吉田松陰

10話 第六 水野越前守の改革(1)

5,358字 約11分 2017年8月4日 公開

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 内潰(ないかい)外逼(がいひつ)の趨勢(すうせい)は、遂に徳川幕府において、天保の改革を喚起せしめたり。天保の改革は則ち水野忠邦の改革なり。彼は何人(なんぴと)ぞ、彼は何事を做(な)せしぞ。

 彼は責任を知る晁錯(ちょうそ)なり、無学なる(比較的に)王安石(おうあんせき)なり。彼は文化十二年寺社奉行となり、爾来(じらい)大坂城代(じょうだい)となり、京都所司代(しょしだい)となり、西丸(にしのまる)老中となり、遂に天保五年本丸(ほんまる)老中となる。彼が政治的経歴およそ二十年、而(しこう)してこの二十年は、家斉(いえなり)将軍下半期の治世にして、文恬(ぶんてん)武煕(ぶき)、幕政の荒廃既に絶頂に達したるの日なり。されば彼は内外の政務に精通したると同時に、幕府の衰因の深かつ遠にして、到底大切断の作用を藉(か)らざれば、これを救済するの道なきを熟知したり。彼はあくまで逞(たく)ましき野心を有せり、彼の二十年来大いに為す所なきは、為さんと欲するの機会を待ちたるなり。

 今やその時は来れり、天保十二年前将軍家斉は死せり。将軍家慶(いえよし)は、漸(ようや)くその政を親(みず)からするを得たり。彼が家慶における関係は、あたかもチルゴーが路易(ルイ)十六世におけるが如き関係なりし。「真個(しんこ)に人民を愛するものは、朕とチルゴーあるのみ」との言葉は、殆んど家慶と忠邦との間にも、繰り返されたり。彼が君の信任を得ること、かくの如く専らなりき。故に彼は短刀単入、その積弊の中心に向って打撃を加えたり。

 破産せず、増税せず、借金せずとは、これチルゴーが路易(ルイ)十六世朝の財政に処せる綱領にあらずや。彼が政綱もまた然(しか)り、彼は倹約を以て、唯一の政綱となし、これを実行するにおいては、殆んど幕府の全力を賭するをも、自個の生命を擲(なげう)つも敢て顧慮せざりき。幕府の治世二百六十年、何(いずれ)の時か倹約令を聞かざらんや。ただ天保の倹約令に至りては、太平の社会を震動せしめ、半世紀後の今日において、白頭の父老(ふろう)これを語りて唇角(しんかく)の微顫(びせん)あるを覚えしめたるは何ぞ。彼が令する所、彼これを行えばなり、彼これを行うのみならず、彼はこれを行わしむるなり。彼は自(みず)から信ずるの篤(あつ)きのみならず、その執着力の強靭(きょうじん)果鋭なるにおいては、王安石もまた三舎(さんしゃ)を避くる程なりき。

 一令は一令より繁(しげ)く下れり、天下の民は、雷鳴を聞くのみならず、閃々(せんせん)たる電光を見たり。閃電を見るのみならず、落雷に撃たれたり。彼は前将軍の死後五月を経ざるに、その寵臣(ちょうしん)林肥後守、水野美濃守、美濃部筑前守、中野碩翁(せきおう)等を宮廷より一掃し去れり。中にも彼が仕途は水野美濃守の因(いんいん)によりしに係(かかわ)らず、彼は大義親(しん)を滅すの理に拠(よ)り、彼をすら斥(しりぞ)けたりき。寵臣去りて群小の肝胆寒し。これよりして彼の改革は筍皮(じゅんひ)を剥ぐが如く、層一層緊切になり来れり。彼の手は将軍内廷の小刀庖丁(ほうちょう)より、幕閣日用の紙にまで、妖僧の品行より俳優の贅沢(ぜいたく)にまで、婦女子の髪飾より、食膳の野菜にまで、小童の凧(たこ)の彩色より、雲助(くもすけ)の花繍(かしゅう)まで、およそ社会生活の事、上は将軍より下は乞食に到る、一として彼の干渉を被(こうむ)らざるものあらざりき。

