10話 第六 水野越前守の改革(1)
読み方を変える
内潰外逼の趨勢は、遂に徳川幕府において、天保の改革を喚起せしめたり。天保の改革は則ち水野忠邦の改革なり。彼は何人ぞ、彼は何事を做せしぞ。
彼は責任を知る晁錯なり、無学なる(比較的に)王安石なり。彼は文化十二年寺社奉行となり、爾来大坂城代となり、京都所司代となり、西丸老中となり、遂に天保五年本丸老中となる。彼が政治的経歴およそ二十年、而してこの二十年は、家斉将軍下半期の治世にして、文恬武煕、幕政の荒廃既に絶頂に達したるの日なり。されば彼は内外の政務に精通したると同時に、幕府の衰因の深かつ遠にして、到底大切断の作用を藉らざれば、これを救済するの道なきを熟知したり。彼はあくまで逞ましき野心を有せり、彼の二十年来大いに為す所なきは、為さんと欲するの機会を待ちたるなり。
今やその時は来れり、天保十二年前将軍家斉は死せり。将軍家慶は、漸くその政を親からするを得たり。彼が家慶における関係は、あたかもチルゴーが路易十六世におけるが如き関係なりし。「真個に人民を愛するものは、朕とチルゴーあるのみ」との言葉は、殆んど家慶と忠邦との間にも、繰り返されたり。彼が君の信任を得ること、かくの如く専らなりき。故に彼は短刀単入、その積弊の中心に向って打撃を加えたり。
破産せず、増税せず、借金せずとは、これチルゴーが路易十六世朝の財政に処せる綱領にあらずや。彼が政綱もまた然り、彼は倹約を以て、唯一の政綱となし、これを実行するにおいては、殆んど幕府の全力を賭するをも、自個の生命を擲つも敢て顧慮せざりき。幕府の治世二百六十年、何の時か倹約令を聞かざらんや。ただ天保の倹約令に至りては、太平の社会を震動せしめ、半世紀後の今日において、白頭の父老これを語りて唇角の微顫あるを覚えしめたるは何ぞ。彼が令する所、彼これを行えばなり、彼これを行うのみならず、彼はこれを行わしむるなり。彼は自から信ずるの篤きのみならず、その執着力の強靭果鋭なるにおいては、王安石もまた三舎を避くる程なりき。
一令は一令より繁く下れり、天下の民は、雷鳴を聞くのみならず、閃々たる電光を見たり。閃電を見るのみならず、落雷に撃たれたり。彼は前将軍の死後五月を経ざるに、その寵臣林肥後守、水野美濃守、美濃部筑前守、中野碩翁等を宮廷より一掃し去れり。中にも彼が仕途は水野美濃守の因によりしに係らず、彼は大義親を滅すの理に拠り、彼をすら斥けたりき。寵臣去りて群小の肝胆寒し。これよりして彼の改革は筍皮を剥ぐが如く、層一層緊切になり来れり。彼の手は将軍内廷の小刀庖丁より、幕閣日用の紙にまで、妖僧の品行より俳優の贅沢にまで、婦女子の髪飾より、食膳の野菜にまで、小童の凧の彩色より、雲助の花繍まで、およそ社会生活の事、上は将軍より下は乞食に到る、一として彼の干渉を被らざるものあらざりき。
彼は倹約令を布くのみならず、倹約の敵たる淫蕩奢侈の風俗を矯正せんと欲せり。彼は男娼を禁ぜり、彼は隠売淫を禁ぜり、彼は各売淫所を撤して、これを市外の一所に遷せり。彼は市中に散在する劇場を移して、これをその片隅に集めたり。彼は鄙猥なる戯作本を禁じて、その著作者を罪せり。彼はドラコの酷腕を以て、ライコルガスの理想を実行せんと欲せり。彼は何故にかくの如きことをなせしや。彼は自から曰く、「宿の胸腹に凝滞仕り、一円快愈の兆これ無きの姿に付き、一旦烏頭、大黄の激剤相施し申さず候えば、迚も功験得難く候」と。当時の社会は、果してかくの如く宿に取り附かれたるか、曰く、然り。
諸侯は何事をなせしか。
今の諸侯に財足れるものなし。昇平百年にして奢侈習となり、費用古に十倍せり。窮せざることを欲すとも得べからず。終には大坂の商賈鴻の池、加島屋、辰巳屋などいえるものどもに借財して一時の乏しきを救うといえども、またその利息返償に一層の苦を増し、終に窮迫、せんかた尽きて、家中の禄をかりあげ、紙金の通用鋳銭などにて欠を補うに至る。その策尤も拙く、銭多ければ賤しく、紙金を造れば他邦に通ぜず、正金出でて再び帰らず。いよいよ乏しくますます窮す。今に至りて謀ごといかんともすべからず。ただ讃岐の高松侯僅かに富みたまうとのことにて、近時金七万両を幕府に献じ、大いに賞せらるなどいえりしが、これもまた乏しきを告げたりと聞く。世に民の窮して家屋敷をひさぎて去るを売すえという。近頃大名の売すえも出でたりといえり。高七万石ほどの諸侯なるが、公辺は養子と称し、壮年にて隠居し家督を伝え、家財、封禄、家士に至るまで三千金にかえて、己は外邸に潜み居るあり。父子の礼もなかるべし。たとえ売る君ありとも売らする臣はあるまじきに、上下これを以て安んずることいかなることにやあらん。君君たらず臣臣たらずというべし。(『江戸見分二録』)
