吉田松陰

18話 第十二 幕政の変局(1)

8,188字 約16分 2017年8月4日 公開

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 家貧(まずし)うして良妻を懐(おも)い、時艱にして良相を懐(おも)う。徳川末世(まつせ)の晁錯(ちょうそ)たる水野越前守は、廃蟄(はいちつ)後、未(いま)だ十箇月ならざるに、再び起って加判列の上席に坐しぬ。これ何故ぞ、外交の迫圧、余儀なくも幕閣をして、ここに至らしめたるのみ。曰く、和蘭(オランダ)国王は、軍艦を艤(ぎ)して、開国和親の忠告書を齎(もた)らしたる特命使節を派遣すべし、曰く、英仏交(こもご)も琉球に迫り、交易を促がす。誰(た)れかこの際において、身を抽(ぬき)んで、その措置に任ずるものぞ。敵も味方も、目指すものは、ただ水野あるのみ。

 手負うたる猪は、さらに幾倍の速力を以て、突進直前す。彼は既に内政に失敗せり。彼が手腕はただ外交の上に剰(あま)されたり。彼は内政改革において、水戸烈公を援(ひ)いて、その味方としたる如く、外交においても、彼と結托して、以て為す所あらんと欲せり。嘗(かつ)て驕慢に募れりとの咎(とが)めを受けたる烈公は、再び顔を世に出だせり。羽翼既に成る、以て高飛すべし。彼の眼は将(まさ)に来らんとするの大暴風を射れり。むしろ他より逼られて開国するよりも、我より進んで慶長、元和の規模に復(かえ)り、内は既に潰敗したる士気を鼓舞し、外は進取の長計を取らんと欲せり。水戸烈公も七分までは、彼の賛成者たりき。彼は果してその経済を実行し得たるか、曰く、否、大いに否。

 彼はその経済を以て、同僚に諮(はか)れり、同僚みな否とせり。彼は重ねて老中、若年寄、寺社奉行、勘定奉行、長崎奉行、大目付、御目付等の大評定(ひょうじょう)を開けり。衆議みなこれを否とせり。彼はさらに御前評議をなせり、而(しこう)して将軍またこれを否とせり。彼を用いんがために、再び彼を起したるの幕閣は、彼の意見を用うる能(あた)わず。彼が去るべきの時は早くも来れり。

 彼は御前評議の席において、決然として曰く、「既にかく鎖国と決する上は、和の一字は、永劫(えいごう)未来、御用部屋に封禁して、再び口外する勿(なか)れ。満坐の方も果してその覚悟あるや。余が如きは不肖(ふしょう)ながら、一旦外患の迫るにおいては、一死以て君に酬(むく)い、武門の面目を辱(はずかし)めざるべし。この心日光廟も、弓矢八幡も照覧あれ」と。将軍矍然(かくぜん)たり、衆みな黙然たり。ただ彼が同僚阿部伊勢守は、涙眼以て答えて曰く、「委細承知仕(つかまつ)りぬ」と。彼は弘化元年六月二十一日に出で、同二年二月二十二日を以て去る。この人一たび去りて、幕閣また済時(さいじ)の宰相なし。

 外交の急迫は、櫛(くし)の歯を挽(ひ)くが如し、和蘭(オランダ)の使節も来れり、忠告書をも受取れり。黒船の影は日一日より重くなれり、然(しか)れども幕閣は、閑々然として泰平を粧えり。嘉永五年に到りては、和蘭事務官は、明年において米国軍艦が、和親条約締結の目的を以て、その使節を乗せ来(きた)る警報を伝えたり。然(しか)れども首相阿部伊勢守を始めとして、幕閣は半信半疑にこれを放擲(ほうてき)し、さらに何の準備もなさざりき。而(しこう)して果然(かぜん)嘉永六年六月三日米国軍艦は、舳艫(じくろ)相銜(ふく)み、忽然(こつぜん)として天外より江戸湾の咽吭(いんこう)なる浦賀に落ち来れり。六無斎子平(ろくむさいしへい)が、半世紀前に予言したる夢想は、今や実現せり。同六日米艦本牧(ほんもく)に入る、幕閣みな震う、会議夜に徹して、さらに定まれる廟算(びょうさん)なし。廟算上に定らざれは、驚慌下においてさらに甚し。当時の事情を記するもの曰く、

