悪獣篇

4話 悪獣篇(4)

6,422字 約13分 2006年12月19日 公開

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 ばたり、閉めた杉戸の音は、かかる夜ふけに、遠くどこまで響いたろう。

 壁は白いが、真暗(まっくら)な中に居て、ただそればかりを力にした、玄関の遠あかり、車夫部屋の例のひそひそ声が、このもの音にハタと()んだを、気の毒らしく思うまで、今夜(こよい)はそれが嬉しかった。

 浦子の姿は、無事に(かわや)背後(うしろ)にして、さし置いたその洋燈(ランプ)の前、廊下のはずれに、(なまめ)かしく(あら)われた。

 いささか心も落着いて、カチンとせんを、カタカタとさるを抜いた、戸締り厳重な雨戸を一枚。半ば戸袋へするりと開けると、雪ならぬ夜の白砂、広庭一面、薄雲の影を宿して、屋根を越した月の影が、(ひさし)をこぼれて、竹垣に葉かげ大きく、咲きかけるか、今、開くと、(あした)の色は何々ぞ。紺に、瑠璃(るり)に、紅絞(べにしぼ)り、白に、水紅色(ときいろ)水浅葱(みずあさぎ)(つぼみ)の数は分らねども、朝顔形(あさがおなり)手水鉢(ちょうずばち)を、朦朧(もうろう)と映したのである。

 夫人は山の姿も見ず、松も見ず、松の(こずえ)に寄る浪の、沖の景色にも目は()らず、瞳を恍惚(うっとり)見据えるまで、一心に車夫部屋の(ともし)を、(はるか)に、船の夢の、燈台と力にしつつ、手を遣ると、……柄杓(ひしゃく)(さわ)らぬ。

 気にもせず、なお(うわ)の空で、冷たく瀬戸ものの縁を()でて、手をのばして、向うまで(すべ)らしたが、指にかかる()の葉もなかった。

 目を返して透かして見ると、これはまた、胸に届くまで、近くあり。

 直ぐに取ろうとする、柄杓は、水の中をするすると、反対(むこう)まえに、山の方へ柄がひとりで廻った。

 夫人は手のものを落したように、俯向(うつむ)いて(じっ)と見る。

 手水鉢と垣の間の、月の(くま)暗き中に、ほのぼのと白く(うごめ)くものあり。

 その時、切髪(きりかみ)白髪(しらが)になって、犬のごとく(つくば)ったが、柄杓の柄に、()せがれた手をしかとかけていた。

 夕顔の実に朱の筋の入った(さま)の、夢の(おもかげ)をそのままに、ぼやりと仰向(あおむ)け、

「水を召されますかいの。」

 というと、(つや)やかな歯でニヤリと笑む。

 息とともに身を退()いて、蹌踉々々(よろよろ)と、雨戸にぴッたり、風に吹きつけられたようになって(おもて)を背けた。(はす)ッかいの化粧部屋の入口を、敷居にかけて廊下へ半身。真黒(まっくろ)な影法師のちぎれちぎれな襤褸(ぼろ)()て、茶色の毛のすくすくと(おお)われかかる額のあたりに、皺手(しわで)を合わせて、真俯向(まうつむ)けに此方(こなた)を拝んだ這身(はいみ)(ばば)は、坂下の(やぶ)姉様(あねさま)であった。