武士は何事をなせしか。
百有余歳以前の武士、大名、高家といわるるも、みな干戈を枕とし甲冑を寝巻にし、寒夜も山野に起臥し暑日も道路に奔走し、酒肴に飽くこともなく朝夕雑飯に糠汁にてくらし、一生身体を労苦し、はては畳の上の死希なり。不幸とやいわん、不便とや申すべき。されども五倫の道筋も相応に心掛けて、君臣父子の理りも違えざるはありがたきことならずや。今は主君と先祖の恩恵にて飽食暖衣し、妻子に驕り家人を責つかい、栄耀にくらし、槍刀はさびも拭わず、具足は土用干に一度見るばかり。刀脇差も有用の物ともおもわずや、かざりの美、異風の拵のみを物数寄無益の費に金銀を捨て、衣服も今様を好み妻子にも華美風流を飾らせ、遊山、翫水、芝居見に公禄を費し、百姓をせめはたり取揚げ、借金方へは不沙汰をし、次第次第にすり切れ、はては妻子も育くまれず家人も養われざる輩多し。家禄はありながらかくなり行は、穀潰しとも知行盗ともいうべし。(『太平絵詞』)
商人は何事をなせしか。
ある商人の書画を好みて玩ぶものありしが、その購入する所を聞くに、金岡が観音の像一幀代価千両なり。徽宗の桃に鳩の絵僅かに長さ五、六寸に広さ六、七寸なる小幅が同じく千両なり。その外馬遠の対幅が五百両、牧渓が一幀五百両なり。その他もこれに準ず。また茶器を買入るるものあり(銘は知らず)、茶盒千五百両、南蛮縄簾の水指三百両、祥瑞の香盒二百両なり。また古銭を愛するものありしが、半両一枚を六百両に買入る。その外一枚五十両、百両、二百両、三百両などいうは数品ありしとなり。これらはみな大名旗本より町人に売り払いしものなりという。
またある富商は常に野菜の走りを賞味することを好むものなるが、親しく出入する人その価附を見しに、隠元豆の初めて市場に出でしというが一把二十本にて代金二分、同じく茄子の鴫焼が代金七両とあるに舌を巻きて驚き、昔の一食に万銭を費せしというもこれには過ぎじといいしなり。その他なお商家の豪奢を尽したる例甚だ多く、就中外妾を蓄うること商人に最も多くして、手代の輩に至るまで窃に養わざるものなしという。かく分外の奢侈は札差または御用達商人の輩に多しといえり。
社会の情勢かくの如し。彼が改革の峻急酷烈なりしも、また宜べならずや。彼は封建社会の解体の、滔々として止むべからざるを見たり、彼は社会の中心点の欹傾するを見たり、彼は徳川幕府の命数の危きを見たり。而してさらに外患の眉端に迫るを見たり。この内自から潰解せんとする社会を率い、如何にして、猛然として来り迫る外患に応ずるを得んや。知るべし、彼の改革の十中の七、八は、外交の刺激、否なむしろ外患の予測より来りしものなるを。彼が改革の失敗したるは、彼が余り烱眼家たりし罪に坐するのみ。
百五十年前熊沢の国防論は、今や端なくも彼の手によりて実行せられたり。惰風を鞭ち、汚俗を矯め、士気ここに揚り、国用ここに富み、潰敗せんとする社会を整理統一し、以て将に来らんとする外艱に備うるは、彼が改革の第一主眼なりき。されば彼は高島秋帆を江戸に召して、砲術を演ぜしめ、これを旗本及び諸侯の士に伝習するを公許し、天保十三年七月においては、さらに文政打払令を取り消し、異国船来着の砌りは、来意を質し、薪水食料を給すべきを令し、親藩の随一なる水戸烈公と結び、着々改革の歩を進めたり。即ち烈公が梵鐘を毀ちて大砲を鋳りたるも、甲冑にて追鳥狩を企てたるも、みなこの同時なりとす。
