遺稿 02 遺稿

1話 遺稿 02 遺稿(1)

6,598字 約13分 2017年3月23日 公開

読み方を変える
字の大きさ
行の間隔
1行の長さ
書体
配色
組み方

 この無題の小説は、泉先生逝去後、机辺の篋底(きょうてい)に、夫人の見出されしものにして、いつ頃書かれしものか、これにて完結のものか、はたまた未完結のものか、今はあきらかにする(すべ)なきものなり。昭和十四年七月号中央公論掲載の、「縷紅新草(るこうしんそう)」は、先生の生前発表せられし最後のものにして、その完成に(つく)くされし努力は既に(やまい)を内に潜めいたる先生の肉体をいたむる事深く、その後再び机に(むか)われしこと無かりしという。果して(しか)らばこの無題の小説は「縷紅新草」以前のものと見るを至当とすべし。原稿はやや古びたる半紙に筆と墨をもって書かれたり。紙の古きは大正六年はじめて万年筆を使用されし以前に(あがな)われしものを偶々(たまたま)引出して用いられしものと覚しく、墨色は未だ新しくしてこの作の近き頃のものたる事を(あか)す。主人公の名の糸七は「縷紅新草」のそれとひとしく、点景に赤蜻蛉(あかとんぼ)のあらわるる事もまた相似たり。「どうもこう怠けていてはしかたが無いから、春になったら少し稼ごうと思っています。」と先生の私に語られしは昨年の暮の事なりき。恐らくこの無題の小説は今年のはじめに起稿されしものにはあらざるか。

 雑誌社としては無題を迷惑がる事察するにあまりあれど、さりとて他人がみだりに命題すべき筋合(すじあい)にあらざるを以て、(しい)てそのまま掲出すべきことを希望せり。

(水上瀧太郎附記)

 伊豆の修禅寺(しゅぜんじ)の奥の院は、いろは仮名四十七、道しるべの石碑を(なわて)、山の根、村口に数えて、ざっと一里余りだと言う、第一のいの碑はたしかその御寺の正面、虎渓橋(こけいきょう)に向った石段の傍にあると思う……ろはと数えて道順ににのあたりが俗に釣橋釣橋と言って、渡ると小学校がある、が、それを渡らずに右へ廻るとほの碑に続く、何だか大根畠から首をもたげて指示(ゆびさ)しをするようだけれど、このお話に一寸(ちょっと)要があるので、頬被(ほおかむり)をはずして申しておく。

 もう温泉場からその釣橋へ行く道の半ばからは、一方が小山の(すそ)、左が小流(こながれ)を間にして、田畑になる、橋向うへ廻ると、山の裙は山の裙、田畑は田畑それなりの道続きが、大畝(おおうね)りして向うに小さな土橋の見えるあたりから、(おのず)から静かな寂しい参拝道となって、次第に俗地を遠ざかる思いが(おこ)るのである。

 土地では弘法様のお祭、お祭といっているが春秋二季の大式日(だいしきじつ)、月々の命日は知らず、不断(ふだん)、この奥の院は、長々と螺線(らせん)をゆるく田畝(でんぽ)の上に(めぐ)らした、処々(ところどころ)萱薄(かやすすき)、草々の茂みに立ったしるべの石碑を、杖笠を棄てて(たたず)んだ順礼、(どう)しゃの姿に見せる、それとても行くとも(かえ)るともなく煢然(けいぜん)として独り(たたず)むばかりで、往来の人は(ほとん)どない。

 またそれだけに、奥の院は幽邃森厳(ゆうすいしんげん)である。畷道(あぜみち)を桂川の上流に辿ると、迫る処怪石(かいせき)巨巌(きょがん)磊々(らいらい)たるはもとより古木大樹千年古き、楠槐(なんかい)の幹も根もそのまま大巌に化したようなのが々と立聳(たちそび)えて、(たちま)ち石門砦高く、無斎式、不精進の、わけては、病身(びょうしん)たりとも、がたくり、ふらふらと道わるを自動車にふんぞって来た奴等を、目さえ切塞(きりふさ)いだかと驚かれる、が、慈救の橋は、易々と欄干(らんかん)づきで、(しずか)(たいら)かな境内へ、通行を許さる。