 もう筋も抜け、骨崩れて、(もすそ)はこぼれて手水鉢、砂地に足を()み乱して、夫人は橋に廊下へ倒れる。

 胸の上なる雨戸へ半面、ぬッと横ざまに突出したは、青ンぶくれの別の顔で、途端に銀色の(まなこ)をむいた。

 のさのさのさ、頭で廊下をすって来て、夫人の枕に近づいて、ト仰いで雨戸の顔を見た、額に二つ金の瞳、真赤(まっか)な口を横ざまに開けて、

「ふァはははは、」

「う、うふふ、うふふ、」と(かた)がって、戸を(ゆす)って笑うと、バチャリと柄杓を水に投げて、赤目の(おうな)は、

「おほほほほほ、」と尋常な笑い声。

 廊下では、その握られた時氷のように冷たかった、といった手で、頬にかかった(びん)の毛を(もてあそ)びながら、

()(また)御前(ごぜん)も、山の(かい)の婆さまも早かったな。」というと、

「坂下の(あね)さま、御苦労にござるわや。」と手水鉢から見越して言った。

 銀の目をじろじろと、

「さあ、手を貸され、連れて()にましょ。」

       十九

「これの、()呼吸(いき)も、引く呼吸も、もうないかいの、」と()(また)御前(ごぜん)がいえば、

「水くらわしや、」

 と(かい)(ばば)邪慳(じゃけん)である。

 ここで坂下の姉様(あねさま)は、夫人の前髪に手をさし入れ、白き額を平手で()でて、

「まだじゃ、ぬくぬくと暖い。」

「手を掛けて肩を上げされ、(わし)が腰を抱こうわいの。」

 と例の横あるきにその傾いた形を出したが、腰に組んだ手はそのままなり。

 洲の股の御前、(かたわら)より、

「お婆さん、ちょっとその《えい》の針で口の(はた)縫わっしゃれ、声を立てると悪いわや。」

「おいの、そうじゃの。」と廊下でいって、夫人の黒髪を両手で(おさ)えた。

 峡の婆、(わずか)に手を解き、(おとがい)で襟を探って、無性(ぶしょう)らしく(つま)み出した、指の(つめ)の長く生伸(はえの)びたかと見えるのを、一つぶるぶると()って近づき、お伽話(とぎばなし)の絵に描いた外科医者という(てい)で、(おのの)く唇に(かすか)に見える、夫人の白歯(しらは)の上を縫うよ。

 浦子の姿は(はげ)しく揺れたが、声は始めから()立てなかった。目は《みひら》いていたのである

「もう()いわいの、」

 と峡の婆、(かたわら)に身を開くと、坂の下の姉様は、夫人の肩の下へ手を入れて、両方の(わき)を抱いて起した。

 浦子の身は、柔かに半ば起きて(もた)れかかると、そのまま庭へずり下りて、

「ござれ、洲の股の御前、」

 といって、坂下の姉様、夫人の片手を。

 洲の股の御前も、おなじく(かたわら)から夫人の片手を。

 ぐい、と取って、引立(ひった)てる。右と左へ、なよやかに脇を開いて、扱帯(しごき)の端が縁を離れた。髪の根は(まげ)ながら、(こうがい)ながら、がッくりと肩に崩れて、早や五足(いつあし)ばかり、釣られ工合に、手水鉢(ちょうずばち)を、裏の垣根へ誘われ()く。

 背後(うしろ)に残って、砂地に独り峡の婆、(くだん)の手を腰に()めて、(かた)がりながら、片手を前へ、斜めに一煽(ひとあお)り、ハタと煽ると、雨戸はおのずからキリキリと動いて(しま)った。

 二人の婆に(さしはさ)まれ、一人(いちにん)に導かれて、薄墨の絵のように、潜門(くぐりもん)を連れ出さるる時、夫人の姿は(うしろ)ざまに反って、肩へ顔をつけて、振返ってあとを見たが、名残惜しそうであわれであった。

 時しも一面の薄霞(うすがすみ)に、処々(つや)あるよう、月の影に、雨戸は(しん)(つらな)って、朝顔の葉を吹く風に、さっと乱れて、鼻紙がちらちらと、蓮歩(れんぽ)のあとのここかしこ、夫人をしとうて散々(ちりぢり)なり。

        *     *     *     *     *

 あと白浪(しらなみ)の寄せては返す、(なぎさ)長く、身はただ、黄なる雲を()むかと、(もすそ)も空に浜辺を引かれて、どれだけ来たか、海の音のただ轟々(ごうごう)と聞ゆるあたり。

「ここじゃ、ここじゃ。」

 どしりと夫人の横倒(よこたおし)