改革は一瀉千里の勢を以て進めり。総ての障碍を打破りて進めり。抵抗者は罰せられ、異論者は斥けられ、不熱心者は遠ざけらる。彼の同僚は、彼の威勢に圧せられて唯々たり、彼の下僚は、彼の意を迎合して倉皇たり、天下の民心は、彼が手剛き仕打に聳動せられて愕然たり。彼は騎虎の勢に乗じて、印幡沼の開鑿に着手せり。これ万一敵艦江戸湾を扼する時に際し、常総、両野の米を、江戸に廻送するの用に供せんがためなり。彼はさらに江戸、大坂十里四方を上知せしめて、以て幕府の直轄に帰し、以て万一の変に備えんと欲せり。彼はこれに加うるに各地に散在する諸侯及び旗本の飛地を一処に纏め、以て武備機関の統制を整調せんと欲せり。而してこれらの上知は悉く彼らの高免地を以て、幕府の薄免地に交換すべしと命ぜり。諸侯及び旗下を損じて幕府を利す、理において当らざるが如し。然れども彼は国家の変に応ずるには、財用を裕にせざるべからざるを看取したり。その両都十里四方を幕府に直轄すべしといい、諸侯及び旗下の飛地を取り纏むべしというが如き、国民的統一の精神は、彼が傍若無人の経綸によりて予測せられたり。
宮廷の隠謀は、閣僚の隠謀と相結べり。彼はチュルゴーの去るが如くに去れり。チュルゴーの在職およそ二十箇月、彼の改革の発端より当時に至る――天保十二年五月より同十四年閏九月――二年四箇月なりとす。チュルゴーの去るや、その友曰く、「卿の改革は余りに火急なりし」と。チュルゴー曰く、「汝はその火急を咎む、然れども余が血筋は五十以前概して癆を病んで死するを知らずや」と。もし忠邦をして答えしめば、将にいうべし、「内外の積弊駸々乎として禦ぐべからず、一日の猶予は則ち一日の大患なりと知らずや」と。
彼は何故に失敗したるか、その資望もしくは施設の人意に慊たらざるものもあるべし。試みに寛政度の改革家松平越中守を以て、彼に比すれば、一は親藩の位地より出で、他は譜代の小諸侯より出づ。一は田沼濁政の後を承け、天下の民みな一新の政を望むの時に際し、他は文恭公太平の余沢に沈酔したるに際す。一は天下の衆望によりて抽んでられ、他は寵臣の縁によりて薦む。一はその同僚に羽翼の忠友多く、他はその同僚に敵心を挾み、然らざるも冷淡なるもの概してこれ。一はその下僚の温良にして民に近き能吏多く、他は精刻苛佻、動もすれば訐以て直となし、察以て明となす酷吏多し。一はその倹約政策消極的にして、着実謹厳に天下の人心を服せんと欲し、他は動もすれば積極的に進み、放胆鋭利、むしろ人心を聳動せしめざらんことをこれ恐るるものの如く、即ち一は村落に貯蓄金を設け、市町に町会所を建て、積金をなさしめ、小民を安堵せしむるが如き、漸進の保険策を採り、他は菱樽十担問屋の専売権を剥ぎ、富豪の驩心を損ずるを顧みず、極めて急進突飛の手腕を揮い、一は常識円満、群小を包容する韓魏公に類し、他は理のある所、勢を顧りみず、勢の存する所、情を顧りみざる王安石に近し。
もしそれ寛政の弊風、天保に及んでいよいよ増長し、而してこの増長したる弊風をば根本より咄嗟の間に抜き去らんとしたるは、自から力を量らざるとはいえ、むしろ水野において多しとするに足るものなくんばあらず。いわんや天保の改革は、寛政の改革を再演したるに過ぎざるも、その大本において、大いに同じからざるものあるをや。寛政の改革は、内弊に余儀なくせられて出で来れり。天保の改革は、外患を予測して出で来れり。近きものは人みなこれを知る、遠きものは人みなこれを知らず。既然は衆みなこれを察す、未来は衆みなこれを察せず。吾人は天保の改革の甚だ難きを知る。松平定信出で来るもあるいは難きを知る。看よ、彼が寛政の改革すら、宮廷の隠謀は彼をして中途に去らしめたるにあらずや。吾人は水野の失敗を咎めずして、むしろ彼の苦衷を了するの禁ずる能はざるを覚う。
然らば則ち彼が失敗したる所以のもの知るべきのみ。彼の改革に同情を表するものは、彼と呼吸相通ぜざる社会中心の外にあり。彼の左右前後、みな彼の敵ならざるはなし。積弊の存するは、彼らが便益の存する所。彼らに向って改革の味方たらんことを望むは、屠児に向って悉く献身的の天人たらんことを望むなり。蓋し如何なる場合にても、改革は内より成就する能わず、もし万一内より成就する所あらば、必らず外の勢援あるに拠る、外より圧迫するに拠る。彼が将来の外患を予測して、沈酔の社会を鞭撻せんとす、その怨府となるまた宜べならずや。
いわんや封建社会の活火は、自家の築きし竈において、漸く消燼して、今や僅かに半温半冷の死灰を止めんとす。この時において薪を加えずして火を吹かんとす、これ火を吹くにあらず、死灰を雨らすなり。疲馬に鉄鞭を加えて、以て快奔せしめんと欲す、これ快奔せしむるにあらず、これ疲馬を殺すなり。