 彼は倹約令を布(し)くのみならず、倹約の敵たる淫蕩(いんとう)奢侈(しゃし)の風俗を矯正せんと欲せり。彼は男娼を禁ぜり、彼は隠売淫(かくればいいん)を禁ぜり、彼は各売淫所を撤(てつ)して、これを市外の一所に遷(うつ)せり。彼は市中に散在する劇場を移して、これをその片隅に集めたり。彼は鄙猥(ひわい)なる戯作本(げさくぼん)を禁じて、その著作者を罪せり。彼はドラコの酷腕を以て、ライコルガスの理想を実行せんと欲せり。彼は何(なに)故(ゆえ)にかくの如きことをなせしや。彼は自(みず)から曰く、「宿(しゅくあ)の胸腹に凝滞(ぎょうたい)仕(つかまつ)り、一円(いちえん)快愈の兆(きざし)これ無きの姿に付き、一旦烏頭(うず)、大黄(だいおう)の激剤相施し申さず候えば、迚(とて)も功験得難く候」と。当時の社会は、果してかくの如く宿(しゅくあ)に取り附かれたるか、曰く、然(しか)り。

 諸侯は何事をなせしか。

今の諸侯に財足れるものなし。昇平(しょうへい)百年にして奢侈(しゃし)習(ならい)となり、費用古(いにしえ)に十倍せり。窮せざることを欲すとも得べからず。終(つい)には大坂の商賈(しょうこ)鴻(こう)の池(いけ)、加島屋、辰巳屋などいえるものどもに借財して一時(いっとき)の乏しきを救うといえども、またその利息返償に一層の苦を増し、終(つい)に窮迫、せんかた尽(つ)きて、家中の禄をかりあげ、紙金(しきん)の通用鋳銭(ちゅうせん)などにて欠(けつ)を補うに至る。その策尤(もっと)も拙く、銭多ければ賤(いや)しく、紙金を造れば他邦に通ぜず、正金出でて再び帰らず。いよいよ乏しくますます窮す。今に至りて謀(はかり)ごといかんともすべからず。ただ讃岐(さぬき)の高松侯僅(わず)かに富みたまうとのことにて、近時金七万両を幕府に献じ、大いに賞せらるなどいえりしが、これもまた乏しきを告げたりと聞く。世に民の窮して家屋敷をひさぎて去るを売(うり)すえという。近頃大名の売(うり)すえも出でたりといえり。高七万石ほどの諸侯なるが、公辺は養子と称し、壮年にて隠居し家督を伝え、家財、封禄、家士(かし)に至るまで三千金にかえて、己(おのれ)は外邸に潜(ひそ)み居るあり。父子の礼もなかるべし。たとえ売る君ありとも売らする臣はあるまじきに、上下これを以て安んずることいかなることにやあらん。君君たらず臣臣たらずというべし。(『江戸見分二録』)

 武士は何事をなせしか。

百有余歳以前の武士、大名、高家(こうけ)といわるるも、みな干戈(かんか)を枕とし甲冑(かっちゅう)を寝巻にし、寒夜も山野に起臥(きが)し暑日も道路に奔走し、酒肴(しゅこう)に飽くこともなく朝夕雑飯に糠汁にてくらし、一生身体を労苦し、はては畳の上の死希(まれ)なり。不幸とやいわん、不便とや申すべき。されども五倫の道筋も相応に心掛けて、君臣父子の理(ことわ)りも違(たが)えざるはありがたきことならずや。今は主君と先祖の恩恵にて飽食(ほうしょく)暖衣(だんい)し、妻子に驕(おご)り家人を責(せめ)つかい、栄耀(えいよう)にくらし、槍刀はさびも拭(ぬぐ)わず、具足(ぐそく)は土用干に一度見るばかり。刀脇差(わきざし)も有用の物ともおもわずや、かざりの美、異風の拵(こしらえ)のみを物数寄(ものずき)無益の費に金銀を捨て、衣服も今様(いまよう)を好み妻子にも華美風流を飾らせ、遊山(ゆさん)、翫水(がんすい)、芝居見に公禄を費し、百姓をせめはたり取揚げ、借金方(かた)へは不沙汰をし、次第次第にすり切れ、はては妻子も育くまれず家人も養われざる輩多し。家禄はありながらかくなり行(ゆく)は、穀潰(ごくつぶ)しとも知行(ちぎょう)盗(ぬすみ)ともいうべし。(『太平絵詞』)

 商人は何事をなせしか。

ある商人の書画を好(この)みて玩(もてあそ)ぶものありしが、その購入する所を聞くに、金岡(かなおか)が観音の像一幀(てい)代価千両なり。徽宗(きそう)の桃に鳩の絵僅(わず)かに長さ五、六寸に広さ六、七寸なる小幅が同じく千両なり。その外馬遠(ばえん)の対幅が五百両、牧渓(もっけい)が一幀五百両なり。その他もこれに準ず。また茶器を買入るるものあり(銘は知らず)、茶盒(ちゃごう)千五百両、南蛮縄簾(なわすだれ)の水指(みずさし)三百両、祥瑞(しょうずい)の香盒(こうごう)二百両なり。また古銭を愛するものありしが、半両一枚を六百両に買入る。その外一枚五十両、百両、二百両、三百両などいうは数品ありしとなり。これらはみな大名旗本より町人に売り払いしものなりという。