この時浦賀その外海岸諸家の陣屋より昼夜を分たず注進の汗馬、海陸飛脚の往来櫛歯(くしのは)を挽(ひ)くよりも忙(いそ)がわしく、江戸の大都繁華の巷(ちまた)も俄(にわか)に修羅(しゅら)の衢(ちまた)に変じ、万の武器、調度を持運び、市中古着商(あきな)う家には陣羽織(じんばおり)、小袴(こばかま)、裁付(たっつけ)、簑笠(みのかさ)等をかけならべ、鍛冶(かじ)を業とする者は家毎に甲冑(かっちゅう)、刀槍を鍛(きた)え、武器商う店には古き武器を累(かさ)ねてその価平時に倍せり。海辺に家宅(かたく)ある士民、老幼婦女の立退かんとて家財雑具を持運ぶ様、さしもにひろき府下の街衢(がいく)も、奔走狼狽して錐(きり)を立つべき処もなし。訛言(かげん)随(したが)って沸騰し、人心恟々(きょうきょう)として定まらず。

 如何に大狼狽したるよ。元和(げんな)偃武(えんぶ)以来、蔵(おさ)めて鞘(さや)にありし宝刀も、今はその心胆と共に錆(さ)びて、用に立つべきもあらず。和といい、戦という、共にこれ俳優的所作に過ぎず。独り封建社会の継児たる智勇弁力の徒が指点(してん)して待ちたる動乱の機は来れり。《ろう》上に太息せる陳勝、爼辺(そへん)に大語せる陳平、窮巷(きゅうこう)に黙測する范増(はんぞう)、上(いじょう)の書を玩味(がんみ)する子房、彼らが時は既に来れり。舞台変ずれば役者もまた変ぜざるべからず、今や変ずべきの時は来りしなり。松陰の如きまたその一人のみ。臥(ふ)すもの起ち、起つもの奔(はし)る、天下動乱の機は既に熟したるなり。

 統一せられたる政権は無意識的に分配せられたり。看よ、天下の大権を隻手に集めたる幕府は、今や余儀なくも、これを朝廷と諸侯とに分配せり。外交の事迫るや、その出来事を朝廷に奏聞せり、奏聞するは則ち勅裁を仰ぐの漸(ぜん)なり。和戦の議を諸侯に諮(はか)れり、諸侯に諮るは、諸侯に左右せらるるの階梯(かいてい)なり。而(しこう)して朝廷の議も、諸侯の論も、みな彼(か)の智勇弁力の徒が、その間に周旋(しゅうせん)煽揚したるに外ならず。ここにおいてか政権は沈黙の中に受授せられたり、社会は冥暗(めいあん)の中に革命せられたり。人は伏見、鳥羽の砲火によりて、革命の業行われたりという。焉(いずく)んぞ知らん、その十五年前において、幕府は既に精神的自殺をなし遂げたるを。「外よりは手もつけられぬ要害を、内よりやぶる栗のいがかな」。幕府は倒れり、さらに誰を咎(とが)むべき。