 下車は言うまでもなかろう。

 御堂(おどう)(さっ)と松風よりも杉の()(ひのき)の香の清々(すがすが)しい森々(しんしん)とした樹立(こだち)の中に、青龍の背をさながらの石段の上に玉面の獅子頭の如く築かれて、背後の大碧巌(だいへきがん)より一筋水晶の滝が杖を鳴らして垂直に落ちて仰ぐも尊い。

 境内わきの、左手の庵室、障子を閉して、……ただ、仮に差置いたような庵ながら(かまえ)は縁が高い、端近(はしぢか)三宝(さんぼう)を二つ置いて、一つには横綴の帳一冊、一つには奉納の米袋、ぱらぱらと少しこぼれて、おひねりというのが捧げてある、真中に硯箱が出て、朱書が添えてある。これは、俗名と戒名と、現当過去、未来、志す処の差によって、おもいおもいにその姓氏仏号を記すのであろう。

「お(ふだ)を頂きます。」

 ――お札は、それは米袋に添えて三宝に調えてある、そのままでもよかったろうが、もうやがて近い……年頭御慶の客に対する、近来流行の、式台は悪冷(わるつめた)く外套を脱ぐと(くさめ)が出そうなのに御内証(ごないしょう)煖炉(だんろ)のぬくもりにエヘンとも言わず、……蒔絵の名札受(なふだうけ)が出ているのとは()と勝手が違うようだから――私ども夫婦と、もう一人の若い方、と云って三十を越えた娘……分か? 女房の義理の姪、娘が縁づいたさきの舅の叔母の従弟の子で面倒だけれど、姉妹分の娘だから義理の姪、どうも事実のありのままにいうとなると説明は止むを得ない。とに角、若いから紅気(こうき)がある、長襦袢の(つま)がずれると、縁が高いから草履を釣られ気味に伸上って、

「ごめん下さいまし。」

 すぐに返事のない処へ、小肥りだけれど気が早いから、三宝越に、眉で覗くように手を伸ばして障子腰を細目に開けた。

 山気(さんき)(みどり)に滴って、詣ずるものの袖は墨染のようだのに、向った背戸庭(せどにわ)は、一杯の日あたりの、ほかほかとした裏縁の障子の開いた壁際は、留守居かと思う質素な老僧が、小机に(むか)い、つぐなんで、うつしものか、かきものをしてござった。

「ごめん下さいまし、お札を頂きます。」

 黒い前髪、白い顔が這うばかり低く出たのを、蛇体と眉も(ひそ)めたまわず、目金越(めがねごし)(まつげ)の皺が、日南(ひな)にとろりと()と伸びて、

「ああ、お札はの、御随意にの預かっしゃってようござるよ。」

 と膝も頭も声も円い。

「はい。」

 と、立直って、襟の下へ一寸(ちょっと)端を見せてお札を受けた、が、老僧と机ばかり円光の(うち)の日だまりで、あたりは森閑(しんかん)した、人気のないのに、何故か心を引かれたらしい。

「あの、あなた。」

 こうした場所だ、対手(あいて)は弘法様の化身かも知れないのに、馴々(なれなれ)しいこという。

「お一人でございますか。」

「おお、留守番の隠居爺じゃ。」

(たっ)たお一人。」

「さればの。」

「お寂しいでしょうね、こんな処にお一人きり。」

「いや、お堂裏へは、近い頃まで猿どもが出て来ました、それはもう見えぬがの、日和(ひより)さえよければ、この背戸へ山鳥が二羽ずつで遊びに来ますで、それも友になる、それ。」

 目金がのんどりと、日に半面に庭の方へ傾いて、

「巌の根の木瓜(ぼけ)の中に、今もの、来ていますわ。これじゃ寂しいとは思いませぬじゃ。」

「はア。」

 と息とともに娘分は胸を引いた、で、何だか考えるような顔をしたが、「山鳥がお友だち、洒落てるわねえ。」と下向(げこう)の橋を渡りながら言った、――「洒落てるわねえ」では困る、罪障(ざいしょう)の深い女性は、ここに至ってもこれを聞いても尼にもならない。

 どころでない、宿へ(もど)ると、晩餉(ばんげ)卓子台(ちゃぶだい)もやい、一銚子の相伴(しょうばん)、二つ三つで、赤くなって、ああ紅木瓜になった、と頬辺を(おさ)えながら、山鳥の旦那様はいい男か知ら。いや、尼(どころ)か、このくらい悟り得ない事はない。「お日和(ひより)で、坊さんはお友だちでよかったけれど、番傘はお茶を引きましたわ。」と言った。