またある富商は常に野菜の走りを賞味することを好むものなるが、親しく出入する人その価附(ねづけ)を見しに、隠元豆(いんげんまめ)の初めて市場に出でしというが一把(わ)二十本にて代金二分、同じく茄子(なす)の鴫焼(しぎやき)が代金七両とあるに舌を巻きて驚き、昔の一食に万銭を費せしというもこれには過ぎじといいしなり。その他なお商家の豪奢(ごうしゃ)を尽したる例甚だ多く、就中(なかんずく)外妾(がいしょう)を蓄(たくわ)うること商人に最も多くして、手代の輩(やから)に至るまで窃(ひそか)に養わざるものなしという。かく分外(ぶんがい)の奢侈(しゃし)は札差(ふださし)または御用達(ごようたし)商人の輩に多しといえり。

 社会の情勢かくの如し。彼が改革の峻急(しゅんきゅう)酷烈(こくれつ)なりしも、また宜(う)べならずや。彼は封建社会の解体の、滔々(とうとう)として止(や)むべからざるを見たり、彼は社会の中心点の欹傾(いけい)するを見たり、彼は徳川幕府の命数の危(あやう)きを見たり。而(しこう)してさらに外患の眉端(びたん)に迫るを見たり。この内自(おのず)から潰解せんとする社会を率(ひき)い、如何にして、猛然として来(きた)り迫る外患に応ずるを得んや。知るべし、彼の改革の十中の七、八は、外交の刺激、否なむしろ外患の予測より来(きた)りしものなるを。彼が改革の失敗したるは、彼が余り烱眼家(けいがんか)たりし罪に坐するのみ。

 百五十年前熊沢の国防論は、今や端(はし)なくも彼の手によりて実行せられたり。惰風を鞭(むちう)ち、汚俗を矯(た)め、士気ここに揚り、国用ここに富み、潰敗せんとする社会を整理統一し、以て将(まさ)に来(きた)らんとする外艱(がいかん)に備うるは、彼が改革の第一主眼なりき。されば彼は高島秋帆(たかしましゅうはん)を江戸に召して、砲術を演ぜしめ、これを旗本及び諸侯の士に伝習するを公許し、天保十三年七月においては、さらに文政打払令を取り消し、異国船来着の砌(みぎ)りは、来意を質(ただ)し、薪水(しんすい)食料を給すべきを令し、親藩の随一なる水戸烈公と結び、着々改革の歩を進めたり。即ち烈公が梵鐘(ぼんしょう)を毀(こぼ)ちて大砲を鋳(つく)りたるも、甲冑(かっちゅう)にて追鳥狩(おいとりがり)を企てたるも、みなこの同時なりとす。

 改革は一瀉千里(いっしゃせんり)の勢を以て進めり。総(すべ)ての障碍を打破りて進めり。抵抗者は罰せられ、異論者は斥(しりぞ)けられ、不熱心者は遠ざけらる。彼の同僚は、彼の威勢に圧(あっ)せられて唯々(いい)たり、彼の下僚は、彼の意を迎合して倉皇(そうこう)たり、天下の民心は、彼が手剛(てごわ)き仕打に聳動(しょうどう)せられて愕然(がくぜん)たり。彼は騎虎(きこ)の勢に乗じて、印幡沼(いんばぬま)の開鑿(かいさく)に着手せり。これ万一敵艦江戸湾を扼(やく)する時に際し、常総、両野の米を、江戸に廻送するの用に供せんがためなり。彼はさらに江戸、大坂十里四方を上知(じょうち)せしめて、以て幕府の直轄に帰し、以て万一の変に備えんと欲せり。彼はこれに加うるに各地に散在する諸侯及び旗本の飛地を一処に纏(まと)め、以て武備機関の統制を整調せんと欲せり。而(しこう)してこれらの上知(じょうち)は悉(ことごと)く彼らの高免地(たかめんち)を以て、幕府の薄免地に交換すべしと命ぜり。諸侯及び旗下を損じて幕府を利す、理において当らざるが如し。然(しか)れども彼は国家の変に応ずるには、財用を裕(ゆたか)にせざるべからざるを看取したり。その両都十里四方を幕府に直轄すべしといい、諸侯及び旗下の飛地を取り纏(まと)むべしというが如き、国民的統一の精神は、彼が傍若無人(ぼうじゃくぶじん)の経綸によりて予測せられたり。

