8話 第八
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朝晩見馴れて珍らしくもない猿だけれど、いまこんなこと考え出していろんなこと思つて見ると、また殊にものなつかしい、あのおかしな顔早くいつて見たいなと、さう思つて、窓に手をついてのびあがつて、づゝと肩まで出すと《しぶき》がかゝつて、眼のふちがひやりとして、冷たい風が頬を撫でた。
爾時仮橋ががた/\いつて、川面の小糠雨を掬ふやうに吹き乱すと、流が黒くなつて颯と出た。トいつしよに向岸から橋を渡つて来る、洋服を着た男がある。
橋板がまた、がツたりがツたりいつて、次第に近づいて来る、鼠色の洋服で、釦をはづして、胸を開けて、けば/\しう襟飾を出した、でつぷり紳士で、胸が小さくツて、下腹の方が図ぬけにはずんでふくれた、脚の短い、靴の大きな、帽子の高い、顔の長い、鼻の赤い、其は寒いからだ。そして大跨に、其逞い靴を片足づゝ、やりちがへにあげちやあ歩行いて来る、靴の裏の赤いのがぽつかり、ぽつかりと一ツづゝ此方から見えるけれど、自分じやあ、其爪さきも分りはしまい。何でもあんなに腹のふくれた人は臍から下、膝から上は見たことがないのだとさういひます。あら! あら! 短服に靴を穿いたものが転がつて来るぜと、思つて、じつと見て居ると、橋のまんなかあたりへ来て鼻眼鏡をはづした、《しぶき》がかゝつて曇つたと見える。
で、衣兜から半拭を出して、拭きにかゝつたが、蝙蝠傘を片手に持つて居たから手を空けやうとして咽喉と肩のあひだへ柄を挟んで、うつむいて、珠を拭ひかけた。
これは今までに幾度も私見たことのある人で、何でも小児の時は物見高いから、そら、婆さんが転んだ、花が咲いた、といつて五六人人だかりのすることが眼の及ぶ処にあれば、必ず立つて見るが何処に因らずで場所は限らない、すべて五十人以上の人が集会したなかには必ずこの紳士の立交つて居ないといふことはなかつた。
見る時にいつも傍の人を誰か知らつかまへて、尻上りの、すました調子で、何かものをいつて居なかつたことは殆んど無い、それに人から聞いて居たことは曾てないので、いつでも自分で聞かせて居る、が、聞くものがなければ独で、むゝ、ふむ、といつたやうな、承知したやうなことを独言のやうでなく、聞かせるやうにいつてる人で、母様も御存じで、彼は博士ぶりといふのであるとおつしやつた。
けれども鰤ではたしかにない、あの腹のふくれた様子といつたら、宛然、鮟鱇に肖て居るので、私は蔭じやあ鮟鱇博士とさういひますワ。此間も学校へ参観に来たことがある。其時も今被つて居る、高い帽子を持つて居たが、何だつてまたあんな度はづれの帽子を着たがるんだらう。
だつて、眼鏡を拭かうとして、蝙蝠傘を頤で押へて、うつむいたと思ふと、ほら/\、帽子が傾いて、重量で沈み出して、見てるうちにすつぼり、赤い鼻の上へ被さるんだもの。眼鏡をはづした上で帽子がかぶさつて、眼が見えなくなつたんだから驚いた、顔中帽子、唯口ばかりが、其口を赤くあけて、あはてゝ、顔をふりあげて、帽子を揺りあげやうとしたから蝙蝠傘がばツたり落ちた。落こちると勢よく三ツばかりくる/\とまつた間に、鮟鱇博士は五ツばかりおまはりをして、手をのばすと、ひよいと横なぐれに風を受けて、斜めに飛んで、遙か川下の方へ憎らしく落着いた風でゆつたりしてふわりと落ちるト忽ち矢の如くに流れ出した。
博士は片手で眼鏡を持つて、片手を帽子にかけたまゝ烈しく、急に、殆んど数へる遑がないほど靴のうらで虚空を踏むだ、橋ががた/\と動いて鳴つた。
「母様、母様、母様」
と私は足ぶみをした。
「あい。」としづかに、おいひなすつたのが背後に聞こえる。
窓から見たまゝ振向きもしないで、急込んで、
「あら/\流れるよ。」
「鳥かい、獣かい。」と極めて平気でいらつしやる。
「蝙蝠なの、傘なの、あら、もう見えなくなつたい、ほら、ね、流れツちまひました。」
「蝙蝠ですと。」
「あゝ、落ツことしたの、可哀想に。」
と思はず嘆息をして呟いた。
母様は笑を含むだお声でもつて、
「廉や、それはね、雨が晴れるしらせなんだよ。」
此時猿が動いた。