67話 振袖 六十七
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「違った、お千世だい。」
と、やっぱりニタニタと笑いながら、目を据えて階子段を見上げた時。……ああ、一足遅い。
お千世の祖父の甚平が台所口から草鞋穿の土足である。――これが玄関口から入ったら、あるいはこうはなかったろう。――爺さんは、当夜植木店のお薬師様の縁日に出た序に、孫が好きだ、と草餅の風呂敷包を首に背負って、病中ながらかねて抱主のお孝が好いた、雛芥子の早咲、念入に土鉢ながら育てたのを丁寧に両手に抱いて、来て、途中頭の上の火事に慌てながら、驚破や見舞、と駆込んで、台所口へ廻ったのが、赤熊と一足違い。
泥鉢は一堪りもなく踏潰された。あたかも甚平の魂のごとくに挫けて、真紅の雛芥子は処女の血のごとく、めらめらと颯と散る。
熊は山へ帰る体に、のさのさと格子を出た。
ト、敵を追って捕えよう擬勢も無く、お千世を抱いて、爺さんの腰を抜いた、その時、山鳥の翼を弓に番えて射るごとく、颯と裳を曳いて、お孝が矢のように二階を下りると思うと、
「熊の蛆め、畜生。」と追縋って衝と露地を出た。
が、矢玉と馳違い折かさなる、人混雑の町へ出る、と何しに来たか忘れたらしく、ここに降かかる雨のごとき火の粉の中。袖でうけつつ、手で招きつつ、
「花が散るよ、散るよ。」
と蹴出しの浅黄を蹈くぐみ、その紅を捌きながら、ずるずると着衣を曳いて、
「おお、冷い、おお、冷い。……雪やこんこ、霰やこんこ。……おお綺麗だ。花が散るよ、花が散るよ。」
仲通の小紅屋の小僧は、張子の木兎のごとく、目を光らして一すくみになった。
火の影ならず、血だらけの抜刀を提げた、半裸体の大漢が、途惑した幟の絵に似て、店頭へすっくと立つと、会釈も無く、持った白刃を取直して、切尖で、ずぶりとそこにあった林檎を突刺し、敵将の首を挙げたるごとく、ずい、と掲げて、風車でも廻す気か、肌につけた小児の上で、くるりくるりとかざして見せたが、
「あはは。」と笑うと、ドシンと縁台へ腰を掛ける、と風に落ちて来る燃えさしが人よりも多い火の下の店頭で、澄まして林檎の皮を剥きはじめた。
小僧は土間の隅にさながらのからくり。お世辞ものの女房が居たらば何と云おう。それは見えぬ。
「坊主、咽喉が乾いたろうで、水のかわりに、好なものを遣るぞ。おお、女房に肖如だい。」
ニヤニヤとまた笑ったが、胡瓜の化けたらしい曲った刀が、剥きづらかったか、あわれ血迷って、足で白刃を、土間へ圧当て蹈延ばして、反を直して、瞳に照らして、持直す。目の前へ、すっと来て立ったのはお孝である。
「刀をお貸し。」
黙って袖口を、なぞえに出した手に、はっと、女神の命に従う状に、赤熊は黙ってその刀を渡した。
「おお、嬉しい、剃刀一挺持たせなかった。」
と、手遊物のように二つ三つ、睫を放して、ひらひらと振った。
眦を返す、と乱るる黒髪。
「覚悟をおし。」と、澄まして一言。
何か言いそうにした口の、ただまたニヤニヤとなって、大な涎の滴々と垂るる中へ、素直にずきんと刺した。が、歯にカッと辷って、脣を決明果のごとく裂きながら、咽喉へはずれる、その真中、我と我が手に赤熊が両手に握って、
「ううう、うう!……抉れ、抉れ、抉れ。」
懐中をころがる小児より前に、小僧はべたべたと土間を這う。
「了った。」