 徳川幕府の創業者の遺訓に曰く、「越方(こしかた)行末(ゆくすえ)を思い新法を立て、家を新しくする勿(なか)れ、無調法(ぶちょうほう)なりとも、予が立置きたる家法を失い給うべからずと申すべし」と。然(しか)れども彼が夢想せざりし新要素は、政治の大難題となりて現われ出でたり。内に対しては幕府の制度は、随分便利なきにあらざれども、外に対してはこれほど面倒なるものはあらず。何となれば天皇必らずしも国家を統治せず、将軍必らずしも軍務の総督官のみならず。名においては諸侯みな天皇の臣なれども、実においては将軍の臣なり。かくの如く名実相違、自家衝突の中において、自(おのず)から円融(えんゆう)活滑の制をなしたるものなれども、外に対する点においては、かかる雑駁(ざっぱく)にして錯綜したる非論理的政制の甚(はなは)だ不都合なるは、余儀なき次第といわざるを得ず。例えば誰が主人やら、家族やら、訳(わ)けの分らぬ所に面白味あれども、客に接する場合においては、主人相い識らざる家は、客も迷惑なるべく、此方(こちら)も迷惑なるべし。苟(いやし)くも事勢を揣摩(しま)するものは、天子親政の禁ずべからざる、藤田東湖を俟(ま)ちて、而(しこう)して後これを知らざるなり。然(しか)らば則ち吾人(ごじん)は決して当時の幕閣の自(みず)からその利器を人に渡したるを怪しむべからざるなり。

 吾人(ごじん)は阿部伊勢守を以て、庸相というべからず。彼は夏日(かじつ)恐るべき水野の後を承け、冬日(とうじつ)親むべき政略を取れり。如何に彼が大奥の援引(えんいん)によりてその位を固うしたるにせよ、如何に彼が苟安(こうあん)を偸取(とうしゅ)したるの譏(そし)りは免るべからざるにせよ、如何に因循(いんじゅん)姑息(こそく)の風を馴致(じゅんち)し、また馴致(じゅんち)せられ、弊船(へいせん)に坐して深淵に下るに一任したるにせよ、彼は少くとも大臣たるの器(うつわ)を具えたるを許さざるを得ず。彼は一身を以て朝廷、幕府、諸侯を連串(れんせん)するの鉄鎖となり、以て政権を三者に分配しつつも、なお幕府を以て中心点となし、上は朝廷に接し、下諸侯に連(つらな)り、以て調和一致の働きをなさんと欲せり。彼はこれがために外藩諸侯の魁(かしら)たる薩摩と結托せり。幕府の親藩にして朝廷に最も縁故ある水戸を馴撫(じゅんぶ)せり。彼が世を終るまでは、諸侯に違言なく、水戸烈公の如きも、動(やや)もすれば牴牾(ていご)扞挌(かんかく)したるに係(かかわ)らず、なお幕府の純臣たるを失わざりしなり。彼にして死せずんば、あるいは公武合体の変則制を霎時(しょうじ)の間建立したるも未(いま)だ知るべからず。惜しむべし彼は安政四年六月を以て死せり。彼一たび死す、水戸老公はあたかも放たれたる虎の如し、その幕閣より遠(とお)ざかるに比例して朝廷と密着し、一孔生じて千瘡(そう)出で、遂に容易ならざる禍機を惹起せり。

 幕閣は責任を分たんがために朝廷に奏上せり、諸侯に諮詢(しじゅん)せり、而(しこう)して未(いま)だ責任を分つに及ばずして、早くも政権を分てり。今は朝廷と諸侯とは、中間の幕府を通さずして直接の交渉を開けり。彼らは幕府が与うるに意なき政権のみを握りて、その与うるを目的としたる責任を辞せり。彼らは幕府に対しては総ての権理者にして一の義務者にあらず。幕府はただ彼らが無理なる注文に応じ、無理と知りつつ応ずる振りし、彼らが無責任なる行為の保険者となり、賠償者となり、遂にその奔命に疲れて自(みず)から斃(たお)れたり。豈(あ)にまた憐むべからずや。而(しこう)してその彼らとは朝廷にあらず、諸侯にあらず、実に彼の知勇弁力の徒たるを忘るべからず。

 阿部に継げる堀田正篤(まさひろ)の如きは、その外交的智識よりすれば、当時において一省の長官たるにおいて余りあり。然(しか)れども双肩(そうけん)以て内憂外患を担う乱世の宰相たる器(うつわ)にあらず。もしそれ徳川最後の力ある宰相を求めば、吾人(ごじん)は猶予なく指を井伊直弼に屈せざるを得ず、彼はその力量と責任を知るとよりすれば、直ちに水野忠邦以後の一人なり。

