9話 第五 天保時代
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異なるかなこの子、七書をして六経と光を争わしめんとすと。これ松陰が十一歳の頃、長門侯毛利慶親の前に、『武教全書』を進講したるに際し、侯が嘆賞せし語にあらずや。彼は出でて吉田氏を続ぐ、吉田氏は、世々山鹿流の兵家にして、韜は則ち彼の家学なり。蛇は一寸にして人を呑むの気象あり。如何に当今の時勢は、この英発秀鋭なる小童の眼孔に影じたるよ。吾人をして少しく語らしめよ。
内潰外逼の危機は、日一日より近づけり。天保十一年は如何なる歳ぞ。かつその前後の年代を顧りみ見よ。
一時人目を聳動したる寛政の改革も、今は全く荒廃せり。幕府は財政に窮乏し、随って窮乏すれば、随って金銀吹換に托して、悪性の貨幣を鋳造し、これを鋳造するに随い、物価騰貴し、小民を疚しめたり。天保五年の正月においては、米百俵に附き百四十五両余の相庭となり、餓路に満つの状ありき。「黄金太だ重く天下軽し」、小民怨嗟の声は、貴人の綺筵に達せず。武門の繁昌も、今やその極度に達し、将軍家斉は、源頼朝すら、足利尊氏すら、もしくは乃祖徳川家康すら、その例なかりし太政大臣の極爵を、生れながら軍職と共に併せ帯び、豪奢度なく、而して下の上に倣う、さらに甚しきものあり。三百諸侯みな幕府の豪奢を模範とし、各藩留守居の如きは、一椀十両の料理を喫するに到るものあり。この時において倹約の触書を出し、強いて一般人民をして質素の生活をなさしめんと欲するも、それ豈に得べけんや。当時しばしば田畑に甘蔗を植るを制止するの令あり、また以て砂糖の需用の、大いに増加したるを知るべし。平和の味は、砂糖の味なり。砂糖の需用は、生活の度と正比例す。また以て封建社会が富のために併呑せられつつあるを察するに足らん。
この時において彼の智勇弁力の徒、焉くに在るかな。軽慓、狠険、篤信の小吏大塩平八が、天保八年の饑饉に乗じ、名を湯武の放伐に籍り、その一味を率い、火を放ちて大坂城を乗り取らんとしたるが如きは、実にその消息の一端を漏らしたるものなりといわざるべからず。当時の詩人が「清平に事あり、これ天警」と歌いたる、固より宜べなり。もしそれその機会あらしめば、弓を挽いて徳川幕府に向わんとするもの、豈にただ一の大塩のみならんや。太平の沢を被るものは、固より太平に沈酔す。然れども彼れ凌雲衝天の猛志を抱き、空しく格式門閥のために、その自由の余地を束縛せられ、社会の鈍調に懶殺せられんとするもの、焉んぞ太平に謳歌するを得んや。苟くも動乱の機さえ来らば、彼らは何時にてもこれを攫むを辞せざるなり。
かつ眼を外に転ぜしめよ。
文化初年来、北地頻りに警報あらざるなし。その八年においては、南部の戍兵露人八人を擒にして、これを松前に送り、その九年においては、露船高田屋嘉兵衛を擒にして去る。同十年に到り、彼を送還し、かつ先年来樺太、択捉を擾せしは、露国政府の意にあらざるを告げ、かつ八人の俘虜を還さんことを請う。依ってこれを許し、さらに文化十一年に到りて、択捉以南を我地となし、中間にウルップ島を置き、シモシリ以北を露領となし、事暫らく平ぐを得たり。然れども北地の警これがために、聊か緩なるも、辺海の黒船は、天魔の如く、我が四境を覗えり。今その一、二を挙げんに、文化十四年英船浦賀湾に入る。文政元年英船再び浦賀湾に入る。同七年五月英人常陸大津浜に上陸するもの十二人。七月同じく薩州宝島に上陸し、野牛を奪い去る。辺海漸く多事、幕府将に奔命に疲れんとす。ここにおいて天文方高橋作左衛門は説をなして曰く、黒船の沿海に出没するは、概して捕鯨船にして、その寄港し上陸するものは、我が寛政令の好意を恃めばなり。速かに寛永打払令の旧に復せば、また何ぞ黒船の憂あらんやと。外事に々として、一日の苟安を偸取せんとする幕府は、ここにおいて異国船を二念なく打払うの令を布けり。時に文政八年二月なりとす。
然りといえどもこの打払令の外船における効用は、あたかも潮に向って退去令を下したるの効用と殊ならず。退去令を下したればとて、進潮は乍ち退去するものにあらず。打払令、外国の来迫に対して何かあらん。天保二年には、異船(露人?)東蝦夷を侵せり、同八年には、英船浦賀湾に入れり。而して英船モリソン号江戸に入らんとする警報は、和蘭の風説書によりて、漸く烱眼卓識なる士人の間に流布し、これがために渡辺登の『慎機論』、高野長英の『夢物語』出で来り。漢蘭学党の争いは、延いて奇禍を二人に及ぼし、天保十年において、彼らは各その刑に処せられたりき。蓋し八代将軍吉宗蘭書の禁緩んで以来、我邦蘭書を講ずるもの漸く増加し、安永、天明よりして、寛政、文化に及び、杉田、前野、大槻の徒、相接して出で、蛮社の名漸く高く、彼らの崇論高議漸く天下の注意を惹けり。渡辺、高野の徒は則ちその余流を酌みたるなり。
かくの如く一方においては、志士の口を箝して、強いて無事を装わんとするに際し、他方においては、海外の形勢いよいよ切迫となり、一衣帯水を隔てたる清国は、今や英国と事を生じ、天保十年(千八百三十九年)には林則徐阿片二万函を焼き、その明年に及んで英清の戦争となり、同天保十三年(千八百四十二年)においては、英兵上海を抜き南京に逼り、遂に清国よりして償金二千百万弗を出し、これに加うるに香港の地を割き、さらに五港を開き、以て南京条約を締結せり。正にこれ百万の妖鯨濤を蹴りて飛ぶ。英国が戦勝の威に乗じて、我邦に来り逼るは、特に識者を待ってこれを知らざるなり。
さらに太平洋の向岸を眺れば、北米合衆国の内政漸く緒に就き、その文化は中部よりして西南に波及し、弘化二年においては、米船浦賀に至り、同三年米国軍艦浦賀に入りて互市を請う。その同年(千八百四十六年)米国は南墨西哥を攻め、その明年西部カリホルニヤにおいて、金鉱を発見す。西漸の勢日一日よりも急なり。この時においてその余力の延いて我に及ぶ、何ぞ必らずしも和蘭王の忠告を竢たんや。いわんや六千年来の新発明たる海上飛行器械――蒸汽船は、今や既に彼らの利器となりたるにおいてをや。かくて和蘭王は、昔年の交誼よりして、弘化元年使節を遣わし、世界の大勢を詳かにし、鎖国の長計にあらざるを説き、和親通交の止むべからざるを告げたりき。而して我は何を以てこれに答えたる。曰く、祖宗の法、変ずべからず。和親通交は、祖宗の禁ずる所なり。故に決して許す能わざるなり。
松陰は則ちかかる社会の大気中に生長したりき、彼は実に動乱の児といわざるを得ず。