」と、()き調子でもう一度。

(松や、)と細いのが、咽喉(のど)を放れて、縁が切れて、たよりなくどこからか、あわれに寂しく此方(こなた)へ聞えて、(はる)()を隔てた(ふすま)の隅で、人を呼んでいるかと疑われた。

「ああ、」とばかり、あらためて、その(松や、)を言おうとすると、溜息(ためいき)になってしまう。蚊帳が(あお)るか、(ふすま)が揺れるか、畳が動くか、胸が躍るか。膝を組み()めて、肩を抱いても、びくびくと身内が震えて、乱れた(つま)もはらはらと(なび)く。

 引掴(ひッつか)んでまで、()でつけた、(びん)の毛が、(うるさ)くも頬へかかって、その都度脈を打って血や通う、と次第に(はげ)しくなるにつれ、上へ釣られそうな、夢の針、(みぎわ)(おうな)

 今にも宙へ、足が枕を離れやせん。この屋根の上に(あし)が生えて、台所の煙出(けむだ)しが、水面へあらわれると、芥溜(ごみため)のごみが(よど)んで、泡立つ中へ、この黒髪が(さかさ)に、(たぶさ)から(から)まっていようも知れぬ。あれ、そういえば、軒を渡る浜風が、さらさら水の流るる(ひびき)

 恍惚(うっとり)と気が遠い天井へ、ずしりという沈んだ物音。

 船がそこったか、その船には銑太郎と自分が乗って……

 今、(ふなべり)へ髪の毛が。

「あッ、」と声立てて、浦子は思わず枕許へすッくと立ったが、あわれこれなりに嫗の針で、天井を抜けて釣上げられよう、とあるにもあられず、ばたり膝を()くと、胸を反らして、抜け出る(さま)に、(もすそ)を外。

 蚊帳が顔へ搦んだのが、(ぷん)と鼻をついた水の(におい)。引き息で、がぶりと一口、(おぼ)るるかと飲んだ思い、これやがて気つけになりぬ。

 目もようよう判然(はっきり)と、蚊帳の緑は水ながら、(くれない)の絹のへり、かくて珊瑚(さんご)の枝ならず。浦子は辛うじて蚊帳の外に、障子の紙に描かれた、胸白き浴衣の色、腰の浅葱(あさぎ)も黒髪も、夢ならぬその我が姿を、歴然(ありあり)と見たのである。

       十七

 しばらくして、浦子は(ぎょく)ぼやの洋燈(ランプ)の心を()げて、(あかる)くなった(ともし)に、宝石輝く指の(さき)を、ちょっと(びん)に触ったが、あらためてまた掻上(かきあ)げる。その手で襟を繕って、扱帯(しごき)の下で(つま)を引合わせなどしたのであるが、心には、恐ろしい夢にこうまで疲労して、息づかいさえ切ないのに、飛んだ身体(からだ)の世話をさせられて、迷惑であるがごとき思いがした。

 且つその身体を()てもせず、老実(まめ)やかに、しんせつにあしらうのが、何か我ながら、身だしなみよく、(ゆか)しく、優しく、嬉しいように感じたくらい。

 一つくぐって鳩尾(みずおち)から(ひざ)のあたりへずり下った、その扱帯の端を引上げざまに、(ともし)を手にして、柳の腰を上へ引いてすらりと立ったが、小用(こよう)に、と思い切った。

 時に、障子を開けて、そこが何になってしまったか、浜か、山か、一里塚か、冥途(めいど)(みち)か。船虫が飛ぼうも、大きな油虫が()け出そうも料られない。廊下へ出るのは気がかりであったけれど、なおそれよりも恐ろしかったのは、その時まで自分が寝て居た蚊帳(かや)の内を(うかが)って見ることで。

 蹴出(けだ)しも雪の爪尖(つまさき)へ、とかくしてずり下り、ずり下る寝衣(ねまき)(つま)(おさ)えながら、片手で燈をうしろへ引いて、ぼッとする、肩越のあかりに透かして、蚊帳を(のぞ)こうとして、爪立(つまだ)って、前髪をそっと差寄せては見たけれども、夢のために身を(もだ)えた、(ねや)の内の、(なさけ)ない(さま)を見るのも(いま)わしし、また、何となく掻巻(かいまき)が、自分の形に見えるにつけても、寝ていて、蚊帳を(うかが)うこの姿が透いたら、気絶しないでは済むまいと、思わずよろよろと退(すさ)って、(ひっ)くるまる(もすそ)(あやう)く、はらりと(さば)いて廊下へ出た。

 次の(へや)真暗(まっくら)で、そこにはもとより誰も居ない。

 (ねや)と並んで、庭を前に三間続きの、その一室(ひとま)を隔てた八畳に、銑太郎と、賢之助が一つ蚊帳。

 そこから別に裏庭へ突き出でた角座敷の六畳に、先生が寝ている(はず)

 その(ほう)にも(かわや)はあるが、運ぶのに、ちと遠い。

 (くだん)の次の明室(あきま)を越すと、取着(とッつき)が板戸になって、その台所を越した処に、松という仲働(なかばたらき)、お三と、もう一人女中が三人。

 婦人(おんな)ばかりでたよりにはならぬが、近い上に心安い。

 それにちと間はあるが、そこから一目の表門の直ぐ内に、長屋だちが一軒あって、抱え車夫が住んでいて、かく旦那(だんな)が留守の折からには、あけ方まで格子戸から(あかり)がさして、四五人で、ひそめくもの音。ひしひしと花ふだの(ひびき)がするのを、保養の場所と大目に見ても、()いこととは思わなかったが、時にこそよれ頼母(たのも)しい。さらばと、やがて廊下づたい、(かかと)の音して、するすると、(もすそ)気勢(けはい)の聞ゆるのも、我ながら寂しい中に、夢から覚めたしるしぞ、と心嬉しく、明室(あきま)の前を急いで越すと、次なる小室(こべや)の三畳は、湯殿に近い化粧部屋。これは障子が明いていた。

 (うち)から風も吹くようなり、傍正面(わきしょうめん)の姿見に、()、映りそ夢の姿とて、首垂(うなだ)るるまで顔を(そむ)けた。

 新しい(ひのき)の雨戸、それにも顔が描かれそう。真直(まっすぐ)に向き直って、()(ともしび)を差出しながら、(つき)あたりへ辿々(たどたど)しゅう。

       十八

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