2話 遺稿 02 遺稿(2)
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それ、揃って、皆して……」
「むむ、聞こえる、――かっと、かっと――か、そういえば。――成程これはおもしろい。」
女房のいうことなぞは滅多に応といった事のない奴が、これでは済むまい、蛙の声を小玉小路で羨んだ、その昔の空腹を忘却して、図に乗気味に、田の縁へ、ぐっと踞んで聞込む気で、いきなり腰を落しかけると、うしろ斜めに肩を並べて廂の端を借りていた運転手の帽子を傘で敲いて驚いたのである。
「ああ、これはどうも。」
その癖、はじめは運転手が、……道案内の任がある、且つは婦連のために頭に近い梟の魔除の為に、降るのに故と台から出て、自動車に引添って頭から黒扮装の細身に腕を組んだ、一寸探偵小説のやみじあいの挿絵に似た形で屹として彳んでいたものを、暗夜の畷の寂しさに、女連が世辞を言って、身近におびき寄せたものであった。
「ごめんなさい、熊沢さん。」
こんな時の、名も頼もしい運転手に娘分の方が――そのかわり糸七のために詫をいって、
「ね、小玉だ、小玉だ、……かっと、かっと……叔母さんのいうように聞こえるわね。」
「蛙なかまも、いずれ、さかり時の色事でございましょう、よく鳴きますな、調子に乗って、波を立てて鳴きますな、星が降ると言いますが、あの声をたたく雨は花片の音がします。」
月があると、昼間見た、畝に咲いた牡丹の影が、ここへ重って映るであろう。
「旦那。」
「………」
妙に改った声で、
「提灯が来ますな――むこうから提灯ですね。」
「人通りがあるね。」
「今時分、やっぱり在方の人でしょうね。」
娘分のいうのに、女房は黙って見た。
温泉の町入口はずれと言ってもよかろう、もう、あの釣橋よりも此方へ、土を二三尺離れて一つ灯れて来るのであるが、女連ばかりとは言うまい、糸七にしても、これは、はじめ心着いたのが土地のもので様子の分った運転手で先ず可かった、そうでないと、いきなり目の前へ梟の腹で鬼火が燃えたように怯えたかも知れない。……見えるその提灯が、むくむくと灯れ据って、いびつに大い。……軒へ立てる高張は御存じの事と思う、やがてそのくらいだけれども、夜の畷のこんな時に、唯ばかりでは言い足りない。たとえば、翳している雨の番傘をばさりと半分に切って、ややふくらみを継足したと思えばいい。
樹蔭の加減か、雲が低いか、水濛が深いのか、持っているものの影さえなくて、その提灯ばかり。
つらつらつらつらと、動くのに濡色が薄油に、ほの白く艶を取って、降りそそぐ雨を露に散らして、細いしぶきを立てると、その飛ぶ露の光るような片輪にもう一つ宙にふうわりと仄あかりの輪を大きく提灯の形に巻いて、かつそのずぶ濡の色を一息に熟と撓めながら、風も添わずに寄って来る。
姿が華奢だと、女一人くらいは影法師にして倒に吸込みそうな提灯の大さだから、一寸皆声を《の》んだ。
「田の水が茫と映ります、あの明だと、縞だの斑だの、赤いのも居ますか、蛙の形が顕われて見えましょうな。」
運転手がいうほど間近になった。同時に自動車が寐ている大な牛のように、その灯影を遮ったと思うと、スッと提灯が縮まって普通の手提に小さくなった。汽車が、その真似をする古狸を、線路で轢殺したという話が僻地にはいくらもある。文化が妖怪を減ずるのである。が、すなおに思えば、何かの都合で図抜けに大きく見えた持手が、吃驚した拍子にもとの姿を顕わしたのであろう。
「南無、観世音……」
打念じたる、これを聞かれよ。……村方の人らしい、鳴きながらの蛙よりは、泥鼈を抱いていそうな、雫の垂る、雨蓑を深く着た、蓑だといって、すぐに笠とは限らない、古帽子だか手拭だか煤けですっぱりと頭を包んだから目鼻も分らず、雨脚は濁らぬが古ぼけた形で一濡れになって顕われたのが、――道巾は狭い、身近な女二人に擦違おうとして、ぎょッとしたように退ると立直って提灯を持直した。
音を潜めたように、跫音を立てずに山際についてそのまま行過ぎるのかと思うと、ひったりと寄って、運転手の肩越しに糸七の横顔へ提灯を突出した。
蛙かと思う目が二つ、くるッと映った。
すぐに、もとへ返して、今度は向う廻りに、娘分の顔へ提灯を上げた。
その時である、菩薩の名を唱えたのは――
「南無観世音。」
続けて又唱えた。
「南無観世音……」
この耳近な声に、娘分は湯上りに化粧した頸を垂れ、前髪でうつむいた、その白粉の香の雨に伝う白い顔に、一条ほんのりと紅を薄くさしたのは、近々と蓑の手の寄せた提灯の――模様かと見た――朱の映ったのである、……あとで聞くと、朱で、かなだ、「こんばんは」と記したのであった。
このまざまざと口を聞くが、声のない挨拶には誰も口へ出して会釈を返す機を得なかったが、菩薩の称号に、その娘分に続いて、糸七の女房も掌を合わせた。
「南無観世音……」
また繰返しながら、蓑の下の提灯は、洞の口へ吸わるる如く、奥在所の口を見るうちに深く入って、肩から裙へすぼまって、消えた。
「まるで嘲笑うようでしたな、帰りがけに、またあの梟めが、まだ鳴いています――爺い……老爺らしゅうございましたぜ。……爺も驚きましたろう、何しろ思いがけない雨のやみに第一ご婦人です……気味の悪さに爺もお慈悲を願ったでしょうが、観音様のお庇で、此方が助かりました、……一息冷汗になりました。」
するすると車は早い。
「観音様は――男ですか、女でいらっしゃるんでございますか。」
響の応ずる如く、
「何とも言えない、うつくしい女のお姿ですわ。」
と、浅草寺の月々のお茶湯日を、やがて満願に近く、三年の間一度も欠かさない姪がいった。
「まったく、そうなんでございますか、旦那。」
「それは、その、何だね……」
いい塩梅に、車は、雨もふりやんだ、青葉の陰の濡色の柱の薄り青い、つつじのあかるい旅館の玄関へ入ったのである。
出迎えて口々にお皈んなさいましをいうのに答えて、糸七が、
「唯今、夜遊の番傘が皈りました――熊沢さん、今のはだね、修禅寺の然るべき坊さんに聞きたまえ。」