3話 悪獣篇(3)
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「あれえ! ああ、あ、ああ……」
恐かった、胸が躍って、圧えた乳房重いよう、忌わしい夢から覚めた。――浦子は、独り蚊帳の裡。身の戦くのがまだ留まねば、腕を組違えにしっかと両の肩を抱いた、腋の下から脈を打って、垂々と冷い汗。
さてもその夜は暑かりしや、夢の恐怖に悶えしや、紅裏の絹の掻巻、鳩尾を辷り退いて、寝衣の衣紋崩れたる、雪の膚に蚊帳の色、残燈の灯に青く染まって、枕に乱れた鬢の毛も、寝汗にしとど濡れたれば、襟白粉も水の薫、身はただ、今しも藻屑の中を浮び出でたかの思がする。
まだ身体がふらふらして、床の途中にあるような。これは寝た時に今も変らぬ、別に怪しい事ではない。二つ目の浜の石屋が方へ、暮方仏像をあつらえに往った帰りを、厭な、不気味な、忌わしい、婆のあらもの屋の前が通りたくなさに、ちょうど満潮を漕げたから、海松布の流れる岩の上を、船で帰って来たせいであろう。艪を漕いだのは銑さんであった、夢を漕いだのもやっぱり銑さん。
その時は折悪く、釣船も遊山船も出払って、船頭たちも、漁、地曳で急がしいから、と石屋の親方が浜へ出て、小船を一艘借りてくれて、岸を漕いでおいでなさい、山から風が吹けば、畳を歩行くより確なもの、船をひっくりかえそうたって、海が合点するものではねえと、大丈夫に承合うし、銑太郎もなかなか素人離れがしている由、人の風説も聞いているから、安心して乗って出た。
岩の間をすらすらと縫って、銑さんが船を持って来てくれる間、……私は銀の粉を裏ごしにかけたような美しい砂地に立って、足許まで藍の絵具を溶いたように、ひたひた軽く寄せて来る、浪に心は置かなかったが、またそうでもない。先刻の荒物屋が背後へ来て、あの、また変な声で、御新姐様や、といいはしまいかと、大抵気を揉んだ事ではない。……
婆さんは幾らも居る、本宅のお針も婆さんなら、自分に伯母が一人、それもお婆さん。第一近い処が、今内に居る、松やの阿母だといって、この間隣村から尋ねて来た、それも年より。なぜあんなに恐ろしかったか、自分にも分らぬくらい。
毛虫は怪しいものではないが、一目見ても総毛立つ。おなじ事で、たとえ不気味だからといって、ちっとも怪しいものではないと、銑さんはいうけれど、あの、黄金色の目、黄な顔、這うように歩行いた工合。ああ、思い出しても悚然とする。
夫人は掻巻の裾に障って、爪尖からまた悚然とした。
けれどもその時、浜辺に一人立っていて、なんだか怪しいものなぞは世にあるものとは思えないような、気丈夫な考えのしたのは、自分が彳んでいた七八間さきの、切立てに二丈ばかり、沖から燃ゆるような紅の日影もさせば、一面には山の緑が月に映って、練絹を裂くような、柔な白浪が、根を一まわり結んじゃ解けて拡がる、大きな高い巌の上に、水色のと、白衣のと、水紅色のと、西洋の婦人が三人。――
白衣のが一番上に、水色のその肩が、水紅色のより少し高く、一段下に二人並んで、指を組んだり、裳を投げたり、胸を軽くそらしたり、時々楽しそうに笑ったり、話声は聞えなかったが、さものんきらしく、おもしろそうに遊んでいる。
それをまたその人々の飼犬らしい、毛色のいい、猟虎のような茶色の洋犬の、口の長い、耳の大きなのが、浪際を放れて、巌の根に控えて見ていた。
まあ、こんな人たちもあるに、あの婆さんを妖物か何ぞのように、こうまで恐がるのも、と恥かしくもあれば、またそんな人たちが居る世の中に、と頼母しく。……
と、浦子は蚊帳に震えながら思い続けた。
十四
ざんぶと浪に黒く飛んで、螺線を描く白い水脚、泳ぎ出したのはその洋犬で。
来るのは何ものだか、見届けるつもりであったろう。
長い犬の鼻づらが、水を出て浮いたむこうへ、銑さんが艪をおしておいでだった。
うしろの小松原の中から、のそのそと人が来たのに、ぎょっとしたが、それは石屋の親方で。