「来たぞや、来たぞや、」

「今は早や、気随、気ままになるのじゃに。」

 何処(いずこ)(はて)か、砂の上。ここにも船の形の鳥が寝ていた。

 ぐるりと三人、()(がなえ)に夫人を巻いた、金の目と、銀の目と、紅糸(べにいと)の目の六つを、(あし)き星のごとくキラキラと(いさご)の上に輝かしたが、

地蔵菩薩(じぞうぼさつ)祭れ、ふァふァ、」と嘲笑(あざわら)って、山の(かい)がハタと手拍子。

「山の峡は繁昌(はんじょう)じゃ、あはは、」と()(また)御前(ごぜん)、足を挙げる。

「洲の股もめでたいな、うふふ、」

 と北叟笑(ほくそえ)みつつ、坂下の(おうな)は腰を(ひね)った。

 諸声(もろごえ)に、

「ふァふァふァ、」

「うふふ、」

「あはははは。」

「坂の下祝いましょ。」

 今度は洲の股の御前が手を()つ。

「地蔵菩薩祭れ。」

 と山の峡が一足出る、そのあとへ(いしき)を捻って、

「山の峡は繁昌じゃ。」

「洲の股もめでたいな、」とすらりと出る。

 拍子を取って、手を拍って、

「坂の下祝いましょ。」

 据え腰で、ぐいと伸び、

「地蔵菩薩祭れ。」

「山の峡は繁昌じゃ、」

「洲の股もめでたいな、」

「坂の下祝いましょ、」

「地蔵菩薩祭れ。」

 さす手ひく手の調子を合わせた、浪の調(しらべ)、松の曲。おどろおどろと月落ちて、世はただ(もや)となる中に、ものの影が、躍るわ、躍るわ。

       二十

 ここに、一つ目と二つ目の浜境(はまざかい)、浪間の(いわ)(すそ)に浸して、路傍(みちばた)()と高い、一座()のごとき丘がある。

 その頂へ、あけ方の目を血走らして、大息を()いて(たたず)んだのは、狭島(さじま)に宿れる鳥山廉平。

 例の(しま)襯衣(しゃつ)に、その(かすり)単衣(ひとえ)を着て、紺の小倉(こくら)の帯をぐるぐると巻きつけたが、じんじん端折(ばしょ)りの空脛(からずね)に、草履ばきで帽は(かぶ)らず。

 昨日(きのう)は折目も正しかったが、露にしおれて甲斐性(かいしょう)が無さそう、高い処で投首(なげくび)して、(いた)草臥(くたび)れた(さま)が見えた。恐らく驚破(すわ)といって跳ね起きて、別荘中、上を下へ騒いだ中に、襯衣を着けて一つ一つそのこはぜを掛けたくらい、落着いていたものは、この人物ばかりであろう。

 それさえ、夜中から暁へ引出されたような、とり留めのないなり(かたち)(ほか)の人々は思いやられる。

 銑太郎、賢之助、女中の松、仲働(なかばたらき)、抱え車夫はいうまでもない。折から居合わせた賭博仲間(ぶちなかま)の漁師も四五人、別荘を(ひっ)ぷるって、八方へ手を分けて、急に姿の見えなくなった浦子を捜しに()け廻る。今しがた路を挟んだ向う側の山の裾を、ちらちらと(もや)(とも)れて、松明(たいまつ)の火の飛んだもそれよ。廉平がこの丘へ半ば()じ上った頃、消えたか、隠れたか、やがて見えなくなった。

 もとより(あて)のない尋ね人。どこへ、と見当はちっとも着かず、ただ足にまかせて、彼方(かなた)此方(こなた)、同じ処を四五(たび)も、およそ二三里の路はもう歩行(ある)いた。

 不祥な言を放つものは、(いわ)(かわや)から月に浮かれて、浪に誘われたのであろうも知れず、と(すなわ)ち船を()(いだ)したのも有るほどで。

 死んだは、()きたは、本宅の主人へ電報を、と蜘蛛手(くもで)に座敷へ散り乱れるのを、騒ぐまい、騒ぐまい。毛色のかわった犬一疋(いっぴき)(におい)の高い総菜にも、見る目、《か》ぐ鼻の狭い土地がら、(おもかげ)を夢に見て、山へ百合の花折りに飄然(ひょうぜん)として出かけられたかも(はか)られぬを、狭島の夫人、夜半より、その行方(ゆくえ)が分らぬなどと、騒ぐまいぞ、各自(おのおの)。心して内分にお捜し申せと、独り押鎮めて制したこの人。

 廉平とても、夫人が(うお)の寄るを見ようでなし、こんな丘へ、よもや、とは思ったけれども、さて、どこ、という目的(めあて)がないので、船で捜しに出たのに対して、そぞろに雲を(つか)むのであった。

 目の下の浜には、細い木が五六本、ひょろひょろと風に()まれたままの形で、静まり返って見えたのは、時々潮が満ちて根を洗うので、(こずえ)はそれより育たぬならん。ちょうど引潮の海の色は、煙の中に(あい)(たた)えて、(あるい)は十畳、二十畳、五畳、三畳、真砂(まさご)の床に絶えては連なる、平らな岩の、天地(あめつち)()しき手に、鉄槌(かなづち)のあとの見ゆるあり、削りかけの(やすり)の目の立ったるあり。(のみ)の歯形を印したる、(のこぎり)(くず)かと欠々(かけかけ)したる、その一つ一つに、白浪の打たで飜るとばかり見えて音のないのは、岩を飾った海松(みる)、ところ、あわび、(かき)などいうものの、夜半(よわ)に吐いた気を収めず、まだほのぼのと(ゆら)ぐのが、(なぎさ)()めて蒸すのである。

