吉田松陰

21話 第十四 打撃的運動

5,459字 約11分 2017年8月4日 公開

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 彼の頭脳は、時勢と共に廻転を始めたり、而(しこう)して時勢に先(さきだ)って奔(はし)れり。彼は最初よりの顛覆(てんぷく)党にあらざりき、然(しか)れども一たび顛覆党となるや、その急先鋒となれり。彼が攘夷尊王の大義も、その実行的経綸に到りては、局面を打破するの一事に集注し来れり。破壊的作用、これもまた時に取りては、革新の絶好手段なるを知らずや。

 舞台には役者を要し、土豚(どひょう)には力士を要す。土豚に役者の不恰当(ふこうとう)なるは、なお力士の舞台に不恰当なるが如し。カヴル経国(けいこく)済世(さいせい)の建設的偉図も、あるいはマジニー一片の革命的檄文(げきぶん)に如(し)かざるものあり。東湖の手腕用ゆる所なく、佐久間の経綸施す所なく、小楠の活眼行う所なく、智勇交(こもご)も困(くるし)むの極所に際し、かえって暴虎(ぼうこ)馮河(ひょうが)、死して悔なき破壊的作用のために、天荒を破りて革新の明光を捧げ来るものあり。その人は誰ぞ、踏海(とうかい)の失敗者、野山の囚奴(しゅうど)、松下村塾の餓鬼(がき)大将、贈正四位、松陰神社、吉田松陰なり。

 安政五年十月、彼轟武兵衛に書を与えて曰く、

僕の屑見(せっけん)、誠に謂(おも)えらく、観望持重は、今の正義の人、比々(ひひ)としてみな然(しか)り、これ最大の下策と為す。何ぞ軽快拙速、局面を打破し、然る後徐(おもむろ)に地を占め石を布(し)くの、勝(まさ)れりと為すに如(しか)んや。

「局面打破」これ彼が当世における主一の経綸のみ。彼はさらにその後善策の如何(いかん)に頓着せざりしなり、否な、彼は胸中後善策を容るるの余裕あらざりしなり。彼は思いしなるべし、雪消えて草木自(おのず)から生長すと。

 彼は檻中(かんちゅう)の虎なり、その夢は荒山、莽野(もうや)の中に馳騁(ちてい)すといえども、身は自由ならず。乃(すなわ)ち自由ならずといえども、なおその志を行わんとせり、彼は蟄居(ちっきょ)中なるに係(かかわ)らず、なお長防革命的運動の指揮官たりしなり。彼はしばしば京師に献言せり、彼は萩藩府に勧告せり、彼は孝明天皇に向って後醍醐(ごだいご)たらんことを希い、藩主に向って義貞(よしさだ)、正成(まさしげ)たらんことを望めり。彼は慓悍(ひょうかん)の公卿大原重徳(おおはらしげとみ)を慫慂(しょうよう)して、長州に下向せしめんとせり。その意大原を以て藩主を要し、藩論を一定し、以て勤王軍の首唱たらしむるにありし。その書中の一節に曰く、

万々(ばんばん)失策に出で候て、私共同志の者ばかり募(つの)り候も、三十人、五十人は得べくに付き、これを率いて天下を横行し、奸賊(かんぞく)の頭二ツ三ツも獲候上にて、戦死仕(つかまつ)り候も、勤王の先鞭(せんべん)にて、天下の首唱には相成り申すべく、私義本望(ほんもう)これに過ぎず候。

 彼がこの言は、空言にあらず、彼がこの書を草したるは安政五年九月二十八日にして、その間部詮勝(まなべあきかつ)要撃(ようげき)のため、同志を糾合(きゅうごう)し、京に入らんとし、その父、叔父、兄に向って訣別の書を作りしは、同十一月六日なり。

 そもそも彼は何が故に自(みず)から間部詮勝の刺客とまでにはなりしか、彼が訣別書は、これを説明して余りあるべし。

頑児矩方(のりかた)、泣血再拝して、家厳君、玉叔父、家大兄の膝下(しっか)に白(もう)す。矩方稟性(ひんせい)虚弱にして、嬰孩(えいがい)より以来(このかた)、連(しき)りに篤疾(とくしつ)に罹(かか)る。而(しか)れども不幸にして遂に病に死せざりき。制行狂暴にして、弱冠より而還(このかた)、しばしば重典を犯す。而れども不幸にして遂に法に死せざりき。二十九年間を回顧すれば、当(まさ)に死すべきもの極めて多し。今に迄(いた)りて死せず、復(ま)た父兄今日の累を致す、不幸の罪、何を以てかこれに尚(くわ)えん。然(しか)れども今日の事は、皇家の存亡に関わり、吾が公の栄辱に係(かか)わる、万々(ばんばん)休すべからず。古人のいわゆる忠孝両全ならずとは、この類(たぐい)これなり。

