4話 悪獣篇(4)
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ばたり、閉めた杉戸の音は、かかる夜ふけに、遠くどこまで響いたろう。
壁は白いが、真暗な中に居て、ただそればかりを力にした、玄関の遠あかり、車夫部屋の例のひそひそ声が、このもの音にハタと留んだを、気の毒らしく思うまで、今夜はそれが嬉しかった。
浦子の姿は、無事に厠を背後にして、さし置いたその洋燈の前、廊下のはずれに、媚かしく露われた。
いささか心も落着いて、カチンとせんを、カタカタとさるを抜いた、戸締り厳重な雨戸を一枚。半ば戸袋へするりと開けると、雪ならぬ夜の白砂、広庭一面、薄雲の影を宿して、屋根を越した月の影が、廂をこぼれて、竹垣に葉かげ大きく、咲きかけるか、今、開くと、朝の色は何々ぞ。紺に、瑠璃に、紅絞り、白に、水紅色、水浅葱、莟の数は分らねども、朝顔形の手水鉢を、朦朧と映したのである。
夫人は山の姿も見ず、松も見ず、松の梢に寄る浪の、沖の景色にも目は遣らず、瞳を恍惚見据えるまで、一心に車夫部屋の灯を、遥に、船の夢の、燈台と力にしつつ、手を遣ると、……柄杓に障らぬ。
気にもせず、なお上の空で、冷たく瀬戸ものの縁を撫でて、手をのばして、向うまで辷らしたが、指にかかる木の葉もなかった。
目を返して透かして見ると、これはまた、胸に届くまで、近くあり。
直ぐに取ろうとする、柄杓は、水の中をするすると、反対まえに、山の方へ柄がひとりで廻った。
夫人は手のものを落したように、俯向いて熟と見る。
手水鉢と垣の間の、月の隈暗き中に、ほのぼのと白く蠢くものあり。
その時、切髪の白髪になって、犬のごとく踞ったが、柄杓の柄に、痩せがれた手をしかとかけていた。
夕顔の実に朱の筋の入った状の、夢の俤をそのままに、ぼやりと仰向け、
「水を召されますかいの。」
というと、艶やかな歯でニヤリと笑む。
息とともに身を退いて、蹌踉々々と、雨戸にぴッたり、風に吹きつけられたようになって面を背けた。斜ッかいの化粧部屋の入口を、敷居にかけて廊下へ半身。真黒な影法師のちぎれちぎれな襤褸を被て、茶色の毛のすくすくと蔽われかかる額のあたりに、皺手を合わせて、真俯向けに此方を拝んだ這身の婆は、坂下の藪の姉様であった。
もう筋も抜け、骨崩れて、裳はこぼれて手水鉢、砂地に足を蹈み乱して、夫人は橋に廊下へ倒れる。
胸の上なる雨戸へ半面、ぬッと横ざまに突出したは、青ンぶくれの別の顔で、途端に銀色の眼をむいた。
のさのさのさ、頭で廊下をすって来て、夫人の枕に近づいて、ト仰いで雨戸の顔を見た、額に二つ金の瞳、真赤な口を横ざまに開けて、
「ふァはははは、」
「う、うふふ、うふふ、」と傾がって、戸を揺って笑うと、バチャリと柄杓を水に投げて、赤目の嫗は、
「おほほほほほ、」と尋常な笑い声。
廊下では、その握られた時氷のように冷たかった、といった手で、頬にかかった鬢の毛を弄びながら、
「洲の股の御前も、山の峡の婆さまも早かったな。」というと、
「坂下の姉さま、御苦労にござるわや。」と手水鉢から見越して言った。
銀の目をじろじろと、
「さあ、手を貸され、連れて行にましょ。」
十九
「これの、吐く呼吸も、引く呼吸も、もうないかいの、」と洲の股の御前がいえば、
「水くらわしや、」
と峡の婆が邪慳である。
ここで坂下の姉様は、夫人の前髪に手をさし入れ、白き額を平手で撫でて、
「まだじゃ、ぬくぬくと暖い。」
「手を掛けて肩を上げされ、私が腰を抱こうわいの。」
と例の横あるきにその傾いた形を出したが、腰に組んだ手はそのままなり。
洲の股の御前、傍より、
「お婆さん、ちょっとその《えい》の針で口の端縫わっしゃれ、声を立てると悪いわや。」
「おいの、そうじゃの。」と廊下でいって、夫人の黒髪を両手で圧えた。
