日本橋

67話 振袖 六十七

2,754字 約6分 2015年11月4日 公開

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「違った、お千世だい。」

 と、やっぱりニタニタと笑いながら、目を据えて階子段(はしごだん)を見上げた時。……ああ、一足遅い。

 お千世の祖父(じい)の甚平が台所口から草鞋穿(わらじばき)の土足である。――これが玄関口から入ったら、あるいはこうはなかったろう。――爺さんは、当夜植木(だな)のお薬師様の縁日に出た(ついで)に、孫が好きだ、と草餅の風呂敷包を首に背負(しょ)って、病中ながらかねて抱主(かかえぬし)のお孝が好いた、雛芥子(ひなげし)の早咲、念入に土鉢ながら育てたのを丁寧に両手に抱いて、来て、途中頭の上の火事に慌てながら、驚破(すわ)や見舞、と駆込んで、台所口へ廻ったのが、赤熊と一足違い。

 泥鉢は一堪(ひとたま)りもなく踏潰(ふみつぶ)された。あたかも甚平の魂のごとくに(くじ)けて、真紅の雛芥子は処女の血のごとく、めらめらと(さっ)と散る。

 熊は山へ帰る体に、のさのさと格子を出た。

 ト、(あいて)を追って捕えよう擬勢も無く、お千世を抱いて、爺さんの腰を抜いた、その時、山鳥の翼を弓に(つが)えて射るごとく、(さっ)(もすそ)()いて、お孝が矢のように二階を下りると思うと、

「熊の(うじ)め、畜生。」と追縋(おいすが)って()と露地を出た。

 が、矢玉と馳違(はせちが)い折かさなる、人混雑(ひとごみ)の町へ出る、と何しに来たか忘れたらしく、ここに降かかる雨のごとき火の粉の中。袖でうけつつ、手で招きつつ、

「花が散るよ、散るよ。」

 と蹴出しの浅黄を(ふみ)くぐみ、その(くれない)(さば)きながら、ずるずると着衣(きもの)を曳いて、

「おお、冷い、おお、冷い。……雪やこんこ、(あられ)やこんこ。……おお綺麗だ。花が散るよ、花が散るよ。」

 仲通の小紅屋の小僧は、張子の木兎(みみずく)のごとく、目を光らして一すくみになった。

 火の影ならず、血だらけの抜刀を(ひっさ)げた、半裸体の大漢(おおおのこ)が、途惑(とまどい)した(のぼり)の絵に似て、店頭(みせさき)へすっくと立つと、会釈も無く、持った白刃(しらは)を取直して、切尖(きっさき)で、ずぶりとそこにあった林檎を突刺し、敵将の(こうべ)を挙げたるごとく、ずい、と掲げて、風車(かざぐるま)でも廻す気か、肌につけた小児(しょうに)の上で、くるりくるりとかざして見せたが、

「あはは。」と笑うと、ドシンと縁台へ腰を掛ける、と風に落ちて来る燃えさしが人よりも多い火の下の店頭(みせさき)で、澄まして林檎の皮を()きはじめた。

 小僧は土間の隅にさながらのからくり。お世辞ものの女房が居たらば何と云おう。それは見えぬ。

「坊主、咽喉(のど)が乾いたろうで、水のかわりに、(すき)なものを遣るぞ。おお、女房(おっか)肖如(そっくり)だい。」

 ニヤニヤとまた笑ったが、胡瓜(きゅうり)の化けたらしい曲った刀が、剥きづらかったか、あわれ血迷って、足で白刃を、土間へ圧当(おしあ)蹈延(ふみの)ばして、(そり)を直して、瞳に照らして、持直す。目の前へ、すっと来て立ったのはお孝である。

「刀をお貸し。」

 黙って袖口を、なぞえに出した手に、はっと、女神の命に従う(さま)に、赤熊は黙ってその刀を渡した。

「おお、嬉しい、剃刀(かみそり)一挺持たせなかった。」

 と、手遊物(おもちゃ)のように二つ三つ、(まつげ)を放して、ひらひらと振った。

 (まなじり)を返す、と乱るる黒髪。

「覚悟をおし。」と、澄まして一言(ひとこと)

 何か言いそうにした口の、ただまたニヤニヤとなって、(おおき)(よだれ)滴々(だらだら)と垂るる中へ、素直(まっすぐ)にずきんと刺した。が、歯にカッと(すべ)って、(くちびる)決明果(あけび)のごとく裂きながら、咽喉へはずれる、その真中(まんなか)、我と我が手に赤熊が両手に握って、

