吉田松陰

9話 第五 天保時代

2,658字 約5分 2017年8月4日 公開

読み方を変える
字の大きさ
行の間隔
1行の長さ
書体
配色
組み方

 異(い)なるかなこの子、七書をして六経(りくけい)と光を争わしめんとすと。これ松陰が十一歳の頃、長門侯毛利慶親(よしちか)の前に、『武教全書』を進講したるに際し、侯が嘆賞せし語にあらずや。彼は出でて吉田氏を続(つ)ぐ、吉田氏は、世々(よよ)山鹿流の兵家にして、韜(とうけん)は則ち彼の家学なり。蛇は一寸にして人を呑むの気象あり。如何に当今の時勢は、この英発秀鋭なる小童の眼孔に影じたるよ。吾人(ごじん)をして少しく語らしめよ。

 内潰(ないかい)外逼(がいひつ)の危機は、日一日より近づけり。天保十一年は如何なる歳ぞ。かつその前後の年代を顧りみ見よ。

 一時人目を聳動(しょうどう)したる寛政の改革も、今は全く荒廃せり。幕府は財政に窮乏し、随(したが)って窮乏すれば、随って金銀吹換(ふきかえ)に托して、悪性の貨幣を鋳造し、これを鋳造するに随い、物価騰貴し、小民を疚(やま)しめたり。天保五年の正月においては、米百俵に附き百四十五両余の相庭(そうば)となり、餓(がひょう)路に満つの状ありき。「黄金太(はなは)だ重く天下軽し」、小民怨嗟(えんさ)の声は、貴人の綺筵(きえん)に達せず。武門の繁昌も、今やその極度に達し、将軍家斉(いえなり)は、源頼朝すら、足利尊氏すら、もしくは乃祖(だいそ)徳川家康すら、その例なかりし太政大臣の極爵を、生れながら軍職と共に併せ帯び、豪奢(ごうしゃ)度(ど)なく、而(しこう)して下の上に倣(なら)う、さらに甚しきものあり。三百諸侯みな幕府の豪奢を模範とし、各藩留守居(るすい)の如きは、一椀十両の料理を喫するに到るものあり。この時において倹約の触書(ふれがき)を出し、強いて一般人民をして質素の生活をなさしめんと欲するも、それ豈(あ)に得べけんや。当時しばしば田畑に甘蔗を植るを制止するの令あり、また以て砂糖の需用の、大いに増加したるを知るべし。平和の味は、砂糖の味なり。砂糖の需用は、生活の度と正比例す。また以て封建社会が富のために併呑(へいどん)せられつつあるを察するに足らん。

 この時において彼(か)の智勇弁力の徒、焉(いず)くに在るかな。軽慓(けいひょう)、狠険(こんけん)、篤信(とくしん)の小吏(しょうり)大塩平八が、天保八年の饑饉に乗じ、名を湯武(とうぶ)の放伐(ほうばつ)に籍(か)り、その一味(いちみ)を率(ひき)い、火を放ちて大坂城を乗り取らんとしたるが如きは、実にその消息の一端を漏らしたるものなりといわざるべからず。当時の詩人が「清平に事あり、これ天警」と歌いたる、固(もと)より宜(う)べなり。もしそれその機会あらしめば、弓を挽(ひ)いて徳川幕府に向わんとするもの、豈(あ)にただ一の大塩のみならんや。太平の沢(たく)を被(こうむ)るものは、固(もと)より太平に沈酔す。然(しか)れども彼れ凌雲衝天(りょううんしょうてん)の猛志を抱き、空しく格式門閥のために、その自由の余地を束縛せられ、社会の鈍調(どんちょう)に懶殺(らんさつ)せられんとするもの、焉(いずく)んぞ太平に謳歌するを得んや。苟(いやし)くも動乱の機さえ来らば、彼らは何時にてもこれを攫(つか)むを辞せざるなり。