 宮廷の隠謀は、閣僚の隠謀と相結べり。彼はチュルゴーの去るが如くに去れり。チュルゴーの在職およそ二十箇月、彼の改革の発端より当時に至る――天保十二年五月より同十四年閏(うるう)九月――二年四箇月なりとす。チュルゴーの去るや、その友曰く、「卿の改革は余りに火急なりし」と。チュルゴー曰く、「汝はその火急を咎(とが)む、然(しか)れども余が血筋は五十以前概して癆(ろう)を病んで死するを知らずや」と。もし忠邦をして答えしめば、将(まさ)にいうべし、「内外の積弊駸々乎(しんしんこ)として禦(ふせ)ぐべからず、一日の猶予は則ち一日の大患なりと知らずや」と。

 彼は何故に失敗したるか、その資望もしくは施設の人意に慊(あき)たらざるものもあるべし。試みに寛政度の改革家松平越中守を以て、彼に比すれば、一は親藩の位地より出で、他は譜代の小諸侯より出づ。一は田沼濁政の後を承け、天下の民みな一新の政を望むの時に際し、他は文恭公太平の余沢に沈酔したるに際す。一は天下の衆望によりて抽(ぬき)んでられ、他は寵臣(ちょうしん)の縁(いんえん)によりて薦(すす)む。一はその同僚に羽翼(うよく)の忠友多く、他はその同僚に敵心を挾(はさ)み、然(しか)らざるも冷淡なるもの概してこれ。一はその下僚の温良にして民に近き能吏(のうり)多く、他は精刻苛佻(かちょう)、動(やや)もすれば訐(けつ)以て直となし、察以て明となす酷吏(こくり)多し。一はその倹約政策消極的にして、着実謹厳に天下の人心を服せんと欲し、他は動もすれば積極的に進み、放胆鋭利、むしろ人心を聳動(しょうどう)せしめざらんことをこれ恐るるものの如く、即ち一は村落に貯蓄金を設け、市町に町会所を建て、積金をなさしめ、小民を安堵(あんど)せしむるが如き、漸進の保険策を採り、他は菱樽(ひしだる)十担(たん)問屋の専売権を剥(は)ぎ、富豪の驩心(かんしん)を損ずるを顧みず、極めて急進突飛の手腕を揮い、一は常識円満、群小を包容する韓魏公に類し、他は理のある所、勢を顧りみず、勢の存する所、情を顧りみざる王安石に近し。

 もしそれ寛政の弊風、天保に及んでいよいよ増長し、而(しこう)してこの増長したる弊風をば根本より咄嗟(とっさ)の間に抜き去らんとしたるは、自(みず)から力を量(はか)らざるとはいえ、むしろ水野において多しとするに足るものなくんばあらず。いわんや天保の改革は、寛政の改革を再演したるに過ぎざるも、その大本において、大いに同じからざるものあるをや。寛政の改革は、内弊に余儀なくせられて出(い)で来(きた)れり。天保の改革は、外患を予測して出で来れり。近きものは人みなこれを知る、遠きものは人みなこれを知らず。既然は衆みなこれを察す、未来は衆みなこれを察せず。吾人(ごじん)は天保の改革の甚だ難きを知る。松平定信出で来るもあるいは難きを知る。看(み)よ、彼が寛政の改革すら、宮廷の隠謀は彼をして中途に去らしめたるにあらずや。吾人は水野の失敗を咎(とが)めずして、むしろ彼の苦衷(くちゅう)を了(りょう)するの禁ずる能(あた)はざるを覚う。

 然(しか)らば則ち彼が失敗したる所以(ゆえん)のもの知るべきのみ。彼の改革に同情を表するものは、彼と呼吸相通ぜざる社会中心の外にあり。彼の左右前後、みな彼の敵ならざるはなし。積弊の存するは、彼らが便益の存する所。彼らに向って改革の味方たらんことを望むは、屠児(とじ)に向って悉く献身的の天人たらんことを望むなり。蓋(けだ)し如何なる場合にても、改革は内より成就(じょうじゅ)する能(あた)わず、もし万一内より成就する所あらば、必らず外の勢援あるに拠る、外より圧迫するに拠る。彼が将来の外患を予測して、沈酔の社会を鞭撻(べんたつ)せんとす、その怨府(えんぷ)となるまた宜(う)べならずや。

 いわんや封建社会の活火は、自家の築きし竈(かまど)において、漸(ようや)く消燼(しょうじん)して、今や僅かに半温半冷の死灰(しかい)を止(とど)めんとす。この時において薪を加えずして火を吹かんとす、これ火を吹くにあらず、死灰を雨(ふ)らすなり。疲馬に鉄鞭(てつべん)を加えて、以て快奔(かいほん)せしめんと欲す、これ快奔せしむるにあらず、これ疲馬を殺すなり。

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