遺稿 02 遺稿

2話 遺稿 02 遺稿(2)

2,452字 約5分 2017年3月23日 公開

読み方を変える
字の大きさ
行の間隔
1行の長さ
書体
配色
組み方

 それ、揃って、皆して……」

「むむ、聞こえる、――かっと、かっと――か、そういえば。――成程これはおもしろい。」

 女房のいうことなぞは滅多に応といった事のない奴が、これでは済むまい、蛙の声を小玉小路で羨んだ、その昔の空腹を忘却して、図に乗気味(のりぎみ)に、田の縁へ、ぐっと(しゃが)んで聞込(ききこ)む気で、いきなり腰を落しかけると、うしろ斜めに肩を並べて(ひさし)の端を借りていた運転手の帽子を傘で(たた)いて驚いたのである。

「ああ、これはどうも。」

 その(くせ)、はじめは運転手が、……道案内の任がある、()つは婦連(おんなれん)のために頭に近い梟の魔除(まよけ)の為に、降るのに(わざ)と台から出て、自動車に引添って頭から黒扮装の細身に腕を組んだ、一寸(ちょっと)探偵小説のやみじあいの挿絵に似た形で(きっ)として(たたず)んでいたものを、暗夜の(なわて)の寂しさに、女連が世辞を言って、身近におびき寄せたものであった。

「ごめんなさい、熊沢さん。」

 こんな時の、名も頼もしい運転手に娘分の方が――そのかわり糸七のために(わび)をいって、

「ね、小玉だ、小玉だ、……かっと、かっと……叔母さんのいうように聞こえるわね。」

「蛙なかまも、いずれ、さかり時の色事でございましょう、よく鳴きますな、調子に乗って、波を立てて鳴きますな、星が降ると言いますが、あの声をたたく雨は花片(はなびら)の音がします。」

 月があると、昼間見た、(うね)に咲いた牡丹の影が、ここへ(かさな)って映るであろう。

「旦那。」

「………」

 妙に改った声で、

「提灯が来ますな――むこうから提灯ですね。」

「人通りがあるね。」

「今時分、やっぱり在方(ざいかた)の人でしょうね。」

 娘分のいうのに、女房は黙って見た。

 温泉の町入口はずれと言ってもよかろう、もう、あの釣橋よりも此方へ、土を二三尺離れて一つ(とも)れて来るのであるが、女連ばかりとは言うまい、糸七にしても、これは、はじめ心着いたのが土地のもので様子の分った運転手で()()かった、そうでないと、いきなり目の前へ梟の腹で鬼火が燃えたように(おび)えたかも知れない。……見えるその提灯が、むくむくと(とも)(すわ)って、いびつに(おおき)い。……軒へ立てる高張(たかはり)は御存じの事と思う、やがてそのくらいだけれども、夜の(なわて)のこんな時に、唯ばかりでは言い足りない。たとえば、(かざ)している雨の番傘をばさりと半分に切って、ややふくらみを継足(つぎた)したと思えばいい。

 樹蔭の加減か、雲が低いか、水濛(すいもう)が深いのか、持っているものの影さえなくて、その提灯ばかり。

 つらつらつらつらと、動くのに濡色(ぬれいろ)が薄油に、ほの白く(つや)を取って、降りそそぐ雨を露に散らして、細いしぶきを立てると、その飛ぶ露の光るような片輪にもう一つ宙にふうわりと(ほの)あかりの輪を大きく提灯の形に巻いて、かつそのずぶ濡の色を一息に(じっ)(たわ)めながら、風も添わずに寄って来る。

 姿が華奢(きゃしゃ)だと、女一人くらいは影法師にして(さかさ)に吸込みそうな提灯の(おおき)さだから、一寸(ちょっと)皆声を《の》んだ。

「田の水が(ぼう)と映ります、あの(あかり)だと、縞だの斑だの、赤いのも居ますか、蛙の形が(あら)われて見えましょうな。」

 運転手がいうほど間近になった。同時に自動車が寐ている(おおき)な牛のように、その灯影を遮ったと思うと、スッと提灯が縮まって普通の手提に小さくなった。汽車が、その真似をする古狸を、線路で轢殺(ひきころ)したという話が僻地にはいくらもある。文化が妖怪を減ずるのである。が、すなおに思えば、何かの都合で図抜けに大きく見えた持手が、吃驚(びっくり)した拍子にもとの姿を顕わしたのであろう。

「南無、観世音……」

 打念じたる、これを聞かれよ。……村方の人らしい、鳴きながらの蛙よりは、泥鼈(すっぽん)を抱いていそうな、(しずく)の垂る、雨蓑を深く着た、蓑だといって、すぐに笠とは限らない、古帽子だか手拭だか煤けですっぱりと頭を包んだから目鼻も分らず、雨脚は濁らぬが古ぼけた形で一濡れになって(あら)われたのが、――道巾は狭い、身近な女二人に擦違おうとして、ぎょッとしたように退(すさ)ると立直って提灯を持直(もちなお)した。

 音を潜めたように、跫音(あしおと)を立てずに山際についてそのまま行過(ゆきす)ぎるのかと思うと、ひったりと寄って、運転手の肩越しに糸七の横顔へ提灯を突出(つきだ)した。

 蛙かと思う目が二つ、くるッと映った。

 すぐに、もとへ返して、今度は向う廻りに、娘分の顔へ提灯を上げた。

 その時である、菩薩の名を唱えたのは――

「南無観世音。」

 続けて又唱えた。

「南無観世音……」

 この耳近な声に、娘分は湯上りに化粧した(くび)を垂れ、前髪でうつむいた、その白粉(おしろい)の香の雨に伝う白い顔に、一条(ひとすじ)ほんのりと紅を薄くさしたのは、近々と蓑の手の寄せた提灯の――模様かと見た――朱の映ったのである、……あとで聞くと、朱で、かなだ、「こんばんは」と記したのであった。

 このまざまざと口を聞くが、声のない挨拶には誰も口へ出して会釈を返す機を得なかったが、菩薩の称号に、その娘分に続いて、糸七の女房も掌を合わせた。

「南無観世音……」

 また繰返しながら、蓑の下の提灯は、(ほら)の口へ吸わるる如く、奥在所の口を見るうちに深く入って、肩から(すそ)へすぼまって、消えた。

「まるで嘲笑(あざわら)うようでしたな、帰りがけに、またあの梟めが、まだ鳴いています――爺い……老爺らしゅうございましたぜ。……爺も驚きましたろう、何しろ思いがけない雨のやみに第一ご婦人です……気味の悪さに爺もお慈悲を願ったでしょうが、観音様のお(かげ)で、此方が助かりました、……一息冷汗になりました。」

 するすると車は早い。

「観音様は――男ですか、女でいらっしゃるんでございますか。」

 (ひびき)の応ずる如く、

「何とも言えない、うつくしい女のお姿ですわ。」

 と、浅草寺(せんそうじ)の月々のお茶湯日を、やがて満願に近く、三年の間一度も欠かさない姪がいった。

「まったく、そうなんでございますか、旦那。」

「それは、その、何だね……」

 いい塩梅(あんばい)に、車は、雨もふりやんだ、青葉の陰の濡色の柱の(うっす)り青い、つつじのあかるい旅館の玄関へ入ったのである。

 出迎えて口々にお(かえ)んなさいましをいうのに答えて、糸七が、

唯今(ただいま)夜遊(よあそび)の番傘が(もど)りました――熊沢さん、今のはだね、修禅寺の然るべき坊さんに聞きたまえ。」

目次に戻る

目次