手を圧えたのは旅僧である。葛木は、人に揉まれて、脱け落ちた笠のかわりに、法衣の片袖頭巾めいて面を包んだ。
「お孝さん。」
「先生。」
と、忘れたように柄を離すと、刀は落ちて、赤熊は真仰向けに、腹を露骨に、のっと反る。
お孝の彼を抉った手は、ここにただ天地一つ、白き蛇のごとく美しく、葛木の腕に絡って、潸々と泣く。
葛木はなお縋る袖をお孝に預けたまま、跪いて悶絶した小児を抱いた。
駆着けた警官の中に笠原信八郎氏が有った。
「葛木……更めてお目にかかります。……見苦しくなく支度をさせます。この女の内までお見免しが願いたい。」
「諸君。」
信八郎氏は言下に云った。
「私が責を負います。」
警官は二隊に分れた。
お孝は法衣の葛木に手を曳かれて、静々と火事場を通った。裂けた袂も、さながら振袖を着たごとくであった。
火の番の曲り角で、坊やに憧れて来た清葉に逢った。
「ああ、お地蔵様。」
夢かとばかり、旅僧の手から、坊やを抱取った清葉は、一度、継母とともに立退いて出直したので、凜々しく腰帯で端折っていた。
お孝は、離さじ、とただ黙って葛木に縋る。
「や、ここにも一人。」
警官は驚いた。露地の出口の溝の中、さして深くもない中に、横倒れに陥って死んでいたのは茶缶婆で、胸に突疵がある。さては赤熊が片附けた。
これが為に、護送の警官の足が留って、お孝は旅僧と二人、可懐しそうに、葉が差覗く柳の下の我家に帰る。
清葉の途中で立停ったのを見て、お孝が判然した声で云った。
「姉さん、遺言を聞いて下さい。」
「はい。」
と答えた。二人は柳の軒燈に、清葉はその時、羽目について暗く立った。
「お孝さん、蔵も今しがた落ちました。」
と云って、実際目ぬりが届かないで、助ったつもりの蔵、中には能衣装まであると伝えた。が開いたのであった。
坊やを胸に、すっと出て、
「身に代えまして、清葉が、貴女になりかわって。」
その時三人が皆泣いた。
「お千世さんは、」
「ああ、お千世。」
余りの事に呆果てて、三人は茫然とした。中にも旅僧は何をトッチたか、膝で這廻って、雛芥子の散った花片の、煽で動くのを、美しい魂を散らすまいとか、胸の箱へ、拾い込み拾い込みしたのである。
信八郎氏が先ず一人で入って来た。
お孝は胸に抱いて仰向けに接吻していた、自分のよりは色のまだ濡々と紅な、お千世の唇を放して、
「お湯を頂きましても可うござんすか、旦那。」
と信八郎氏に手をついて言う。
渠は挙手の礼を返して、
「御随意に、盃をなすって可い。」
茶棚に背後向きになった肩を拊つばかり、ハタとそこへ、縁起棚から輝いて落ちたのは、清葉が、前に翳したままそこにさし置いた舞扇で。
ふとここに心付いたらしく、立って頂いて、同じ縁起棚から取った小さな紙包み、(同妻。)の手巾の端を、湯呑に落して素湯を注いだ、が、なにも言わず、かぶりと飲むと、茶碗酒が得意の意気や、吻と小さな息をした。その中に黒子を抜いた時の硝酸が入っていた。
「姉さん、遺言を聞いて下さいな。」
「生命に掛けます、お孝さん。」
その時、舞扇を開いた面は、銀よりも白ずんだ。
お千世は玉の緒を繋ぎとめた。
葛木が、生理学教室に帰ったのは言うまでもない。留学して当時独逸にあり。
滝の家は、建つれば建てられた家を、わざと稲葉家のあとに引移った。一家の美人十三人。
清葉が盃を挙げて唄う、あれ聞け横笛を。
――露地の細路駒下駄で――
大正三(一九一四)年九月