照葉狂言

7話 野衾 一

774字 約2分 2013年7月25日 公開

読み方を変える
字の大きさ
行の間隔
1行の長さ
書体
配色
組み方

 その翼広げたる大きさは(とび)(たぐ)うべし。野衾(のぶすま)と云うは蝙蝠(こうもり)百歳(ももとせ)を経たるなり。年紀(とし)六十に余れる隣の扇折(おうぎおり)(おじ)(わか)き時は、夜ごとにその姿見たりし由、近き年は一年(ひととせ)に三たび、三月に一(たび)など、たまたまならでは人の眼に触れずという。一尾ならず、二ツ三ツばかりある。普通(なみ)の小さきものとは違いて、夏の宵、夕月夜、(ひとも)す時、黄昏(たそがれ)には出来(いできた)らず。初夜すぎてのちともすればその翼もて人の(おもて)(おお)うことあり。柔かに冷き風呂敷のごときもの口に(ふた)するよと見れば、胸の血を吸わるるとか。幻のごとく軒に(ひらめ)きて、宮なる鳥居を(かす)め、そのまま隠れ去る。かの酒屋の(くら)と、観世物(みせもの)小屋の間まで、わが家より半町ばかり隔りし。真中(まんなか)に古井戸一ツありて、雑草の生い茂りたる(もと)空地なりしに、その小屋出来たるは、もの心覚えし後なり。

 興行あるごとに打囃(うちはや)鳴物(なりもの)の音頼母(たのも)しく、野衾の恐れも薄らぐに、()きて見れば、木戸の(にぎわ)いさえあるを、内はいかにおもしろからむ。母上いませし折は、わが見たしと云うを許したまわず、野衾の居て恐しき処なるに、いかでこの可愛(かわゆ)きもの近寄らしむべきとて(とど)めたまいぬ。

 亡き人となりたまいて後は、わが寂しがるを慰めむとや、伯母上は快よく日ごとに出だしたまう。場内の光景は見()れて(あきらか)に覚えたり。

 土間、引船、桟敷(さじき)などいうべきを、(うずら)出鶉(でうずら)、坪、追込など(とな)えたり。舞台も、花道も芝居のごとくに出来たり。人数一千は()るるを得たらむ。

 木戸には桜の造花(つくりばな)(ひさし)にさして、枝々に、赤きと、白きと、数あまた小提灯(こぢょうちん)に、「て。」「り。」「は。」と一つひとつ染め抜きたるを、(おびただ)しく(つる)して懸け、夕暮には皆(ひとも)すなりけり。その下あたり、札をかかげて、一人々々役者の名を筆太にこそ記したれ。小親(こちか)というあり、重子というあり、小松というあり、秋子というあり、細字(さいじ)もてしのぶというあり。小光、小稲(こいな)と書きつらねて、別に(かたわら)に小六と書いたり。

目次に戻る

目次