 出掛けに、実は春の末だが、そちこち梅雨入模様で、時々気まぐれに、白い雲が薄墨の影を流してばらばらと掛る。其処(そこ)で自動車の中へ番傘を二本まで、奥の院御参詣結縁(けちえん)のため、「御縁日だとこの下で飴を売る奴だね、」「へへへ、お土産をどうぞ。」と世馴れた番頭が真新しい油もまだ白いのを、ばりばりと綴枠(とじわく)をはずして入れた。

 贅沢を云っては悪いが、この暖さと、長閑(のどか)さの真中には一降(ひとふ)り来たらばと思った。(みち)近い農家の背戸に牡丹の緋に咲いて(しべ)の香に黄色い雲の色を(たた)えたのに、舞う蝶の(はね)袖のびの影が、仏前に捧ぐる(たえ)なる白い手に見える。遠方の小さい(かすか)な茅屋を包んだ一むら竹の奥深く、山はその麓なりに咲込んだ映山紅に()つ半ば濃い陽炎(かげろう)のかかったのも里親しき護摩(ごま)の燃ゆる姿であった。傘さしてこの牡丹に(たたず)み、すぼめて、あの竹藪を分けたらばと詣ずる道すがら思ったのである。

 土手には田芹(たぜり)(ふき)が満ちて、蒲公英(たんぽぽ)はまだ盛りに、目に幻のあの白い小さな車が自動車の輪に競って飛んだ。いま、その(かえ)りがけを道草を、(ざる)に洗って、縁に近く晩の卓子台を囲んでいたが、

 ――番傘がお茶を引いた――

 おもしろい。

 悟って尼にならない事は、(およ)そ女人以上の糸七(いとしち)であるから、折しも欄干越の桂川の(ながれ)をたたいて、ざっと降出(ふりだ)した雨に気競って、

「おもしろい、その番傘にお茶をひかすな。」

 宿つきの運転手の馴染なのも、ちょうど帳場に居わせた。

 九時頃であった。

「さっきの番傘の新造を二人……どうぞ。」

「ははは、お(たのし)みで……」

 番頭の八方無碍(むげ)の会釈をして、その真新しいのをまた運転手の傍へ立掛けた。

 しばらくして、この傘を、さらさらと降る雨に薄白く暗夜(やみよ)にさして、女たちは袖を合せ糸七が一人立ちで一畝(ひとうね)水田(みずた)を前にして彳んだ処は、今しがた大根畑から首を出して(ゆびさ)しをした奥の院道の土橋を(はるか)に見る――一方は例の釣橋から、一方は(とんび)(くちばし)のように上へ(かぶ)さった山の端を潜って、奥在所へさながら谷のように深く入る――俗に三方、また信仰の道に(ちな)んで三宝ヶ辻と呼ぶ場所である。

 ――()き進むエンジンの音に鳴留(なきや)んだけれども、真上に突出(つきで)た山の()に、ふアッふアッと、山臥(やまぶし)がうつむけに息を吹掛(ふきか)けるような(ふくろう)の声を聞くと、女連(おんなれん)は真暗な奥在所へ入るのを可厭(いや)がった。元来宿を出る時この二人は温泉街の夜店飾りの濡灯色(ぬれびいろ)と、一寸野道で途絶えても殆ど町続きに(ひと)しい停車場あたりの(もや)の燈を望んだのを、番傘を(たた)かぬばかり糸七が反対に、もの寂しいいろはの碑を、辿ったのであったから。

 それでは、もう一方奥へ入ってからその土橋に向うとすると、余程の畷を抜けなければ、車を返す足場がない。

 三宝ヶ辻で下りたのである。

「あら、こんな処で。」

「番傘の情人に逢わせるんだよ。」

「情人ッて? 番傘の。」

「蛙だよ、いい声で一面に鳴いてるじゃあないか。」

「まあ、風流。」

 さ、さ、その風流と言われるのが可厭(いや)さに、番傘を道具に使った。第一、雨の中に、立った形は、うしろの山際に柳はないが、小野道風何とか(すずり)を悪く趣向にしたちんどん屋の稽古をすると思われては、いいようは()とぞんざいだが……ごめんを(こうむ)って……(しゃく)(さわ)る。