 彼の出で来(きた)る、継嗣論その楔子(せっし)たる疑うまでもなし。当時位(くらい)を極(きわ)め、驕(おご)りを極め、徳川の隆運を極めたる家斉(いえなり)の孫家定、将軍の位に在(あ)り。彼多病にして懦質(だしつ)、固(もと)より将軍の器にあらず、故に前将軍家慶(いえよし)予(あらか)じめその不肖を知り、水戸烈公の子慶喜(よしのぶ)をして一橋家を継がしめ、以て他日将軍たるの地を為さんとせり。水戸派に属する尊攘党は、彼が水戸烈公の愛子なるを以て、彼に思を属したり。幕府の当途者及び要衝(ようしょう)に立つ能吏(のうり)は、彼が一方においては尊攘党の望を負い、他方においては英才賢明なるの為人(ひととなり)を聞き、彼に思を属したり。彼さえ将軍とならば、上は朝廷の思召(おぼしめし)にも叶い、下は諸侯の望をも帰し、内は幕府の中心点を固うし、外は天下の威信をも繋(つな)がんと思えり。約言すれば彼を以て公武合体、朝廷、幕府、諸侯、三位一体(さんみいったい)の権化(ごんげ)となせり。諸侯を問わず、公卿を問わず、浮浪を問わず、幕臣を問わず、彼らが期せずして儲君(ちょくん)擁立運動に従事したるも、また宜(う)べならずや。

 将軍家定は、賢明年長なる儲弐(ちょじ)出で来(きた)る時には、己(おの)れは押込隠居とならざるべからざるを知れり。彼はその父前将軍の一橋慶喜を愛したるに反比例して、彼を好まざりき。いわんや幕政動機の潜伏処たる大奥の浸潤あるにおいてをや。ともかくも井伊直弼は、宮廷隠謀の中より幕閣の御用部屋に出で来(きた)れり。彼は一死を以て将(まさ)に倒れんとしたる幕政を挽回せんと欲したり。然(しか)れども彼を援引(えんいん)したるものは、実に儲君(ちょくん)論その主眼にして、彼は実に一橋党のために擁せられて、ここに至りたるを忘るべからず。

 井伊直弼は、儲君(ちょくん)論よりして、水戸派と反対したるか、水戸派と反対したるが故に、儲君論に反対したるか。その主客の何(いずれ)の辺にあるか、今日においてこれを揣摩(しま)する能(あた)わざれども、彼は確かに将軍家定の知遇に感激し、一死を以てこれに酬いんと欲したり。彼は確かに一橋卿を擁立するは、幕府の政権を孤弱ならしむる所以(ゆえん)なるを看取したり。彼は確かに方今(ほうこん)の大計は、阿部伊勢守以来、上朝廷に下諸侯に分配したる政権を、幕府に蒐集(しゅうしゅう)し、東照公以来独裁制を擁護するにあるを見(しょけん)せり。彼の満腹の経綸(けいりん)は、ただ幕政復古にあり、彼が満腔の熱血は、ただ幕府政権の一毫毛(ごうもう)をも、他より手を触れしめざらんことにありき。彼が眼中国家ありしや、吾人(ごじん)これを知らず、彼が眼中徳川氏あり、これがためにその身を忘るるに至りては、吾人確かに保証せんと欲するなり。

 死を知る易(やす)からず、彼既に身を献ぐ、彼は天下において一の恐るべきものを見ざるなり。彼は天下を相手として、赤手(せきしゅ)を揮(ふる)うて大挑戦を試みたり。如何に彼が挙動の惨酷、猛烈なりしかは、左に掲ぐる冷かなる日暦これを証して余りあるにあらずや。

