7話 野衾 一
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その翼広げたる大きさは鳶に較うべし。野衾と云うは蝙蝠の百歳を経たるなり。年紀六十に余れる隣の扇折の翁が少き時は、夜ごとにその姿見たりし由、近き年は一年に三たび、三月に一度など、たまたまならでは人の眼に触れずという。一尾ならず、二ツ三ツばかりある。普通の小さきものとは違いて、夏の宵、夕月夜、灯す時、黄昏には出来らず。初夜すぎてのちともすればその翼もて人の面を蔽うことあり。柔かに冷き風呂敷のごときもの口に蓋するよと見れば、胸の血を吸わるるとか。幻のごとく軒に閃きて、宮なる鳥居を掠め、そのまま隠れ去る。かの酒屋の庫と、観世物小屋の間まで、わが家より半町ばかり隔りし。真中に古井戸一ツありて、雑草の生い茂りたる旧空地なりしに、その小屋出来たるは、もの心覚えし後なり。
興行あるごとに打囃す鳴物の音頼母しく、野衾の恐れも薄らぐに、行きて見れば、木戸の賑いさえあるを、内はいかにおもしろからむ。母上いませし折は、わが見たしと云うを許したまわず、野衾の居て恐しき処なるに、いかでこの可愛きもの近寄らしむべきとて留めたまいぬ。
亡き人となりたまいて後は、わが寂しがるを慰めむとや、伯母上は快よく日ごとに出だしたまう。場内の光景は見馴れて明に覚えたり。
土間、引船、桟敷などいうべきを、鶉、出鶉、坪、追込など称えたり。舞台も、花道も芝居のごとくに出来たり。人数一千は入るるを得たらむ。
木戸には桜の造花を廂にさして、枝々に、赤きと、白きと、数あまた小提灯に、「て。」「り。」「は。」と一つひとつ染め抜きたるを、夥しく釣して懸け、夕暮には皆灯すなりけり。その下あたり、札をかかげて、一人々々役者の名を筆太にこそ記したれ。小親というあり、重子というあり、小松というあり、秋子というあり、細字もてしのぶというあり。小光、小稲と書きつらねて、別に傍に小六と書いたり。