吉田松陰

1話 緒言

854字 約2分 2017年8月4日 公開

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 題して『吉田松陰』というも、その実は、松陰を中心として、その前後の大勢、暗潜黙移の現象を観察したるに過ぎず。もし名実相副(そ)わずとせば、あるいは改めて『維新革命前史論』とするも不可(ふか)なからん。

 昨年の春初「本郷会堂」において、「吉田松陰」を講談す。のち敷衍(ふえん)して『国民之友』に掲出する十回。さらに集めて一冊となさんと欲す、遷延(せんえん)果さず。このごろ江湖の督責(とくせき)急なるを以て、咄嗟(とっさ)の間、遂にこれを成(な)す。原文に比すれば、その加えたるもの十の六、七、その刪(けず)りたるもの、十の一、二。

 事実の骨子はおおむね『幽室文稿』『吉田松陰伝』より得来(きた)る。その他参照に資(し)したるもの枚挙(まいきょ)に遑(いとま)あらず。

 松陰の妹婿(まいせい)にして、その同年の友たる楫取(かとり)男爵、その親友高原淳次郎、松陰の後嗣(こうし)吉田庫三(くらぞう)の諸君は、本書を成(な)すにおいて、あるいは助言を与えられ、あるいは材料を与えられたり。特に記(しる)して謝意を表す。

 松陰肖像は、門人浦無窮(うらむきゅう)が、松陰東都檻送(かんそう)せらるるに際して描きたるものを、さらに謄写したり。松陰神社、及び墳墓は、久保田米僊(べいせん)君自(みず)からその境に臨(のぞ)んで実写したるもの。

 平象山(へいしょうざん)の詩は、勝伯(はく)の所蔵に拠り、東遊稿は、高原淳次郎君の所蔵に拠る。稿中吉田大次郎とあるは、松陰初めの名なり。後「寅次郎」と改む。この稿は彼が米艦に塔(とう)じて去らんとするに際し、これを高原君に贐(おく)りて紀念となしたるものなりという。松陰が横井小楠(しょうなん)翁に送りたるは、横井時雄氏の所蔵に拠る。この書簡は彼が露艦を趁(お)うて長崎に来(きた)り、遠遊の志(こころざし)を果さんと欲して得ず、その帰途周防(すおう)より横井翁に寄せたるもの。村田清風の詩は、嘉永(かえい)四年余(よ)が叔父徳富一義(かずよし)、小楠翁に陪(ばい)して天下を周遊するに際し、親しく村田翁に授りたるもの、今や蔵して余の家に在(あ)り。

 以上みなその真蹟(しんせき)を石印に写したるもの、希(ねがわ)くは髣髴(ほうふつ)として、その真を失わざらん。

 勝海舟翁、佐久間象山と旧交あり、象山は松陰の師、而(しこう)して余また海舟翁の門下に教を受く、故に翁の題言を請うて、これを篇首に掲ぐ、また因縁なくんばあらず。

明治二十六

第五帝国議会開会の日

東京民友社楼上(ろうじょう)において

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