峡の婆、僅に手を解き、頤で襟を探って、無性らしく撮み出した、指の爪の長く生伸びたかと見えるのを、一つぶるぶると掉って近づき、お伽話の絵に描いた外科医者という体で、震く唇に幽に見える、夫人の白歯の上を縫うよ。
浦子の姿は烈しく揺れたが、声は始めから得立てなかった。目は《みひら》いていたのである
「もう可いわいの、」
と峡の婆、傍に身を開くと、坂の下の姉様は、夫人の肩の下へ手を入れて、両方の傍を抱いて起した。
浦子の身は、柔かに半ば起きて凭れかかると、そのまま庭へずり下りて、
「ござれ、洲の股の御前、」
といって、坂下の姉様、夫人の片手を。
洲の股の御前も、おなじく傍から夫人の片手を。
ぐい、と取って、引立てる。右と左へ、なよやかに脇を開いて、扱帯の端が縁を離れた。髪の根は髷ながら、笄ながら、がッくりと肩に崩れて、早や五足ばかり、釣られ工合に、手水鉢を、裏の垣根へ誘われ行く。
背後に残って、砂地に独り峡の婆、件の手を腰に極めて、傾がりながら、片手を前へ、斜めに一煽り、ハタと煽ると、雨戸はおのずからキリキリと動いて閉った。
二人の婆に挟まれ、一人に導かれて、薄墨の絵のように、潜門を連れ出さるる時、夫人の姿は後ざまに反って、肩へ顔をつけて、振返ってあとを見たが、名残惜しそうであわれであった。
時しも一面の薄霞に、処々艶あるよう、月の影に、雨戸は寂と連って、朝顔の葉を吹く風に、さっと乱れて、鼻紙がちらちらと、蓮歩のあとのここかしこ、夫人をしとうて散々なり。
* * * * *
あと白浪の寄せては返す、渚長く、身はただ、黄なる雲を蹈むかと、裳も空に浜辺を引かれて、どれだけ来たか、海の音のただ轟々と聞ゆるあたり。
「ここじゃ、ここじゃ。」
どしりと夫人の横倒。
「来たぞや、来たぞや、」
「今は早や、気随、気ままになるのじゃに。」
何処の果か、砂の上。ここにも船の形の鳥が寝ていた。
ぐるりと三人、三つ鼎に夫人を巻いた、金の目と、銀の目と、紅糸の目の六つを、凶き星のごとくキラキラと砂の上に輝かしたが、
「地蔵菩薩祭れ、ふァふァ、」と嘲笑って、山の峡がハタと手拍子。
「山の峡は繁昌じゃ、あはは、」と洲の股の御前、足を挙げる。
「洲の股もめでたいな、うふふ、」
と北叟笑みつつ、坂下の嫗は腰を捻った。
諸声に、
「ふァふァふァ、」
「うふふ、」
「あはははは。」
「坂の下祝いましょ。」
今度は洲の股の御前が手を拍つ。
「地蔵菩薩祭れ。」
と山の峡が一足出る、そのあとへ臀を捻って、
「山の峡は繁昌じゃ。」
「洲の股もめでたいな、」とすらりと出る。
拍子を取って、手を拍って、
「坂の下祝いましょ。」
据え腰で、ぐいと伸び、
「地蔵菩薩祭れ。」
「山の峡は繁昌じゃ、」
「洲の股もめでたいな、」
「坂の下祝いましょ、」
「地蔵菩薩祭れ。」
さす手ひく手の調子を合わせた、浪の調、松の曲。おどろおどろと月落ちて、世はただ靄となる中に、ものの影が、躍るわ、躍るわ。
二十
ここに、一つ目と二つ目の浜境、浪間の巌を裾に浸して、路傍に衝と高い、一座螺のごとき丘がある。
その頂へ、あけ方の目を血走らして、大息を吐いて彳んだのは、狭島に宿れる鳥山廉平。
例の縞の襯衣に、その綛の単衣を着て、紺の小倉の帯をぐるぐると巻きつけたが、じんじん端折りの空脛に、草履ばきで帽は冠らず。
昨日は折目も正しかったが、露にしおれて甲斐性が無さそう、高い処で投首して、太く草臥れた状が見えた。恐らく驚破といって跳ね起きて、別荘中、上を下へ騒いだ中に、襯衣を着けて一つ一つそのこはぜを掛けたくらい、落着いていたものは、この人物ばかりであろう。
それさえ、夜中から暁へ引出されたような、とり留めのないなり形、他の人々は思いやられる。