天下の勢、滔々(とうとう)として日に降り、以て今に至る。その由、蓋(けだ)し一日に非(あら)ざるなり。且(しばら)く近きを以てこれを言わん。墨使(ぼくし)、幕府に入り、仮条約を上(たてまつ)る。天子これを聞き、勅を下してこれを停(とど)む。幕府遵(したが)わず、仮を定めて真と為す。列侯の議、士民の論、一も幕府に容れられず。天子また勅を下し、三家、大老を召す。大老は至らず、三家は則ち幕責を蒙る。幕府反(かえ)って間部侯をして上京せしむるも、病を称して朝せず。偽言反覆す。謂(おもえ)らく、水戸と堀田と西城の議合す、故を以て阿附(あふ)朋比(ほうひ)し、遂に違勅の挙を為す、水戸、堀田を斬らずんば、夷事理(おさ)むべからざるなりと。当今、幕府は幼冲(ようちゅう)にして、弁識する所なし。大老これを上に主(つかさ)どり、間部これを下に輔(たす)くるに非ざるよりは、天下の事、安(いずく)んぞここに至らんや。然れば則ち二人の者の罪、上は天子の明勅に違い、下は幕府の大義を害(そこ)ない、内は列侯士民の望に背(そむ)き、外は虎狼(ころう)渓壑(けいがく)の欲を飽(あ)かしむ。極天窮地、俯仰(ふぎょう)容るるなし。然(しか)り而(しこう)して天下の士夫は安然黙然として、一|《ほう》一艦の往きてその罪を問うなし。神州の正気、既に已(すで)に邪気の消蝕する所と為るか。頑児の一念、ここに至りて、食咽(のど)を下らず、寝蓐(しとね)に安んぜず、ただ一死の蚤(はや)からざるを悲しむのみ。

頃(このこ)ろ忽(たちま)ち江戸の報を得るに、尾、水、越、薩、将(まさ)に襲いて彦根の大老を誅せんとすと。頑児これを聞き、跳躍すること三百、曰(いわ)く、「神州の正気、遂に消蝕せざるなり、政府の議、固(もと)より当(まさ)に四家を合従し、邪気を鎮圧すべきなり」と。然(しか)れども児なお憾(うらみ)あり。事、四家に出づ。吾(われ)人に因(よ)りて功を成すは、公等碌々(ろくろく)の数を免れざるなり。ここを以て児、私(ひそ)かに自(みずか)ら量らず、同志を糾合(きゅうごう)し、神速に上京し、間部の首を獲て、これを竿頭に貫き、上は以て吾が公勤王の衷を表わし、かつ江家名門の声を振い、下は以て天下士民の公憤を発し、旗を挙げ闕(けつ)に趨(はし)るの首魁と為らんとす。かくの如くにして死せば、死もなお生の如きなり。然(しか)れども事は固より私に為すべからず、而もまた敢て公に請わず。超の貫高のいわゆる、「事成らば王に帰し、成らざれば独り身(み)坐せんのみ」。これ児らの志なり。ここを以て児ら、将(まさ)に某日を以て同志と偕(とも)に、益田行相(こうしょう)の門に詣(いた)り、故を告げて発せんとす。敢て許允(きょいん)を求めず、政府待つに逋亡(ほぼう)を以てするも可なり。事捷(か)たば則ち師旅当(まさ)に継ぎて進むべく、不幸にして捷たざれば、他人あるいは死するも、児は則ち身を投じて捕に就(つ)き、志士憤懣の発する所は、決して公家の知る所に非ざるを明らかにせん。頑児虚弱にして狂暴、本(もと)より人の数の中に在(あ)らざるも、天下反(かえ)って虚名を謬聴し、認めて豪傑と為す者有り。向(さき)に愚論数道を以て、これを梁川緯に致せしに、緯、窃(ひそか)に上(かみ)青雲の上を涜(けが)す。蓋(けだ)し乙夜(いつや)の覧を経るという。一介の草莽(そうもう)、区々たる姓名にして、聖天子の垂知を蒙るは、何の栄かこれに加えん。児の死する、何ぞ晩(おそ)きや。近日、正三位源公、七生滅賊の四大字を以て賜わり、かつその世子の詩数章を伝え、高徳(たかのり)を望み、博浪の鉄椎を望む、その意甚だ切なり。児豈(あ)に死せざるべけんや。