「ううう、うう!……(えぐ)れ、抉れ、抉れ。」

 懐中(ふところ)をころがる小児(こども)より前に、小僧はべたべたと土間を這う。

(しま)った。」

 手を(おさ)えたのは旅僧である。葛木は、人に揉まれて、脱け落ちた笠のかわりに、法衣(ころも)の片袖頭巾めいて(おもて)を包んだ。

「お孝さん。」

「先生。」

 と、忘れたように(つか)を離すと、刀は落ちて、赤熊は真仰向けに、腹を露骨(あらわ)に、のっと(かえ)る。

 お孝の彼を抉った手は、ここにただ天地一つ、白き(くちなわ)のごとく美しく、葛木の腕に(まつわ)って、潸々(さめざめ)と泣く。

 葛木はなお(すが)る袖をお孝に預けたまま、(つまず)いて悶絶(もんぜつ)した小児を抱いた。

 駆着けた警官の中に笠原信八郎氏が有った。

「葛木……更めてお目にかかります。……見苦しくなく支度をさせます。この女の内までお見免(みのが)しが願いたい。」

「諸君。」

 信八郎氏は言下に云った。

(わたくし)(せめ)を負います。」

 警官は二隊に分れた。

 お孝は法衣(ころも)の葛木に手を曳かれて、静々と火事場を通った。裂けた(たもと)も、さながら振袖を着たごとくであった。

 火の番の曲り角で、坊やに憧れて来た清葉に逢った。

「ああ、お地蔵様。」

 夢かとばかり、旅僧の手から、坊やを抱取った清葉は、一度、継母とともに立退(たちの)いて出直したので、凜々(りり)しく腰帯で端折(はしょ)っていた。

 お孝は、離さじ、とただ黙って葛木に縋る。

「や、ここにも一人。」

 警官は驚いた。露地の出口の(どぶ)の中、さして深くもない中に、横倒れに(はま)って死んでいたのは茶缶婆(ちゃかんばばあ)で、胸に突疵(つききず)がある。さては赤熊が片附けた。

 これが為に、護送の警官の足が留って、お孝は旅僧と二人、可懐(なつか)しそうに、葉が差覗(さしのぞ)く柳の(もと)の我家に帰る。

 清葉の途中で立停(たちどま)ったのを見て、お孝が判然(はっきり)した声で云った。

「姉さん、遺言を聞いて下さい。」

「はい。」

 と答えた。二人は柳の軒燈に、清葉はその時、羽目について暗く立った。

「お孝さん、蔵も今しがた落ちました。」

 と云って、実際目ぬりが届かないで、助ったつもりの蔵、中には能衣装まであると伝えた。が開いたのであった。

 坊やを胸に、すっと出て、

「身に代えまして、清葉が、貴女になりかわって。」

 その時三人が皆泣いた。

「お千世さんは、」

「ああ、お千世。」

 余りの事に呆果てて、三人は茫然とした。中にも旅僧は何をトッチたか、膝で這廻って、雛芥子の散った花片の、(あおり)で動くのを、美しい魂を散らすまいとか、胸の箱へ、拾い込み拾い込みしたのである。

 信八郎氏が先ず一人で入って来た。

 お孝は胸に(いだ)いて仰向けに接吻(キッス)していた、自分のよりは色のまだ濡々と(くれない)な、お千世の唇を放して、

「お湯を頂きましても()うござんすか、旦那。」

 と信八郎氏に手をついて言う。

 (かれ)は挙手の礼を返して、

「御随意に、盃をなすって可い。」

 茶棚に背後(うしろ)向きになった肩を()つばかり、ハタとそこへ、縁起棚から輝いて落ちたのは、清葉が、(さき)(かざ)したままそこにさし置いた舞扇で。

 ふとここに心付いたらしく、立って頂いて、同じ縁起棚から取った小さな紙包み、(同妻。)の手巾(ハンケチ)の端を、湯呑に落して素湯(さゆ)()いだ、が、なにも言わず、かぶりと飲むと、茶碗酒が得意の意気や、(ほっ)と小さな息をした。その中に黒子(ほくろ)を抜いた時の硝酸が入っていた。

「姉さん、遺言を聞いて下さいな。」

生命(いのち)に掛けます、お孝さん。」

 その時、舞扇を開いた(おもて)は、(しろがね)よりも白ずんだ。

 お千世は玉の緒を(つな)ぎとめた。

 葛木が、生理学教室に帰ったのは言うまでもない。留学して当時独逸にあり。

 滝の家は、建つれば建てられた家を、わざと稲葉家のあとに引移った。一家の美人十三人。

 清葉が盃を挙げて唄う、あれ聞け横笛を。

――露地の細路駒下駄で――

大正三(一九一四)年九月

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