○安政五年四月二十三日、井伊直弼大老に任ず。

○同六月二十日、勅許(ちょっきょ)を俟(ま)たず亜米利加(アメリカ)仮条約に調印す。

○同六月二十二日、堀田備中守、松平伊賀守を退け、太田道醇、間部詮勝、松平和泉守を老中となす。

○同六月二十三日、一橋公登営、井伊と論判(ろんぱん)あり。

○同六月二十四日、水戸烈公、一橋卿、尾張卿、松平慶永登営、井伊と論判(ろんぱん)す。

○同六月二十五日、紀州宰相世子(せいし)となる。

○同七月五日、尾卿隠居慎(つつし)み、水戸烈公駒込に慎み、水戸慶篤卿、一橋慶喜卿の登営を停め、松平慶永に隠居慎(つつし)みを命ず。

○同八月八日、将軍の喪を発す(実は七月五、六日の間にあり)。

○同八月八日、密勅(みっちょく)水戸に下る(大獄の近因)。

○同八月十七日、鵜飼幸吉勅書を奉じて水戸邸に入る(勅書は井伊の集権統治政策とは、氷炭相容れざるもの)。

○同八月二十八日、間部、太田の両閣老水戸邸に至り勅書を示すことを停む。

○同九月三日、間部詮勝発途(はっと)上京。

○同九月七日、梅田源次郎を捕う。

○同九月十七日、間部京都に入る。

○同九月十八日、水戸の京都留守鵜飼父子を捕う。

○同九月十九日、九条公復(ま)た出でて事を視、近衛公内覧を辞す(九条公は去る四日関東内応の非難を被(こうむ)り、公卿の衆議に迫られて辞職したるもの)。

○同九月二十二日、鷹司(たかつかさ)家、一条家の家臣其他数十人を捕う。鷹司公父子退く。

○同九月二十七日、日下部伊三治(くさかべいそうじ)を江戸に捕う。

○同十月四日、藤森恭助就縛(しゅうばく)。

○同十一月二十三日、伊達遠江守を隠居せしむ。

○同十二月二十一日、三条実万(さねつむ)民家に退居す。

○同十二月晦日(みそか)、間部始めて参内す。

○安政六年二月六日、間部、九条公と謀り、水戸に下せし勅書を収還するの書を造る。

○同二月十八日、粟田宮を要して謹慎せしむ。

○同二月二十日、間部東帰す。

○同二月二十六日、山内豊信隠居(井伊諷して)。

○同三月十日、京囚下着(げちゃく)、各大名に預けらる。

近衛(このえ)殿老女村岡、御蔵(おくら)小舎人(こどねり)山科(やましな)出雲、三条殿家来丹羽豊前(ぶぜん)、一条殿家来若松杢(もく)、久我殿家来春日讃岐(さぬき)、三条殿家来森寺困幡(いなば)、一条殿家来入江雅楽(うた)、大覚寺門跡(もんぜき)内六物(ろくぶつ)空万(くうまん)、三条殿家来富田織部。

○同四月十七日、水戸家老安島帯刀(あじまたてわき)、九鬼長門守に預けらる。

○同五月三日、鷹司、近衛、三条三大臣の落飾(らくしょく)。

○同五月二十四日、吉田松陰江戸に檻送(かんそう)を命ぜらる。

○同六月十五日、英国と交易の条約を定む。

○同六月二十四日、京都奉行大久保伊勢守西丸留守居に転ず(長野主膳のために陥(おとしい)れられたるなり)。

○同七月二十三日、露と条約を結ぶ。

○同八月二十八日、一橋慶喜隠居慎み、水戸烈公水戸表へ永蟄居(えいちっきょ)、水戸慶篤卿差扣(さしひか)え、岩瀬、永井職禄を奪い謹慎、川路隠居慎み、太田備後守慎み。(この日死因処断多し)。