 糸七は小児(こども)のうちから、妙に、見ることも、聞くことも、ぞっこん蛙といえば好きなのである。小学最初級の友だちの、――現今は貴族院議員なり人の知った商豪だが――(やしき)が侍町にあって、背戸(せど)の蓮池で飯粒で蛙を釣る、釣れるとも、目をぱちぱちとやって、腹をぶくぶくと(ふくら)ます、と云うのを聞くと、氏神の境内まで飛ばないと、蜻蛉(とんぼ)さえ(たやす)くは見られない、雪国の城下でもせせこましい町家に育ったものは、瑠璃(るり)丁斑魚(めだか)、珊瑚の鯉、五色(ごしき)(ふな)が泳ぐとも聞かないのに、池を蓬莱(ほうらい)の嶋に望んで、青蛙を釣る友だちは、宝貝のかくれ蓑を着て、白銀(しろがね)の糸を操るかと思った。

 学問半端にして、親がなくなって、東京から一度田舎へ返って、朝夕のたつきにも途方に暮れた事がある。

「ああ、よく鳴いてるなあ。」――

 城下優しい大川の土手の……松に添う片側町(かたかわまち)の裏へ入ると廃敗した潰れ屋のあとが町中に、棄苗(すてなえ)水田(みずた)になった、その田の名には(とな)えないが、其処をこだまの小路という、小玉というのの家跡か、白昼も寂然(しん)としていて(こだま)をするか、濁って呼ぶから女の名ではあるまいが、おなじ名のきれいな、あわれな(おんな)がここで自殺をしたと伝えて、のちのちの今も()お、その手提灯が闇夜に往来をするといった、螢がまた、ここに不思議に夥多(おびただ)しい。

 が、提灯の風説に消されて見る人の影も映さぬ。勿論、蛙なぞ聞きに出掛けるものはない。……世の暗さは五月闇(さつきやみ)さながらで、腹のすいた少年の身にして夜の灯でも繁華な巷は目がくらんで痩脛(やせはぎ)(ねじ)れるから、こんな処を便(たよ)っては立樹に(もた)れて、(もと)からの耕地でない(あかし)には破垣(やれがき)のまばらに残った水田(みずた)(じっ)と闇夜に透かすと、鳴くわ、鳴くわ、好きな蛙どもが装上って浮かれて唱う、そこには見えぬ花菖蒲、杜若(かきつばた)河骨(こうほね)も卯の花も誘われて来て踊りそうである。

 此処だ。

「よく、鳴いてるなあ。」

 世にある人でも、歌人でも、ここまでは変りはあるまい、が、情ない事には、すぐあとへ、

「ああ、()ぞお腹がいいだろう。」

 ――さだめしお(まんま)をふんだんに食ったろう―ても情ない事をいう―と、喜多八がさもしがる。……三嶋の宿で護摩(ごま)の灰に胴巻を抜かれたあとの、あわれはここに弥次郎兵衛、のまず、くわずのまず、竹杖にひょろひょろと海道を辿りながら、飛脚が威勢よく飛ぶのを見て、その満腹を(うらや)んだのと思いは(ひと)しい。……又膝栗毛で下司(げす)ばる、と思召(おぼしめ)しも恥かしいが、こんな場合には絵言葉(まき)ものや、哲理、科学の横綴(よことじ)では間に合わない。

 生芋の欠片(かけら)さえ芋屋の小母(おば)さんが無代では見向きもしない時は、人間よりはまだ気の知れない(ばけ)ものの方に幾分か憑頼(ひょうらい)がある、姑獲女(うぶめ)を知らずや、嬰児(あかんぼ)を抱かされても力餅が慾しいのだし、ひだるさにのめりそうでも、金平(きんぴら)式の武勇伝で、剣術は心得たから、糸七は、其処に小提灯の幽霊の怖れはなかった。

 奇異ともいおう、一寸(ちょっと)微妙なまわり合わせがある。これは、ざっと十年も後の事で、糸七もいくらか稼げる、東京で(いささ)かながら業を得た家業だから雑誌お(あつら)えの随筆のようで、一度話した覚えがある。やや年下だけれど心置かれぬ友だちに、――ようから、本名俳名も――谷活東(たにかっとう)というのが居た。

