8話 野衾 二
読み方を変える
印半纏被たる壮佼の、軒に梯子さして昇りながら、一つずつ提灯に灯ともすが、右の方より始めたれば、小親という名、ぱっと墨色濃く、鮮かに最初の火に照されつ。蝋燭の煮え込まざれば、その他はみな朧気なりき。
ありたけの提灯あかくなりたる後に、一昨日も、その前の日も、昨日も来つ。この夕は時やや早かりければ、しばしわれ木戸の前に歩行くともなく彳みつつ、幾度か小親の名を仰ぎ見たり。名を見るさえ他のものとは違いて、そぞろに興ある感起りぬ。かねてその牛若に扮せし姿、太くわが心にかないたり。
見物は未だ来り集わず。木戸番の燈大通より吹きつくる風に揺れて、肌寒う覚ゆる折しも、三台ばかり俥をならべて、東より颯と乗着けしが、一斉に轅をおろしつ、と見る時、女一人おり立ちたり。続いて一人片足を下せるを、後なる俥より出でたる女、つと来て肩を貸すに手を掛けてひらりと下りたり。先なるは紫の包を持ちて手に捧げつ。左右に二人引添いたる、真中に丈たかきは、あれ誰やらむ、と見やりしわれを、左なる女木戸を入りざま、偶と目を注ぎて、
「おや、お師匠様。」
また一人、
「あの、このお子ですよ。」と低声に言いたり。聞棄てながら一歩を移せし舞の師匠は振返りつ。冴かなる眼にキトわれを見しが、互に肩を擦合せて小走りに入るよとせしに、つかつかと引返して、冷たき衣の袖もてわが頸を抱くや否や、アと叫ぶ頬をしたたかに吸いぬ。
ややありてわれ眼を《みは》りたり。三人は早や木戸を入りて見えざりき。あまり不意なれば、茫然として立ったるに、ふと思い出でしは野衾の事なりき。俄に恐しくなりて踵を返す。通の角に、われを見て笑いながら彳みたるは、その頃わが家に抱えられたる染という女なり。
走り行きて胸に縋りぬ。
「恐かったよ、染ちゃん恐かったよ。」
「そう、恐かったの、貢さんはあれが恐いのかい。」
「見ていたの。」
「ああ見ていたとも、私が禁厭をしてあげたから何とも無かったんですわ。危ないことね。」
「恐かったよ。染ちゃん、顔をね、包んでしまったから呼吸が出なかったの。そうして酷いの、あの頬ぺたを吸ったんだ。チュッてそう云ったよ、痛いよ、染ちゃん。」
染は眉を顰めて仔細らしく、
「どれ、ちょいとお見せ。」
と言いつつ、「て」「り」「は」の提灯のあかりに向けて透し見るより、
「おや、おや、おや、大変。まあ。」とけたたましく言うに、わが胸轟きたり。おどおどすれば真顔になりて、
「乱暴だ、酷いことをするわ、野衾が吸ったんだね、貢さん、血が出てるわ。……おや。」
驚きて、
「あら、泣くんじゃアありません。何ともないよ、直ぐ治るから往来で何のこッたね、あら、泣かないでさ。」
と小腰を屈めて、湯に行きし帰途なれば、手拭の濡れたるにて、その血の痕というもの拭いたり。
「さあ、治りました。もう何ともないよ。」
と賺す、血の出たるが、こう早く癒ゆべしとは、われ信ぜず。
「嫌だ、嫌だ、痛いや、治りやしないや。」
「困るね。」
いう折しもまたここに来かかりしは、むかいなるかの女房なりき。われはまた彼方に縋りぬ。
「小母さん、恐かったよ。あのね、野衾が血を吸ったの。恐かったよ。」
「え、どうしたって云うの、大変だ、あの野衾がね。」
傍より、
「姉さんほんとうですよ、あのね。」
と言いつつ、ひたと身を寄せ、染は耳朶に囁きて、
「ね、ほんとうでしょう……ですからさ。」とまた笑えり。
女房は微笑みながら、
「不可いよ。貢さんは何でもほんとにするから欺されるんだよ。この賑かなのに、何だってまた野衾なんかが出るものかね。嘘だよ、綺麗な野衾だから結構さ。」
「あら姉さん。」
「お止しよ。そんなこと謂って威すのは虫の毒さ、私も懲りたことが有るんだからね、欺しッこなし。貢さん、なに血なもんかね、御覧よ。」
中指のさきを口に含みて、やがて見せたる、血の色つきたり。
「紅さ。野衾でも何でも可いやね。貢さんを可愛がるんだもの、恐くはないから行って御覧、折角、気晴に行くのものを、ねえ。此奴が、」
「あれ。」
「あばよ。」とばかり別れたる、囃子の音おもしろきに、恐しき念も失せて、忙しくまた木戸に行きぬ。
能は始まりたり。早くと思うに、木戸番の男、鼻低う唇厚きが、わが顔を見てニタニタと笑いいたれば、何をか思うと、その心はかり兼ねて猶予いぬ。