○同九月十日、駿府町奉行鵜殿民部少輔隠居差扣え、黒川嘉兵衛、平山謙二郎、平岡円四郎免官差扣え(一橋擁立の罪の嫌疑なり)。

○同十月七日、橋本左内、頼三樹三郎刑斬せらる。

○同十月十一日、亜国公使登営、松平容堂に慎みを命ず。

○同十月二十七日、吉田松陰刑斬せらる。

○同十二月一日、村垣、小栗、木村、勝、米国に本条約交換として派遣せらる。

○同十二月十六日、勅書返納の騒動水戸に起る。

○万延元年、安藤対馬守老中となる。

○二月、勅書返納の騒動水戸に熾(さか)んなり、烈公制する能(あた)わず。

○同三月三日、井伊直弼登営途中桜田門外において、水戸浪士のために襲殺せらる。

 彼が職に在(あ)る、未(いま)だ二年に満たず、然(しか)れどもその険胆辣腕(らつわん)は、実に天下を震動せしめたり。彼は専(もっぱ)ら威福を逞(たくまし)うせり、然(しか)れども威福を逞うせんがために然(しか)するにあらず、政権の分裂を杜(ふさ)ぎ、主権の統一を幕府に占めずんば、天下の事決して為すべからざるを信じたるがためのみ。而(しこう)して彼は大勢の既に去りたるを知らざるなり。

 彼は責任を知るの政治家なりき。然(しか)れども彼は一方においては事物の真相を察する烱眼(けいがん)あるに係(かかわ)らず、いわゆる天下の大勢を既に来(きた)れるに攫(つか)み、未(いま)だ至らざるに察し、将(まさ)に成らんとするに備うるの経世的大眼孔と経世的大手腕とを欠けり。彼が水戸を押えて京都を圧したるが如き、あたかもこれ吭(のど)を縊(い)して背を拊(う)つの政策にして、眼快ならざるにあらず、手利ならざるにあらず。然(しか)れども彼は自(みず)から大勢調子の外に立てり。彼は経世的眼孔においては、水野に及ばず。その天下の大機を、平正穏当の間に補綴(ほてつ)し、人をしてその然(しか)るを覚えずして然(しか)らしむる経世的器度においては、阿部に及ばず。阿部は骨弱く志薄しといえども、なお大政治家たる雅量(がりょう)あり。水野は気迫り意固しといえども、なお大政治家たる遠識と硬腕あり。井伊直弼に至りては、大宰相の特質たる一「忍」字と一「信」字を把持したるに相違なしといえども、憾(うら)むらくは彼が不学無術、短見狭量にして、遂に空しく惨禍に罹(かか)りしを。

 三人の性行(せいこう)各々同じからざるは、彼らが水戸烈公に処したる措置を以て、その一斑を卜(ぼく)すべし。水野は烈公を籠絡(ろうらく)して、自家薬籠中のものとなさんとせり。彼が天保の内政改革は、実に烈公の協賛を経てこれを行えり。彼が弘化の外政改革も、また烈公の協賛を経てこれを行わんとせり。彼果して烈公の傑物たるを認識して、かく倚頼(いらい)したるか、そもそもその虚名の天下に高きを利用して、以て天下の望を納めんと欲したるか。

 阿部に至りては、烈公の実に政治的大要素なるを看取したり、而(しこう)して実に幕政の前途に横わる厄介物(やっかいもの)なるを看取したり。故に彼は慰撫馴養(じゅんよう)、あたかも驕児(きょうじ)を遇する如く、その厄介をなさしめざらんと欲せり。彼が世を終るまで、烈公は不平ながらも、遂に幕閣に対して大なる遺言なく、また軌道外の彗星的運動をなさざりしなり。

 直弼に至りては、彼を全く敵として遇せり。彼の力は能(よ)くその敵を挫(くじ)きたるに相違なきも、彼を激せしめ、彼の同類を激せしめ、その末流を激せしめ、遂に天下の禍機を潰決せしめ、また収拾する能(あた)わざらしめたりき。