 作意で(ほぼ)その人となりも知れよう、うまれは向嶋小梅(むこうじまこうめ)業平橋(なりひらばし)辺の家持(いえもち)の若旦那が、心がらとて俳三昧に落魄(おちぶ)れて、牛込山吹町の割長屋、薄暗く戸を(とざ)し、夜なか洋燈をつける(どころ)か、身体(からだ)にも油を切らしていた。

 昔からこうした男には得てつきものの恋がある。最も恋をするだけなら誰がしようと御随意で何処からも槍は出ない。許嫁(いいなずけ)打壊(ぶっこわ)れだとか、三社様の祭礼に見初めたとかいう娘が、柳橋で芸妓(げいしゃ)をしていた。

 さて、その色にも活計(かっけい)にも、寐起(ねおき)にも夜昼の区別のない、迷晦朦朧(めいかいもうろう)として黄昏男と言われても、江戸児(えどッこ)だ、大気(たいき)なもので、手ぶらで柳橋の館――いや館は上方――何とか()へ推参する。その芸しゃの名を小玉といった。

 借りたか、()ったか未だ(つまびらか)ならずであるが、本望だというのに、絹糸のような春雨でも、襦袢(じゅばん)もなしに素袷(すあわせ)膚薄(はだうす)な、と畜生め、何でもといって貸してくれた、と番傘に柳ばしと筆ぶとに打つけたのを、友だち中へ見せびらかすのが晴曇りにかかわらない。(いわん)や待望の雨となると、長屋近間の茗荷畠(みょうがばたけ)や、水車なんぞでは気分が出ないとまだ(むかし)のままだった番町へのして清水谷(しみずだに)へ入り擬宝珠(ぎぼし)のついた弁慶橋で、一振柳を胸にたぐって、ギクリとなって……ああ、逢いたい。顔が見たい。

こたまだ、こたまだ

 こたまだ……

 その辺の蛙の声が、皆こたまだ、こたまだ、と鳴くというのである。

 唯、糸七の遠い雪国のその小提灯の幽霊の《さまよ》う場所が小玉小路、断然話によそえて拵えたのではない、とすると、蛙に(ちな)んで顕著なる奇遇である。かたり草、(こと)の花は、蝶、鳥の翼、(くちばし)には限らない、その種子は、地を飛び、空をめぐって、いつその実を結ぼうも知れないのである、――これなども、道芝、仇花の露にも過ぎない、実を結ぶまではなくても、(かすか)な葉を装い(はかな)い色を彩っている、ただしそれにさえ少からぬ時を経た。

 明けていうと、活東のその柳橋の番傘を随筆に撰んだ時は、――それ以前、糸七が小玉小路で蛙の声を聞いてから、ものの三十年あまりを経ていたが、胸の何処(どこか)に潜み、心の何処にかくれたか、翼なく嘴なく、色なく影なき話の種子は、小机からも、硯からも、その形を(あら)わさなかった、まるで消えたように忘れていた。

 それを、その折から()お十四五年ののち、修禅寺の奥の院(みち)三宝ヶ辻に(たたず)んで、蛙を聞きながら、ふと思出(おもいだ)した次第なのである。

 悠久なるかな、人心の小さき花。

 ああ、悠久なる……

 そんな事をいったって、わかるような女連(おんなれん)ではない。

「――一つこの傘を廻わして見ようか。」

 糸七は雨のなかで、――柳橋を(ざっ)と話したのである。

「今いった活東が弁慶橋でやったように。」

「およしなさい、沢山。」

 と女房が声ばかりでたしなめた。田の縁に並んだが中に娘分が居ると、もうその顔が見えないほど暗かった。

「でも、妙ね、そういえば……何ですって、蛙の声が、その方には、こがれる女の小玉だ、小玉だと聞こえたんですって、こたまだ。あら、真個(ほんとう)だ、串戯(じょうだん)じゃないわ、叔母さん、こたまだ、こたまだッて鳴いてるわね、中でも大きな声なのねえ、叔母さん。」

「まったくさ、私もおかしいと思っているほどなんだよ、気の所為(せい)だわね、……気の所為といえば、新ちゃんどう、あの一斉に鳴く声が、活東さんといやしない?……

かっと、かっと、

 かっと、……

目次に戻る

目次