草履ばきでも濡れさせまいと、船がそこった間だけ、負ってくれて、乗ると漕ぎ出すのを、水にまだ、足を浸したまま、鷭のような姿で立って、腰のふたつ提げの煙草入を抜いて、煙管と一所に手に持って、火皿をうつむけにして吹きながら、確かなもんだ確かなもんだと、銑さんの艪を誉めていた。
もう船が岩の間を出たと思うと、尖った舳がするりと辷って、波の上へ乗ったから、ひやりとして、胴の間へ手を支いた。
その時緑青色のその切立ての巌の、渚で見たとは趣がまた違って、亀の背にでも乗りそうな、中ごろへ、早薄靄が掛った上から、白衣のが桃色の、水色のが白の手巾を、二人で、小さく振ったのを、自分は胴の間に、半ば袖をついて、倒れたようになりながら、帽子の裡から仰いで見た。
二つ目の浜で、地曳を引く人の数は、水を切った網の尖に、二筋黒くなって砂山かけて遥かに見えた。
船は緑の岩の上に、浅き浅葱の浪を分け、おどろおどろ海草の乱るるあたりは、黒き瀬を抜けても過ぎたが、首きり沈んだり、またぶくりと浮いたり、井桁に組んだ棒の中に、生簀があちこち、三々五々。鴎がちらちらと白く飛んで、浜の二階家のまわり縁を、行きかいする女も見え、簾を上げる団扇も見え、坂道の切通しを、俥が並んで飛ぶのさえ、手に取るように見えたもの。
陸近なれば憂慮いもなく、ただ景色の好さに、ああまで恐ろしかった婆の家、巨刹の藪がそこと思う灘を、いつ漕ぎ抜けたか忘れていたのに、何を考え出して、また今の厭な年寄。……
――それが夢か。――
「ま、待って、」
はてな、と夫人は、白き頸を枕に着けて、おくれ毛の音するまで、がッくりと打かたむいたが、身の戦くことなお留まず。
それとも渚の砂に立って、巌の上に、春秋の美しい雲を見るような、三人の婦人の衣を見たのが夢か。海も空も澄み過ぎて、薄靄の風情も妙に余る。
けれども、犬が泳いでいた、月の中なら兎であろうに。
それにしても、また石屋の親方が、水に彳んだ姿が怪しい。
そういえば用が用、仏像を頼みに行くのだから、と巡礼染みたも心嬉しく、浴衣がけで、草履で、二つ目へ出かけたものが、人の背で浪を渡って、船に乗ろうとは思いもかけぬ。
いやいや思いもかけぬといえば、荒物屋の、あの老婆。通りがかりに、ちょいとほんの燐枝を買いに入ったばかりで、あんな、恐ろしい、忌わしい不気味なものを、しかも昼間見ようとは、それこそ夢にも知らなかった。
船はそのためとして見れば、巌の婦人も夢ではない。石屋の親方が自分を背負って、世話をしてくれたのも、銑さんが船を漕いだのも、浪も、鴎も夢ではなくって、やっぱり今のが夢であろう。
――「ああ、恐しい夢を見た。」――
と肩がすくんで、裳わなわな、瞳を据えて恐々仰ぐ、天井の高い事。前後左右は、どのくらいあるか分らず、凄くて《みまわ》すことさえならぬ、蚊帳に寂しき寝乱れ姿。
十五
果して夢ならば、海も同じ潮入りの蘆間の水。水のどこからが夢であって、どこまでが事実であったか。船はもう一浪で、一つ目の浜へ着くようになった時、ここから上って、草臥れた足でまた砂を蹈もうより、小川尻へ漕ぎ上って、薦の葉を一またぎ、邸の背戸の柿の樹へ、と銑さんの言った事は――確に今も覚えている。
艪よりは潮が押し入れた、川尻のちと広い処を、ふらふらと漕ぎのぼると、浪のさきが飜って、潮の加減も点燈ごろ。
帆柱が二本並んで、船が二艘かかっていた。舷を横に通って、急に寒くなった橋の下、橋杭に水がひたひたする、隧道らしいも一思い。
石垣のある土手を右に、左にいつも見る目より、裾も近ければ頂もずっと高い、かぶさる程なる山を見つつ、胴ぶくれに広くなった、湖のような中へ、他所の別荘の刎橋が、流の半、岸近な洲へ掛けたのが、満潮で板も除けてあった、箱庭の電信ばしらかと思うよう、杭がすくすくと針金ばかり。三角形の砂地が向うに、蘆の葉が一靡き、鶴の片翼見るがごとく、小松も斑に似て十本ほど。