 時勢同じからざるが故に、敢て一概に論ずる能(あた)わずとはいえ、とにかく彼らの人物如何を察するに足らん。吾人(ごじん)は井伊の胆略を嘉(よ)みすと同時に、その規模の小なりしを憐まざるを得ず。

 幕政の総体について論ずれば、井伊は風の神にして阿部は太陽なり。井伊の猛(もうひょう)疾風は、むしろ人をして外套を固緊せしめたり。吾人(ごじん)は井伊が責任を知る男児たるを許す、その経世の偉略ある政治家たるを許す能(あた)わず。

 人あるいは井伊を目して開国家という、然(しか)り、彼は開国をなせり、然(しか)れども開国家にあらざりき。彼が勅許(ちょっきょ)を経ずして米国仮条約に調印したるが如きは、開国に向って大歩急転したる偉業にして、彼が開国家としての功徳頌(しょう)すべきもの浅からずといえども、これ彼が自動的に然(しか)せしにあらず、従来の行懸(いきがか)りに迫られ、岩瀬肥後守、松平伊賀守の苦請に応じ、満腔徳川氏の威信を重んずるよりして、止(や)むを得ずここに至りしなり。その功は讃ずべし、その開国家たるの眼識は、漫(みだり)に彼に許す能(あた)わず。

 約言すれば水野は外交的大規模よりして、内政を緊張せり。井伊は内事的経過よりして、外交を拡張せり。彼が在職の日たる、外交上の一大過渡の一大時機たりしに係(かか)わらず、彼は事実においては、外交の上について多くの関渉(かんしょう)を有せざりき。彼は自(みず)からその局に当らざりしのみならず、彼が思慮は、政権統一の一面に集注して、また外交問題に及ぶに遑(いとま)あらざりしなり。彼は余儀なき場合に迫られて、余儀なくも断じたり。然(しか)れども外交の上について、彼が箇人的経綸の徴すべきものに至りては、吾人(ごじん)不幸にしてこれを見ず。吾人が経世的眼識において、むしろ水野に与(くみ)して彼に与(くみ)せざるは、職としてここに存す。

 然(しか)りといえども一世の輿論(よろん)と戦い、天下の趨勢に抗し、愚人と争い、智者と闘い、社会を挙げて、その敵たるも顧慮する所なく、猛然として驀進(ばくしん)したるもの、豈(あ)にそれ威を弄(ろう)し権を玩(もてあそ)ぶためのみならんや。彼の述懐に曰く、「春浅み野中の清水氷り為(い)て底の心を汲む人ぞなき」。吾人(ごじん)は今日においても、彼が苦衷(くちゅう)を了せずんばあらず。而(しこう)して当時その苦衷を了せられずして、遂に非命に死す。詩人歌うて曰く「落花紛々(ふんぷん)、雪紛々、雪を踏み花を蹴(け)って伏兵起(おこ)る。白昼に斬取す大臣の頭、噫(ああ)時事知るべきのみ。落花紛々、雪紛々、あるいは恐る、天下の多事ここに兆(きざ)すを」。然り、天下の多事はこれより兆(きざ)せり、彼は明らかに彼の首を以て、その政策の失廃(しっぱい)を天下に広告したり。

〔註〕左に掲ぐるは、和蘭(オランダ)王の忠告書、及び幕閣より与えたる、返書なり。

鍵箱の上書和解

 この封印する箱には和蘭(オランダ)国王より 日本国君(征夷大将軍を指し奉(たてまつ)るなり)に呈する書簡の鍵を納む。この書簡の事を司(つかさど)るべき命を受る貴臣のみ開封し給うべし。

暦数千八百四十四年二月十五日(天保十四年癸卯(きぼう)十二月二十七日に当る)

瓦剌汾法瓦(ガラーヘンハーガ)(和蘭国都)に記す

和蘭国王密議庁主事

名花押(文字読むべからず)

長崎所訳名氏アー・ゲー・アーフアンラブハン

鍵箱の封印和解

王の密談所

書簡外箱上書(うわがき)和解

日本国君殿下和蘭国王

書簡和解

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