 漁家二三。――深々と苫屋(とまや)を伏せて、屋根より高く口を開けたり、家より大きく底を見せたり、ころりころりと大畚(おおびく)が五つ六つ。

       二十一

 さてこの丘の根に引寄せて、一(そう)(とま)を掛けた船があった。海士(あま)(みの)きる時雨かな、潮の《しぶき》は浴びながら、夜露や(いと)う、ともの優しく、よろけた松に小綱を控え、女男(めお)の波の姿に拡げて、すらすらと乾した網を敷寝に、(みよし)の口がすやすやと、見果てぬ夢の岩枕。

 (かたわら)なる苫屋の背戸に、緑を染めた青菜の畠、結い(めぐ)らした蘆垣(あしがき)も、船も、岩も、ただなだらかな面平(おもたいら)に、空に躍った刎釣瓶(はねつるべ)も、(もや)を放れぬ黒い(いとすじ)()と凹凸なく瞰下(みおろ)さるる、かかる一枚の絵の中に、(もすそ)の端さえ、片袖(かたそで)さえ、美しき夫人の姿を、何処(いずこ)に隠すべくも見えなかった。

 廉平は小さなその下界に対して、高く雲に乗ったように、円く靄に包まれた丘の上に、(ふみ)はずしそうに(がけ)(さき)、五尺の地蔵の像で立ったけれども。

 (こうべ)を垂れて嘆息した。

 さればこの時の風采(ふうさい)は、悪魔の手に捕えられた、一体の善女(ぜんにょ)を救うべく、ここに天降(あまくだ)った菩薩(ぼさつ)に似ず、仙家の(しもべ)の誤って()を破って、下界に追い(おろ)された哀れな趣。

 廉平は腕を(こまぬ)いて悄然(しょうぜん)としたのである。時に海の上にひらめくものあり。

 翼の色の、(かもめ)や飛ぶと見えたのは、波に静かな白帆の片影。

 帆風に散るか、(もや)消えて、と見れば、海に(あらわ)れた、一面(おおい)なる岩の端へ、船はかくれて帆の姿。

 ぴたりとついて留まったが、飜然(ひらり)此方(こなた)(むき)をかえると、(なぎさ)(すわ)った丘の根と、海なるその岩との間、離座敷の二三間、中に泉水を(たた)えた(さま)に、路一条(みちひとすじ)東雲(しののめ)のあけて()く、蒼空(あおぞら)の透くごとく、薄絹の雲左右に分れて、(いわ)(おも)(なび)く中を、船はただ動くともなく、白帆をのせた海が近づき、やがて横ざまに(かろ)くまた渚に(とま)った。

 帆の中より、水際立って、美しく水浅葱(みずあさぎ)に朝露置いた大輪(おおりん)の花一輪、白砂の清き浜に、(うてな)や開くと、(もすそ)(さば)いて()と下り立った、洋装したる一人の婦人。

 夜干(よぼし)に敷いた網の中を、ひらひらと拾ったが、朝景色を()ずるよしして、四辺(あたり)を見ながら、その苫船(とまぶね)に立寄って苫の上に片手をかけたまま、船の方を顧みると、千鳥は()かぬが友呼びつらん。帆の白きより白衣(びゃくえ)の婦人、水紅色(ときいろ)なるがまた一人、続いて前後に船を離れて、左右に分れて身軽に寄った。

 二人は右の(ふなばた)に、一人は左の舷に、その苫船に身を寄せて、(たがい)に苫を取って分けて、船の中を差覗(さしのぞ)いた。淡きいろいろの(きぬ)の裳は、長く渚へ引いたのである。

 廉平は頂の靄を透かして、足許を差覗いて、渠等(かれら)三人の西洋婦人、(おも)うに(あつら)えの出来を見に来たな。苫をふいて伏せたのは、この人々の註文で、浜に新造の短艇(ボオト)ででもあるのであろう。

 と見ると二人の脇の下を、飜然(ひらり)と飛び出した猫がある。

 トタンに一人の肩を越して、空へ躍るかと、もう一匹、続いて(へさき)から()と抜けた。最後のは前脚を揃えて海へ一文字、細長い茶色の胴を一畝(ひとうね)り畝らしたまで鮮麗(あざやか)に認められた。