銑太郎、賢之助、女中の松、仲働、抱え車夫はいうまでもない。折から居合わせた賭博仲間の漁師も四五人、別荘を引ぷるって、八方へ手を分けて、急に姿の見えなくなった浦子を捜しに駈け廻る。今しがた路を挟んだ向う側の山の裾を、ちらちらと靄に点れて、松明の火の飛んだもそれよ。廉平がこの丘へ半ば攀じ上った頃、消えたか、隠れたか、やがて見えなくなった。
もとより当のない尋ね人。どこへ、と見当はちっとも着かず、ただ足にまかせて、彼方此方、同じ処を四五度も、およそ二三里の路はもう歩行いた。
不祥な言を放つものは、曰く厠から月に浮かれて、浪に誘われたのであろうも知れず、と即ち船を漕ぎ出したのも有るほどで。
死んだは、活きたは、本宅の主人へ電報を、と蜘蛛手に座敷へ散り乱れるのを、騒ぐまい、騒ぐまい。毛色のかわった犬一疋、匂の高い総菜にも、見る目、《か》ぐ鼻の狭い土地がら、俤を夢に見て、山へ百合の花折りに飄然として出かけられたかも料られぬを、狭島の夫人、夜半より、その行方が分らぬなどと、騒ぐまいぞ、各自。心して内分にお捜し申せと、独り押鎮めて制したこの人。
廉平とても、夫人が魚の寄るを見ようでなし、こんな丘へ、よもや、とは思ったけれども、さて、どこ、という目的がないので、船で捜しに出たのに対して、そぞろに雲を攫むのであった。
目の下の浜には、細い木が五六本、ひょろひょろと風に揉まれたままの形で、静まり返って見えたのは、時々潮が満ちて根を洗うので、梢はそれより育たぬならん。ちょうど引潮の海の色は、煙の中に藍を湛えて、或は十畳、二十畳、五畳、三畳、真砂の床に絶えては連なる、平らな岩の、天地の奇しき手に、鉄槌のあとの見ゆるあり、削りかけの鑪の目の立ったるあり。鑿の歯形を印したる、鋸の屑かと欠々したる、その一つ一つに、白浪の打たで飜るとばかり見えて音のないのは、岩を飾った海松、ところ、あわび、蠣などいうものの、夜半に吐いた気を収めず、まだほのぼのと揺ぐのが、渚を籠めて蒸すのである。
漁家二三。――深々と苫屋を伏せて、屋根より高く口を開けたり、家より大きく底を見せたり、ころりころりと大畚が五つ六つ。
二十一
さてこの丘の根に引寄せて、一艘苫を掛けた船があった。海士も簑きる時雨かな、潮の《しぶき》は浴びながら、夜露や厭う、ともの優しく、よろけた松に小綱を控え、女男の波の姿に拡げて、すらすらと乾した網を敷寝に、舳の口がすやすやと、見果てぬ夢の岩枕。
傍なる苫屋の背戸に、緑を染めた青菜の畠、結い繞らした蘆垣も、船も、岩も、ただなだらかな面平に、空に躍った刎釣瓶も、靄を放れぬ黒い線。些と凹凸なく瞰下さるる、かかる一枚の絵の中に、裳の端さえ、片袖さえ、美しき夫人の姿を、何処に隠すべくも見えなかった。
廉平は小さなその下界に対して、高く雲に乗ったように、円く靄に包まれた丘の上に、踏はずしそうに崖の尖、五尺の地蔵の像で立ったけれども。
頭を垂れて嘆息した。
さればこの時の風采は、悪魔の手に捕えられた、一体の善女を救うべく、ここに天降った菩薩に似ず、仙家の僕の誤って廬を破って、下界に追い下された哀れな趣。
廉平は腕を拱いて悄然としたのである。時に海の上にひらめくものあり。
翼の色の、鴎や飛ぶと見えたのは、波に静かな白帆の片影。
帆風に散るか、露消えて、と見れば、海に露れた、一面大なる岩の端へ、船はかくれて帆の姿。
ぴたりとついて留まったが、飜然と此方へ向をかえると、渚に据った丘の根と、海なるその岩との間、離座敷の二三間、中に泉水を湛えた状に、路一条、東雲のあけて行く、蒼空の透くごとく、薄絹の雲左右に分れて、巌の面に靡く中を、船はただ動くともなく、白帆をのせた海が近づき、やがて横ざまに軽くまた渚に止った。
帆の中より、水際立って、美しく水浅葱に朝露置いた大輪の花一輪、白砂の清き浜に、台や開くと、裳を捌いて衝と下り立った、洋装したる一人の婦人。