不孝の子は、ただ慈父これを愍(あわれ)み、不弟の弟は、ただ友兄これを恕(ゆる)す。定省(ていせい)怡々(いい)、復(ま)た膝下(しっか)の歓を《つく》す能(あた)わず。願わくば、愛を割き友を抑え、児を以て死すること已(すで)に久しと為し、尋常の親肢、身体髪膚(はっぷ)、併せて以て賜わらんことを。頑児の願いは、何を以てかこれに加えんや。泣血漣々(れんれん)として、思う所を竭(つく)す能(あた)わざるなり。頑児矩方、泣血拝白。

 則ち知る、その近因は水戸、尾張、越前、薩摩の諸藩士、江戸において、井伊直弼を襲殺せんとするの風説を聞き、むしろこの機に乗じて、井伊と同謀同罪なる間部詮勝を京都に要撃し、以て局面打破の先着を占めんと欲したるのみ。これ即ち松下村塾血誓書の出(い)で来(きた)りたる所以(ゆえん)なり。彼が心事は、またこの挙において齟齬(そご)せり。当時長州において藩政の枢機を掌(つかさど)る、周布(すふ)政之助、長井雅楽(ながいうた)の徒、松陰が才を愛せざるにあらず、また彼が心事を諒せざるにあらずといえども、彼が打撃的運動を以て、一藩の大事を破るものとなし、陽に陰にこれを沮(はば)めり。彼が公然なる脱走をなして間部の首を竿頭(かんとう)に貫き、天下に義を唱えんがため、京都に赴かんとするや、周布彼に告げて曰く、「勤王の事、藩政府既に成算あり、書生の妄動を費す勿(なか)れ、妄動止(や)まずんば獄に投ぜんのみ」と。而(しこう)して周布の力は彼が行をして十二月晦日(みそか)まで延期せしめたり。而してこの延期中には如何なる変化をば彼が身に及ぼせしか。

 過激の罪は十一月二十九日、彼をして再び家に厳囚せしめたり。而(しこう)して同十二月五日、藩政府はさらにその父杉百合之助に向って、その投獄の命を伝えしめたり、曰く、「お聞込みの趣きこれ有り、最前の通り、借牢の儀願い出で候よう内移(ないい)仰せ付けられ候」と。聞込みの筋とは何ぞ。血気の先生は、怒髪(どはつ)天を衝(つ)けり、血気の門人は激昂して、藩政の当途者に迫り、その罪名を質(ただ)さんとせり。またこれ一種の保安条例のみ。当時参政周布政之助の家に押し懸け、その病を以て辞し、事を以て辞し、不在を以て辞するに関せず、憤然として坐に上り、火鉢を呼び、燈檠(とうけい)を呼び、雪中松柏を高吟し、男児死すのみを激誦し、その家人を驚かし、その四隣を惧(おそ)れしめたる、子爵品川弥次郎の徒をして、回想せしめば、固(まこと)に今昔(こんじゃく)の感に堪えざるものあらん。

 彼らが罪名を質(ただ)して、その要領を得ざりしは、また宜(うべ)ならずや、何となれば原来罪名の指定すべきものなきを以てなり。もし強いて罪名を付せんとせば、過激罪というの外なけん。而(しこう)して過激罪とは、果して当時の人心を慊(あ)き足らしむべき罪名なるか。長州の地盤は、尊王攘夷を以て固められたり。松陰の打撃的運動、過激は則ち過激に相違なし、然(しか)れどもこれ裏面の沙汰のみ。尊王攘夷の大趣意において豈(あ)に間然(かんぜん)する所あらんや。その表面よりすれば言正しく名(な)順(したが)い、その裏面よりすれば、禍(わざわい)未測に陥らんとす。周布一派の老練家が委曲周旋(しゅうせん)、またその微衷(びちゅう)を諒すべきものあり。

 概論すれば彼が再度の投獄は、周布、長井等との衝突といわんより、むしろ彌縫(びほう)的改革主義と、打破的革命主義との衝突より来りし結果といわざるべからず。而(しこう)してこの葛藤(かっとう)は各その極端に奔(はし)り、一方においては久坂、高杉の攘夷倒幕となり、他方においては長井の開港論、公武合体の周旋(しゅうせん)となり、而(しこう)して周布、来原(くりはら)の徒は、その心事時務と違い、慚恚(ざんい)以て屠腹(とふく)して死するに到り、延いて戊辰(ぼしん)に及ぶまで、長州において一低一昂したるに係(かかわ)らず、遂に打破的革命派の全勝を以て局を結べり。而してその局勢を養うてここに到らしめたるもの、固(もと)より松陰首唱の力に帰せざる能(あた)わず。

 彼は獄に投ぜられたり、彼は再び松下村塾の獅子たる能わざるなり。彼の束縛せられたる自由は、今一層束縛せられたり。水蹙(せま)れば魚いよいよ躍る、彼は革命の精神に鼓動せられて、自(みず)から裁する所以(ゆえん)を知らず。その獄中において安政六の新年を迎うるや、口占して曰く、