暮れ果てず灯は見えぬが、その枝の中を透く青田越しに、屋根の高いはもう我が家。ここの小松の間を選んで、今日あつらえた地蔵菩薩を――
仏様でも大事ない、氏神にして祭礼を、と銑さんに話しながら見て過ぎると、それなりに川が曲って、ずッと水が狭うなる、左右は蘆が渺として。
船がその時ぐるりと廻った。
岸へ岸へと支うるよう。しまった、潮が留ったと、銑さんが驚いて言った。船べりは泡だらけ。瓜の種、茄子の皮、藁の中へ木の葉が交って、船も出なければ芥も流れず。真水がここまで落ちて来て、潮に逆って揉むせいで。
あせって銑さんのおした船が、がッきと当って杭に支えた。泡沫が飛んで、傾いた舷へ、ぞろりとかかって、さらさらと乱れたのは、一束の女の黒髪、二巻ばかり杭に巻いたが、下には何が居るか、泥で分らぬ。
ああ、芥の臭でもすることか、海松布の香でもすることか、船へ搦んで散ったのは、自分と同一鬢水の……
――浦子は寝ながら呼吸を引いた。――
――今も蚊帳に染む梅花の薫。――
あ、と一声退こうとする、袖が風に取られたよう、向うへ引かれて、靡いたので、此方へ曳いて圧えたその袖に、と見ると怪しい針があった。
蘆の中に、色の白い痩せた嫗、高家の後室ともあろう、品の可い、目の赤いのが、朦朧と踞んだ手から、蜘蛛の囲かと見る糸一条。
身悶えして引切ると、袖は針を外れたが、さらさらと髪が揺れ乱れた。
その黒髪の船に垂れたのが、逆に上へ、ひょろひょろと頬を掠めると思うと――(今もおくれ毛が枕に乱れて)――身体が宙に浮くのであった。
「ああ!」
船の我身は幻で、杭に黒髪の搦みながら、溺れていたのが自分であろうか。
また恐しい嫗の手に、怪しい針に釣り上げられて、この汗、その水、この枕、その夢の船、この身体、四角な室も穴めいて、膚の色も水の底、おされて呼吸の苦しげなるは、早や墳墓の中にこそ。呵呀、この髪が、と思うに堪えず、我知らず、ハッと起きた。
枕を前に、飜った掻巻を背の力に、堅いもののごとく腕を解いて、密とその鬢を掻上げた。我が髪ながらヒヤリと冷たく、褄に乱れた縮緬の、浅葱も色の凄きまで。
十六
疲れてそのまま、掻巻に頬をつけたなり、浦子はうとうととしかけると、胸の動悸に髪が揺れて、頭を上へ引かれるのである。
「ああ、」
とばかり声も出ず、吃驚したようにまた起直った。
扱帯は一層しゃらどけして、褄もいとどしく崩れるのを、懶げに持て扱いつつ、忙しく肩で呼吸をしたが、
「ええ、誰も来てくれないのかねえ、私が一人でこんなに、」
と重たい髷をうしろへ振って、そのまま仰ざまに倒れそうな、身を揉んで膝で支えて、ハッとまた呼吸を吐くと、トントンと岩に当って、時々崖を洗う浪。松風が寂として、夜が更けたのに心着くほど、まだ一声も人を呼んでは見ないのであった。
「松か、」
夫人は残燈に消え残る、幻のような姿で、蚊帳の中から女中を呼んだ。
けれども、直ぐに寐入ったものの呼覚される時刻でない。
第一(松、)という、その声が、出たか、それとも、ただ呼んで見ようと心に思ったばかりであるか、それさえも現である。
「松や、」と言って、夫人は我が声に我と我が耳を傾ける。胸のあたりで、声は聞えたようであるが、口へ出たかどうか、心許ない。
まあ、口も利けなくなったのか、と情なく、心細く、焦って、ええと、片手に左右の胸を揺って、
「松や、」と、急き調子でもう一度。
(松や、)と細いのが、咽喉を放れて、縁が切れて、たよりなくどこからか、あわれに寂しく此方へ聞えて、遥か間を隔てた襖の隅で、人を呼んでいるかと疑われた。
「ああ、」とばかり、あらためて、その(松や、)を言おうとすると、溜息になってしまう。蚊帳が煽るか、衾が揺れるか、畳が動くか、胸が躍るか。膝を組み緊めて、肩を抱いても、びくびくと身内が震えて、乱れた褄もはらはらと靡く。
引掴んでまで、撫でつけた、鬢の毛が、煩くも頬へかかって、その都度脈を打って血や通う、と次第に烈しくなるにつれ、上へ釣られそうな、夢の針、汀の嫗。
