照葉狂言

8話 野衾 二

1,763字 約4分 2013年7月25日 公開

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 印半纏(しるしばんてん)()たる壮佼(わかもの)の、軒に梯子(はしご)さして昇りながら、一つずつ提灯に()ともすが、右の(かた)より始めたれば、小親という名、ぱっと墨色濃く、(あざや)かに最初の火に(てら)されつ。蝋燭(ろうそく)の煮え込まざれば、その他はみな朧気(おぼろげ)なりき。

 ありたけの提灯あかくなりたる後に、一昨日(おととい)も、その(さき)の日も、昨日(きのう)も来つ。この(ゆうべ)は時やや早かりければ、しばしわれ木戸の前に歩行(ある)くともなく(たたず)みつつ、幾度(いくたび)か小親の名を仰ぎ見たり。名を見るさえ他のものとは違いて、そぞろに興ある感起りぬ。かねてその牛若に(ふん)せし姿、(いた)くわが心にかないたり。

 見物は(いま)(きた)り集わず。木戸番の(ともしび)大通(おおどおり)より吹きつくる風に揺れて、肌寒う覚ゆる折しも、三台ばかり(くるま)をならべて、東より(さっ)と乗着けしが、一斉に(ながえ)をおろしつ、と見る時、女一人おり立ちたり。続いて一(にん)片足を下せるを、後なる俥より出でたる女、つと来て肩を貸すに手を掛けてひらりと下りたり。先なるは紫の包を持ちて手に捧げつ。左右に二(にん)引添いたる、真中(まんなか)に丈たかきは、あれ誰やらむ、と見やりしわれを、左なる女木戸を()りざま、()と目を注ぎて、

「おや、お師匠様。」

 また一(にん)

「あの、このお子ですよ。」と低声(こごえ)に言いたり。聞棄てながら一歩を移せし舞の師匠は振返りつ。(さや)かなる眼にキトわれを見しが、互に肩を擦合せて小走りに()るよとせしに、つかつかと引返して、冷たき(きぬ)の袖もてわが(うなじ)を抱くや否や、アと叫ぶ頬をしたたかに吸いぬ。

 ややありてわれ眼を《みは》りたり。三人は早や木戸を入りて見えざりき。あまり不意なれば、茫然(ぼうぜん)として立ったるに、ふと思い出でしは野衾の事なりき。(にわか)に恐しくなりて(くびす)を返す。(とおり)の角に、われを見て笑いながら彳みたるは、その頃わが家に抱えられたる(そめ)という女なり。

 走り()きて胸に(すが)りぬ。

(こわ)かったよ、染ちゃん恐かったよ。」

「そう、恐かったの、貢さんはあれが恐いのかい。」

「見ていたの。」

「ああ見ていたとも、私が禁厭(おまじない)をしてあげたから何とも無かったんですわ。危ないことね。」

「恐かったよ。染ちゃん、顔をね、包んでしまったから呼吸(いき)が出なかったの。そうして(ひど)いの、あの(ほっ)ぺたを吸ったんだ。チュッてそう云ったよ、痛いよ、染ちゃん。」

 染は眉を(ひそ)めて仔細(しさい)らしく、

「どれ、ちょいとお見せ。」

 と言いつつ、「て」「り」「は」の提灯のあかりに向けて(すか)し見るより、

「おや、おや、おや、大変。まあ。」とけたたましく言うに、わが胸(とどろ)きたり。おどおどすれば真顔になりて、

「乱暴だ、酷いことをするわ、野衾が吸ったんだね、貢さん、血が出てるわ。……おや。」

 驚きて、

「あら、泣くんじゃアありません。何ともないよ、直ぐ治るから往来で何のこッたね、あら、泣かないでさ。」

 と小腰を(かが)めて、湯に()きし帰途(かえり)なれば、手拭(てぬぐい)の濡れたるにて、その血の(あと)というもの(ぬぐ)いたり。

「さあ、治りました。もう何ともないよ。」

 と(すか)す、血の出たるが、こう早く()ゆべしとは、われ信ぜず。

「嫌だ、嫌だ、痛いや、治りやしないや。」

「困るね。」

 いう折しもまたここに来かかりしは、むかいなるかの女房なりき。われはまた彼方(かなた)に縋りぬ。

「小母さん、恐かったよ。あのね、野衾が血を吸ったの。恐かったよ。」

「え、どうしたって云うの、大変だ、あの野衾がね。」

 (かたわら)より、

「姉さんほんとうですよ、あのね。」

 と言いつつ、ひたと身を寄せ、染は耳朶(みみたぶ)(ささや)きて、

「ね、ほんとうでしょう……ですからさ。」とまた笑えり。

 女房は微笑(ほほえ)みながら、

不可(いけな)いよ。貢さんは何でもほんとにするから(だま)されるんだよ。この(にぎや)かなのに、何だってまた野衾なんかが出るものかね。嘘だよ、綺麗な野衾だから結構さ。」

「あら姉さん。」

「お()しよ。そんなこと()って(おど)すのは虫の毒さ、私も懲りたことが有るんだからね、欺しッこなし。貢さん、なに血なもんかね、御覧よ。」

 中指のさきを口に含みて、やがて見せたる、血の色つきたり。

(べに)さ。野衾でも何でも()いやね。貢さんを可愛がるんだもの、恐くはないから行って御覧、折角、気晴(きばらし)()くのものを、ねえ。此奴(こいつ)が、」

「あれ。」

「あばよ。」とばかり別れたる、囃子(はやし)の音おもしろきに、恐しき念も()せて、(せわ)しくまた木戸に()きぬ。

 能は始まりたり。早くと思うに、木戸番の男、鼻低う唇厚きが、わが顔を見てニタニタと笑いいたれば、何をか思うと、その心はかり兼ねて猶予(ためら)いぬ。

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