21話 第十四 打撃的運動
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彼の頭脳は、時勢と共に廻転を始めたり、而して時勢に先って奔れり。彼は最初よりの顛覆党にあらざりき、然れども一たび顛覆党となるや、その急先鋒となれり。彼が攘夷尊王の大義も、その実行的経綸に到りては、局面を打破するの一事に集注し来れり。破壊的作用、これもまた時に取りては、革新の絶好手段なるを知らずや。
舞台には役者を要し、土豚には力士を要す。土豚に役者の不恰当なるは、なお力士の舞台に不恰当なるが如し。カヴル経国済世の建設的偉図も、あるいはマジニー一片の革命的檄文に如かざるものあり。東湖の手腕用ゆる所なく、佐久間の経綸施す所なく、小楠の活眼行う所なく、智勇交も困むの極所に際し、かえって暴虎馮河、死して悔なき破壊的作用のために、天荒を破りて革新の明光を捧げ来るものあり。その人は誰ぞ、踏海の失敗者、野山の囚奴、松下村塾の餓鬼大将、贈正四位、松陰神社、吉田松陰なり。
安政五年十月、彼轟武兵衛に書を与えて曰く、
僕の屑見、誠に謂えらく、観望持重は、今の正義の人、比々としてみな然り、これ最大の下策と為す。何ぞ軽快拙速、局面を打破し、然る後徐に地を占め石を布くの、勝れりと為すに如んや。
「局面打破」これ彼が当世における主一の経綸のみ。彼はさらにその後善策の如何に頓着せざりしなり、否な、彼は胸中後善策を容るるの余裕あらざりしなり。彼は思いしなるべし、雪消えて草木自から生長すと。
彼は檻中の虎なり、その夢は荒山、莽野の中に馳騁すといえども、身は自由ならず。乃ち自由ならずといえども、なおその志を行わんとせり、彼は蟄居中なるに係らず、なお長防革命的運動の指揮官たりしなり。彼はしばしば京師に献言せり、彼は萩藩府に勧告せり、彼は孝明天皇に向って後醍醐たらんことを希い、藩主に向って義貞、正成たらんことを望めり。彼は慓悍の公卿大原重徳を慫慂して、長州に下向せしめんとせり。その意大原を以て藩主を要し、藩論を一定し、以て勤王軍の首唱たらしむるにありし。その書中の一節に曰く、
万々失策に出で候て、私共同志の者ばかり募り候も、三十人、五十人は得べくに付き、これを率いて天下を横行し、奸賊の頭二ツ三ツも獲候上にて、戦死仕り候も、勤王の先鞭にて、天下の首唱には相成り申すべく、私義本望これに過ぎず候。
彼がこの言は、空言にあらず、彼がこの書を草したるは安政五年九月二十八日にして、その間部詮勝要撃のため、同志を糾合し、京に入らんとし、その父、叔父、兄に向って訣別の書を作りしは、同十一月六日なり。
そもそも彼は何が故に自から間部詮勝の刺客とまでにはなりしか、彼が訣別書は、これを説明して余りあるべし。
頑児矩方、泣血再拝して、家厳君、玉叔父、家大兄の膝下に白す。矩方稟性虚弱にして、嬰孩より以来、連りに篤疾に罹る。而れども不幸にして遂に病に死せざりき。制行狂暴にして、弱冠より而還、しばしば重典を犯す。而れども不幸にして遂に法に死せざりき。二十九年間を回顧すれば、当に死すべきもの極めて多し。今に迄りて死せず、復た父兄今日の累を致す、不幸の罪、何を以てかこれに尚えん。然れども今日の事は、皇家の存亡に関わり、吾が公の栄辱に係わる、万々休すべからず。古人のいわゆる忠孝両全ならずとは、この類これなり。