今にも宙へ、足が枕を離れやせん。この屋根の上に蘆が生えて、台所の煙出しが、水面へあらわれると、芥溜のごみが淀んで、泡立つ中へ、この黒髪が倒に、髻から搦まっていようも知れぬ。あれ、そういえば、軒を渡る浜風が、さらさら水の流るる響。
恍惚と気が遠い天井へ、ずしりという沈んだ物音。
船がそこったか、その船には銑太郎と自分が乗って……
今、舷へ髪の毛が。
「あッ、」と声立てて、浦子は思わず枕許へすッくと立ったが、あわれこれなりに嫗の針で、天井を抜けて釣上げられよう、とあるにもあられず、ばたり膝を支くと、胸を反らして、抜け出る状に、裳を外。
蚊帳が顔へ搦んだのが、芬と鼻をついた水の香。引き息で、がぶりと一口、溺るるかと飲んだ思い、これやがて気つけになりぬ。
目もようよう判然と、蚊帳の緑は水ながら、紅の絹のへり、かくて珊瑚の枝ならず。浦子は辛うじて蚊帳の外に、障子の紙に描かれた、胸白き浴衣の色、腰の浅葱も黒髪も、夢ならぬその我が姿を、歴然と見たのである。
十七
しばらくして、浦子は玉ぼやの洋燈の心を挑げて、明くなった燈に、宝石輝く指の尖を、ちょっと髯に触ったが、あらためてまた掻上げる。その手で襟を繕って、扱帯の下で褄を引合わせなどしたのであるが、心には、恐ろしい夢にこうまで疲労して、息づかいさえ切ないのに、飛んだ身体の世話をさせられて、迷惑であるがごとき思いがした。
且つその身体を棄てもせず、老実やかに、しんせつにあしらうのが、何か我ながら、身だしなみよく、床しく、優しく、嬉しいように感じたくらい。
一つくぐって鳩尾から膝のあたりへずり下った、その扱帯の端を引上げざまに、燈を手にして、柳の腰を上へ引いてすらりと立ったが、小用に、と思い切った。
時に、障子を開けて、そこが何になってしまったか、浜か、山か、一里塚か、冥途の路か。船虫が飛ぼうも、大きな油虫が駈け出そうも料られない。廊下へ出るのは気がかりであったけれど、なおそれよりも恐ろしかったのは、その時まで自分が寝て居た蚊帳の内を窺って見ることで。
蹴出しも雪の爪尖へ、とかくしてずり下り、ずり下る寝衣の褄を圧えながら、片手で燈をうしろへ引いて、ぼッとする、肩越のあかりに透かして、蚊帳を覗こうとして、爪立って、前髪をそっと差寄せては見たけれども、夢のために身を悶えた、閨の内の、情ない状を見るのも忌わしし、また、何となく掻巻が、自分の形に見えるにつけても、寝ていて、蚊帳を覗うこの姿が透いたら、気絶しないでは済むまいと、思わずよろよろと退って、引くるまる裳危く、はらりと捌いて廊下へ出た。
次の室は真暗で、そこにはもとより誰も居ない。
閨と並んで、庭を前に三間続きの、その一室を隔てた八畳に、銑太郎と、賢之助が一つ蚊帳。
そこから別に裏庭へ突き出でた角座敷の六畳に、先生が寝ている筈。
その方にも厠はあるが、運ぶのに、ちと遠い。
件の次の明室を越すと、取着が板戸になって、その台所を越した処に、松という仲働、お三と、もう一人女中が三人。
婦人ばかりでたよりにはならぬが、近い上に心安い。
それにちと間はあるが、そこから一目の表門の直ぐ内に、長屋だちが一軒あって、抱え車夫が住んでいて、かく旦那が留守の折からには、あけ方まで格子戸から灯がさして、四五人で、ひそめくもの音。ひしひしと花ふだの響がするのを、保養の場所と大目に見ても、好いこととは思わなかったが、時にこそよれ頼母しい。さらばと、やがて廊下づたい、踵の音して、するすると、裳の気勢の聞ゆるのも、我ながら寂しい中に、夢から覚めたしるしぞ、と心嬉しく、明室の前を急いで越すと、次なる小室の三畳は、湯殿に近い化粧部屋。これは障子が明いていた。
中から風も吹くようなり、傍正面の姿見に、勿、映りそ夢の姿とて、首垂るるまで顔を背けた。
新しい檜の雨戸、それにも顔が描かれそう。真直に向き直って、衝と燈を差出しながら、突あたりへ辿々しゅう。
十八