夜干に敷いた網の中を、ひらひらと拾ったが、朝景色を賞ずるよしして、四辺を見ながら、その苫船に立寄って苫の上に片手をかけたまま、船の方を顧みると、千鳥は啼かぬが友呼びつらん。帆の白きより白衣の婦人、水紅色なるがまた一人、続いて前後に船を離れて、左右に分れて身軽に寄った。
二人は右の舷に、一人は左の舷に、その苫船に身を寄せて、互に苫を取って分けて、船の中を差覗いた。淡きいろいろの衣の裳は、長く渚へ引いたのである。
廉平は頂の靄を透かして、足許を差覗いて、渠等三人の西洋婦人、惟うに誂えの出来を見に来たな。苫をふいて伏せたのは、この人々の註文で、浜に新造の短艇ででもあるのであろう。
と見ると二人の脇の下を、飜然と飛び出した猫がある。
トタンに一人の肩を越して、空へ躍るかと、もう一匹、続いて舳から衝と抜けた。最後のは前脚を揃えて海へ一文字、細長い茶色の胴を一畝り畝らしたまで鮮麗に認められた。
前のは白い毛に茶の斑で、中のは、その全身漆のごときが、長く掉った尾の先は、舳を掠めて失せたのである。
二十二
その時、前後して、苫からいずれも面を離し、はらはらと船を退いて、ひたと顔を合わせたが、方向をかえて、三人とも四辺を《みまわ》して彳む状、おぼろげながら判然と廉平の目に瞰下された。
水浅葱のが立樹に寄って、そこともなく仰いだ時、頂なる人の姿を見つけたらしい。
手を挙げて、二三度続ざまに麾くと、あとの二人もひらひらと、高く手巾を掉るのが見えた。
要こそあれ。
廉平は雲を抱くがごとく上から望んで、見えるか、見えぬか、慌しく領き答えて、直ちに丘の上に踵を回らし、栄螺の形に切崩した、処々足がかりの段のある坂を縫って、ぐるぐると駈けて下り、裾を伝うて、衝と高く、ト一飛低く、草を踏み、岩を渡って、およそ十四五分時を経て、ここぞ、と思う山の根の、波に曝された岩の上。
綱もあり、立樹もあり、大きな畚も、またその畚の口と肩ずれに、船を見れば、苫葺いたり。あの位高かった、丘は近く頭に望んで、崖の青芒も手に届くに、婦人たちの姿はなかった。白帆は早や渚を彼方に、上からは平であったが、胸より高く踞まる、海の中なる巌かげを、明石の浦の朝霧に島がくれ行く風情にして。
かえって別なる船一艘、ものかげに隠れていたろう。はじめてここに見出されたが、一つ目の浜の方へ、半町ばかり浜のなぐれに隔つる処に、箱のような小船を浮べて、九つばかりと、八つばかりの、真黒な男の児。一人はヤッシと艪柄を取って、丸裸の小腰を据え、圧すほどに突伏すよう、引くほどに仰反るよう、ただそこばかり海が動いて、舳を揺り上げ、揺り下すを面白そうに。穉い方は、両手に舷に掴まりながら、これも裸の肩で躍って、だぶりだぶりだぶりだぶりと同一処にもう一艘、渚に纜った親船らしい、艪を操る児の丈より高い、他の舷へ波を浴びせて、ヤッシッシ。
いや、道草する場合でない。
廉平は、言葉も通じず、国も違って便がないから、かわって処置せよ、と暗示されたかのごとく、その苫船の中に何事かあることを悟ったので、心しながら、気は急ぎ、つかつかと毛脛長く藁草履で立寄った。浜に苫船はこれには限らぬから、確に、上で見ていたのをと、頂を仰いで一度。まずその二人が前に立った、左の方の舷から、ざくりと苫を上へあげた。……
ざらざらと藁が揺れて、広き額を差入れて、べとりと頤髯一面なその柔和な口を結んで、足をやや爪立ったと思うと、両の肩で、吃驚の腹を揉んで、けたたましく飛び退いて、下なる網に躓いて倒れぬばかり、きょとんとして、太い眉の顰んだ下に、眼を円にして四辺を眺めた。
これなる丘と相対して、対うなる、海の面にむらむらと蔓った、鼠色の濃き雲は、彼処一座の山を包んで、まだ霽れやらぬ朝靄にて、もの凄じく空に冲って、焔の連って燃るがごときは、やがて九十度を越えんずる、夏の日を海気につつんで、崖に草なき赤地へ、仄に反映するのである。
かくて一つ目の浜は彎入する、海にも浜にもこの時、人はただ廉平と、親船を漕ぎ繞る長幼二人の裸児あるのみ。
二十三