天下の勢、滔々として日に降り、以て今に至る。その由、蓋し一日に非ざるなり。且く近きを以てこれを言わん。墨使、幕府に入り、仮条約を上る。天子これを聞き、勅を下してこれを停む。幕府遵わず、仮を定めて真と為す。列侯の議、士民の論、一も幕府に容れられず。天子また勅を下し、三家、大老を召す。大老は至らず、三家は則ち幕責を蒙る。幕府反って間部侯をして上京せしむるも、病を称して朝せず。偽言反覆す。謂らく、水戸と堀田と西城の議合す、故を以て阿附朋比し、遂に違勅の挙を為す、水戸、堀田を斬らずんば、夷事理むべからざるなりと。当今、幕府は幼冲にして、弁識する所なし。大老これを上に主どり、間部これを下に輔くるに非ざるよりは、天下の事、安んぞここに至らんや。然れば則ち二人の者の罪、上は天子の明勅に違い、下は幕府の大義を害ない、内は列侯士民の望に背き、外は虎狼渓壑の欲を飽かしむ。極天窮地、俯仰容るるなし。然り而して天下の士夫は安然黙然として、一|《ほう》一艦の往きてその罪を問うなし。神州の正気、既に已に邪気の消蝕する所と為るか。頑児の一念、ここに至りて、食咽を下らず、寝蓐に安んぜず、ただ一死の蚤からざるを悲しむのみ。
頃ろ忽ち江戸の報を得るに、尾、水、越、薩、将に襲いて彦根の大老を誅せんとすと。頑児これを聞き、跳躍すること三百、曰く、「神州の正気、遂に消蝕せざるなり、政府の議、固より当に四家を合従し、邪気を鎮圧すべきなり」と。然れども児なお憾あり。事、四家に出づ。吾人に因りて功を成すは、公等碌々の数を免れざるなり。ここを以て児、私かに自ら量らず、同志を糾合し、神速に上京し、間部の首を獲て、これを竿頭に貫き、上は以て吾が公勤王の衷を表わし、かつ江家名門の声を振い、下は以て天下士民の公憤を発し、旗を挙げ闕に趨るの首魁と為らんとす。かくの如くにして死せば、死もなお生の如きなり。然れども事は固より私に為すべからず、而もまた敢て公に請わず。超の貫高のいわゆる、「事成らば王に帰し、成らざれば独り身坐せんのみ」。これ児らの志なり。ここを以て児ら、将に某日を以て同志と偕に、益田行相の門に詣り、故を告げて発せんとす。敢て許允を求めず、政府待つに逋亡を以てするも可なり。事捷たば則ち師旅当に継ぎて進むべく、不幸にして捷たざれば、他人あるいは死するも、児は則ち身を投じて捕に就き、志士憤懣の発する所は、決して公家の知る所に非ざるを明らかにせん。頑児虚弱にして狂暴、本より人の数の中に在らざるも、天下反って虚名を謬聴し、認めて豪傑と為す者有り。向に愚論数道を以て、これを梁川緯に致せしに、緯、窃に上青雲の上を涜す。蓋し乙夜の覧を経るという。一介の草莽、区々たる姓名にして、聖天子の垂知を蒙るは、何の栄かこれに加えん。児の死する、何ぞ晩きや。近日、正三位源公、七生滅賊の四大字を以て賜わり、かつその世子の詩数章を伝え、高徳を望み、博浪の鉄椎を望む、その意甚だ切なり。児豈に死せざるべけんや。
不孝の子は、ただ慈父これを愍み、不弟の弟は、ただ友兄これを恕す。定省怡々、復た膝下の歓を《つく》す能わず。願わくば、愛を割き友を抑え、児を以て死すること已に久しと為し、尋常の親肢、身体髪膚、併せて以て賜わらんことを。頑児の願いは、何を以てかこれに加えんや。泣血漣々として、思う所を竭す能わざるなり。頑児矩方、泣血拝白。
則ち知る、その近因は水戸、尾張、越前、薩摩の諸藩士、江戸において、井伊直弼を襲殺せんとするの風説を聞き、むしろこの機に乗じて、井伊と同謀同罪なる間部詮勝を京都に要撃し、以て局面打破の先着を占めんと欲したるのみ。これ即ち松下村塾血誓書の出で来りたる所以なり。彼が心事は、またこの挙において齟齬せり。当時長州において藩政の枢機を掌る、周布政之助、長井雅楽の徒、松陰が才を愛せざるにあらず、また彼が心事を諒せざるにあらずといえども、彼が打撃的運動を以て、一藩の大事を破るものとなし、陽に陰にこれを沮めり。彼が公然なる脱走をなして間部の首を竿頭に貫き、天下に義を唱えんがため、京都に赴かんとするや、周布彼に告げて曰く、「勤王の事、藩政府既に成算あり、書生の妄動を費す勿れ、妄動止まずんば獄に投ぜんのみ」と。而して周布の力は彼が行をして十二月晦日まで延期せしめたり。而してこの延期中には如何なる変化をば彼が身に及ぼせしか。