 前のは白い毛に茶の(まだら)で、中のは、その全身漆のごときが、長く()った尾の先は、(みよし)(かす)めて()せたのである。

       二十二

 その時、前後して、(とま)からいずれも(おもて)を離し、はらはらと船を退()いて、ひたと顔を合わせたが、方向(むき)をかえて、三人とも四辺(あたり)を《みまわ》して(たたず)(さま)、おぼろげながら判然(はっきり)と廉平の目に瞰下(みおろ)された。

 水浅葱(みずあさぎ)のが立樹に寄って、そこともなく仰いだ時、頂なる人の姿を見つけたらしい。

 手を挙げて、二三度(つづけ)ざまに(さしまね)くと、あとの二人もひらひらと、高く手巾(ハンケチ)()るのが見えた。

 要こそあれ。

 廉平は雲を(いだ)くがごとく上から望んで、見えるか、見えぬか、(あわただ)しく(うなず)き答えて、直ちに丘の上に(くびす)(めぐ)らし、栄螺(さざえ)の形に切崩した、処々足がかりの段のある坂を縫って、ぐるぐると()けて下り、(すそ)を伝うて、()と高く、ト一飛(ひととび)低く、草を踏み、岩を渡って、およそ十四五分時を経て、ここぞ、と思う山の根の、波に(さら)された岩の上。

 綱もあり、立樹もあり、大きな(びく)も、またその畚の口と肩ずれに、船を見れば、苫()いたり。あの位高かった、丘は近く(かしら)に望んで、崖の青芒(あおすすき)も手に届くに、婦人(おんな)たちの姿はなかった。白帆は早や(なぎさ)彼方(かなた)に、上からは(たいら)であったが、胸より高く(うずく)まる、海の中なる(いわ)かげを、明石の浦の朝霧に島がくれ()く風情にして。

 かえって別なる船一(そう)、ものかげに隠れていたろう。はじめてここに見出(みいだ)されたが、一つ目の浜の(かた)へ、半町ばかり浜のなぐれに隔つる処に、箱のような小船を浮べて、九つばかりと、八つばかりの、真黒(まっくろ)な男の()。一人はヤッシと艪柄(ろづか)を取って、丸裸の小腰を据え、()すほどに突伏(つッぷ)すよう、引くほどに仰反(のけぞ)るよう、ただそこばかり海が動いて、(へさき)を揺り上げ、揺り下すを面白そうに。(おさな)い方は、両手に(ふなべり)(つか)まりながら、これも裸の肩で躍って、だぶりだぶりだぶりだぶりと同一(おなじ)処にもう一艘、渚に(もや)った親船らしい、()を操る児の丈より高い、他の舷へ波を浴びせて、ヤッシッシ。

 いや、道草する場合でない。

 廉平は、言葉も通じず、国も違って便(たより)がないから、かわって処置せよ、と暗示されたかのごとく、その苫船(とまぶね)の中に何事かあることを悟ったので、心しながら、気は急ぎ、つかつかと毛脛(けずね)長く藁草履(わらぞうり)で立寄った。浜に苫船はこれには限らぬから、(たしか)に、上で見ていたのをと、頂を仰いで一度。まずその二人が前に立った、左の方の舷から、ざくりと苫を上へあげた。……

 ざらざらと藁が揺れて、広き額を差入れて、べとりと頤髯(あごひげ)一面なその柔和な口を結んで、足をやや爪立(つまだ)ったと思うと、両の肩で、吃驚(おどろき)の腹を()んで、けたたましく飛び退()いて、下なる網に(つまず)いて倒れぬばかり、きょとんとして、太い眉の(ひそ)んだ下に、(まなこ)(つぶら)にして四辺(あたり)を眺めた。

 これなる丘と相対して、(むこ)うなる、海の(おも)にむらむらと(はびこ)った、鼠色の濃き雲は、彼処(かしこ)一座の山を包んで、まだ()れやらぬ朝靄(あさもや)にて、もの(すさま)じく空に(ひひ)って、(ほのお)(つらな)って(もゆ)るがごときは、やがて九十度を越えんずる、夏の日を海気につつんで、崖に草なき赤地(あかつち)へ、(ほのか)に反映するのである。

 かくて一つ目の浜は彎入(わんにゅう)する、海にも浜にもこの時、人はただ廉平と、親船を()(めぐ)る長幼二人の裸児(はだかご)あるのみ。

       二十三

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