 かつ眼を外に転ぜしめよ。

 文化初年来、北地頻(しき)りに警報あらざるなし。その八年においては、南部の戍兵(じゅへい)露人八人を擒(とりこ)にして、これを松前に送り、その九年においては、露船高田屋嘉兵衛を擒(とりこ)にして去る。同十年に到り、彼を送還し、かつ先年来樺太(からふと)、択捉(えとろふ)を擾(みだ)せしは、露国政府の意にあらざるを告げ、かつ八人の俘虜を還さんことを請う。依(よ)ってこれを許し、さらに文化十一年に到りて、択捉以南を我(わが)地となし、中間にウルップ島を置き、シモシリ以北を露領となし、事暫(しば)らく平(たいら)ぐを得たり。然(しか)れども北地の警これがために、聊(いささ)か緩なるも、辺海の黒船は、天魔の如く、我が四境を覗(うかが)えり。今その一、二を挙げんに、文化十四年英船浦賀湾に入る。文政元年英船再び浦賀湾に入る。同七年五月英人常陸(ひたち)大津浜に上陸するもの十二人。七月同じく薩州宝島に上陸し、野牛を奪い去る。辺海漸(ようや)く多事、幕府将(まさ)に奔命に疲れんとす。ここにおいて天文方高橋作左衛門は説をなして曰く、黒船の沿海に出没するは、概して捕鯨船にして、その寄港し上陸するものは、我が寛政令の好意を恃(たの)めばなり。速かに寛永打払(うちはらい)令の旧に復せば、また何ぞ黒船の憂(うれい)あらんやと。外事に々(かいかい)として、一日の苟安(こうあん)を偸取(とうしゅ)せんとする幕府は、ここにおいて異国船を二念なく打払うの令を布けり。時に文政八年二月なりとす。

 然りといえどもこの打払令の外船における効用は、あたかも潮に向って退去令を下したるの効用と殊(こと)ならず。退去令を下したればとて、進潮は乍(たちま)ち退去するものにあらず。打払令、外国の来迫に対して何かあらん。天保二年には、異船(露人?)東蝦夷(えぞ)を侵せり、同八年には、英船浦賀湾に入れり。而(しこう)して英船モリソン号江戸に入らんとする警報は、和蘭(オランダ)の風説書によりて、漸(ようや)く烱眼(けいがん)卓識なる士人の間に流布(るふ)し、これがために渡辺登の『慎機論』、高野長英の『夢物語』出で来り。漢蘭学党の争いは、延(ひ)いて奇禍を二人に及ぼし、天保十年において、彼らは各その刑に処せられたりき。蓋(けだ)し八代将軍吉宗蘭書の禁緩(ゆる)んで以来、我邦(わがくに)蘭書を講ずるもの漸(ようや)く増加し、安永、天明よりして、寛政、文化に及び、杉田、前野、大槻の徒、相接して出で、蛮社(ばんしゃ)の名漸く高く、彼らの崇論高議漸く天下の注意を惹(ひ)けり。渡辺、高野の徒は則ちその余流を酌みたるなり。

 かくの如く一方においては、志士の口を箝(かん)して、強いて無事を装わんとするに際し、他方においては、海外の形勢いよいよ切迫となり、一衣帯水(いちいたいすい)を隔てたる清国(しんこく)は、今や英国と事を生じ、天保十年(千八百三十九年)には林則徐阿片(あへん)二万函(ばこ)を焼き、その明年に及んで英清の戦争となり、同天保十三年(千八百四十二年)においては、英兵上海を抜き南京に逼(せま)り、遂に清国よりして償金二千百万弗(ドル)を出し、これに加うるに香港の地を割(さ)き、さらに五港を開き、以て南京条約を締結せり。正(まさ)にこれ百万の妖鯨(ようげい)濤(なみ)を蹴りて飛ぶ。英国が戦勝の威に乗じて、我邦(くに)に来り逼(せま)るは、特に識者を待ってこれを知らざるなり。

 さらに太平洋の向岸を眺れば、北米合衆国の内政漸(ようや)く緒(しょ)に就(つ)き、その文化は中部よりして西南に波及し、弘化二年においては、米船浦賀に至り、同三年米国軍艦浦賀に入りて互市(ごし)を請う。その同年(千八百四十六年)米国は南墨西哥(メキシコ)を攻め、その明年西部カリホルニヤにおいて、金鉱を発見す。西漸(せいぜん)の勢(いきおい)日一日よりも急なり。この時においてその余力の延(ひ)いて我に及ぶ、何(なん)ぞ必らずしも和蘭(オランダ)王の忠告を竢(ま)たんや。いわんや六千年来の新発明たる海上飛行器械――蒸汽船は、今や既に彼らの利器となりたるにおいてをや。かくて和蘭王は、昔年(せきねん)の交誼(こうぎ)よりして、弘化元年使節を遣(つか)わし、世界の大勢を詳(つまびら)かにし、鎖国の長計にあらざるを説き、和親通交の止(や)むべからざるを告げたりき。而(しこう)して我は何を以てこれに答えたる。曰く、祖宗(そそう)の法、変ずべからず。和親通交は、祖宗の禁ずる所なり。故に決して許す能(あた)わざるなり。

 松陰は則ちかかる社会の大気中に生長したりき、彼は実に動乱の児といわざるを得ず。

目次に戻る

目次