花や鳥いまをさかりの春の野に

  遊ばで猶(なお)もいつかまつべき

 然(しか)れども成すべき手段なし、則ちなしといえども、彼が成さんと欲する心は、耿々(こうこう)として須臾(しゅゆ)も熄(や)まず。彼が新年の賀状を兄に送るや、乍(たちま)ちその本色を顕わして曰く、「一度(ひとたび)血を見申さざる内は、所詮(しょせん)忠義の人も著(あらわ)れ申さぬかと存じ奉り候」と。当時天下の識者、各藩の謀臣等が焦心する所、一に血を見るなからんことに在(あ)り、而(しこう)して彼独り血を見んと欲す。而してこれを以て自から擬し、これを以て人に擬す。人その擬する所とならざるや、彼は全幅の憤怒を挙て、これに加えずんば休(や)まず。試みに彼が当時の文稿を閲(けみ)せよ、その交友中、何人(なんぴと)か彼の怒鋒(どほう)、罵刃(ばじん)に触れざるものあるか。独り周布、長井の徒のみならず、松下村塾の徒といえどもまた然(しか)り、間部要撃血誓の同志者もまた然り、彼が投獄の際において、その罪名を当局者に質(ただ)さんがため奔走し、暴徒の名によりて拘禁せられたるものもまた然り。これその故何ぞ。彼が日一日にその血を見んとするに急なるを知るべし。彼が投獄中の経綸は多端なりといえども、その要、藩主の参府を止むると、要駕策とに過ぎず。

 梅田源次郎の徒大高、平島なる者萩に来(きた)り、藩政府に向い議する所あらんと欲して得ず。彼ら言(ようげん)して曰く、「止(や)むなくんば同志三十余人を糾合(きゅうごう)し、毛利家参府の駕を伏見に要し、三条、大原の諸公卿と周旋(しゅうせん)し、京師に入りて事を謀(はか)らん」と。松陰これを聞き、藩政府に向って能(よ)くこれを遇し、共に事を謀らんことを勧む、顧みられず。而(しこう)して共に伏見に走り要駕の挙に与(くみ)せしむ、諸友みな聞かず。独り入江杉蔵憤然として起つ。松陰踴躍(ゆうやく)して曰く、「防長絶(た)えて真尊攘の人なし、吾(われ)といえども復(ま)た尊攘を言うを得ず、然(しか)らば則ち防長の真尊攘者、ただ汝一人のみ、切に自(みず)から軽んずる勿(なか)れ」。また曰く、「伏見の事万一蹶(つまず)かば嘯聚(しょうしゅ)賊となれ、頼政の事汝固(もと)より自(みず)から任ぜざるべからず」。ここにおいては彼は破壊的本領を示して曰く、

今の世界は老屋(ろうおく)頽厦(たいか)の如し。これ人々の見る所なり。吾れ謂(おも)えらく、大風一たび興って、それをして転覆せしめ、然る後朽楹(きゅうえい)を代え敗椽(はいてん)を棄て、新材を雑(まじ)えてこれを再造せば、乃(すなわ)ち美観と為らんと。諸友はその老かつ頽なるものに就(つ)き、一楹(えい)一椽(てん)を抜きてこれに代え、以て数月の風雨を支えんと欲す。これ吾(われ)を視て異端怪物と為して、これを疎外する所以(ゆえん)なり。汝に非ずして安(いずく)んぞ吾が心を知らんや。

 これ実に彼が福音なり、而(しこう)して入江はその母の養うなきを見て、棄て去るに忍びず、その弟野村和作をして代り走らしめ、而して野村もまた藩政府の追蹤する所となり、獄に投ぜられたり。いわゆる松陰が、「国に酬ゆる精忠十八歳、家を毀(こぼ)つ貧士二十金」の一聯はこの事を指すなり。ここにおいて要駕策また齟齬(そご)せり。

 百事齟齬す、正(まさ)にこれ死して益なく、生もまた懶(ものう)きの苦境に迫る。ここにおいて五月六日庸書檄を作り、筆耕以て無聊(ぶりょう)を消ぜんとす、これもまた獅子毬(まり)なるかな。然(しか)れども命運の鬼は、彼をしてここに安(やす)んずるを許さず、井伊、間部の共謀に出でたる大獄は、瓜蔓葛(かまんかつるい)以て松陰に及び、安政六年五月十四日その兄の口より、檻車(かんしゃ)江戸に護送せらるることを聞かざるべからざるに到れり。彼は自(みず)からその所以(ゆえん)を知らず、然(しか)れども一の大なる力に駆られて、歩一歩血を見るに近づき進めり。

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