過激の罪は十一月二十九日、彼をして再び家に厳囚せしめたり。而して同十二月五日、藩政府はさらにその父杉百合之助に向って、その投獄の命を伝えしめたり、曰く、「お聞込みの趣きこれ有り、最前の通り、借牢の儀願い出で候よう内移仰せ付けられ候」と。聞込みの筋とは何ぞ。血気の先生は、怒髪天を衝けり、血気の門人は激昂して、藩政の当途者に迫り、その罪名を質さんとせり。またこれ一種の保安条例のみ。当時参政周布政之助の家に押し懸け、その病を以て辞し、事を以て辞し、不在を以て辞するに関せず、憤然として坐に上り、火鉢を呼び、燈檠を呼び、雪中松柏を高吟し、男児死すのみを激誦し、その家人を驚かし、その四隣を惧れしめたる、子爵品川弥次郎の徒をして、回想せしめば、固に今昔の感に堪えざるものあらん。
彼らが罪名を質して、その要領を得ざりしは、また宜ならずや、何となれば原来罪名の指定すべきものなきを以てなり。もし強いて罪名を付せんとせば、過激罪というの外なけん。而して過激罪とは、果して当時の人心を慊き足らしむべき罪名なるか。長州の地盤は、尊王攘夷を以て固められたり。松陰の打撃的運動、過激は則ち過激に相違なし、然れどもこれ裏面の沙汰のみ。尊王攘夷の大趣意において豈に間然する所あらんや。その表面よりすれば言正しく名順い、その裏面よりすれば、禍未測に陥らんとす。周布一派の老練家が委曲周旋、またその微衷を諒すべきものあり。
概論すれば彼が再度の投獄は、周布、長井等との衝突といわんより、むしろ彌縫的改革主義と、打破的革命主義との衝突より来りし結果といわざるべからず。而してこの葛藤は各その極端に奔り、一方においては久坂、高杉の攘夷倒幕となり、他方においては長井の開港論、公武合体の周旋となり、而して周布、来原の徒は、その心事時務と違い、慚恚以て屠腹して死するに到り、延いて戊辰に及ぶまで、長州において一低一昂したるに係らず、遂に打破的革命派の全勝を以て局を結べり。而してその局勢を養うてここに到らしめたるもの、固より松陰首唱の力に帰せざる能わず。
彼は獄に投ぜられたり、彼は再び松下村塾の獅子たる能わざるなり。彼の束縛せられたる自由は、今一層束縛せられたり。水蹙れば魚いよいよ躍る、彼は革命の精神に鼓動せられて、自から裁する所以を知らず。その獄中において安政六の新年を迎うるや、口占して曰く、
花や鳥いまをさかりの春の野に
遊ばで猶もいつかまつべき
然れども成すべき手段なし、則ちなしといえども、彼が成さんと欲する心は、耿々として須臾も熄まず。彼が新年の賀状を兄に送るや、乍ちその本色を顕わして曰く、「一度血を見申さざる内は、所詮忠義の人も著れ申さぬかと存じ奉り候」と。当時天下の識者、各藩の謀臣等が焦心する所、一に血を見るなからんことに在り、而して彼独り血を見んと欲す。而してこれを以て自から擬し、これを以て人に擬す。人その擬する所とならざるや、彼は全幅の憤怒を挙て、これに加えずんば休まず。試みに彼が当時の文稿を閲せよ、その交友中、何人か彼の怒鋒、罵刃に触れざるものあるか。独り周布、長井の徒のみならず、松下村塾の徒といえどもまた然り、間部要撃血誓の同志者もまた然り、彼が投獄の際において、その罪名を当局者に質さんがため奔走し、暴徒の名によりて拘禁せられたるものもまた然り。これその故何ぞ。彼が日一日にその血を見んとするに急なるを知るべし。彼が投獄中の経綸は多端なりといえども、その要、藩主の参府を止むると、要駕策とに過ぎず。
梅田源次郎の徒大高、平島なる者萩に来り、藩政府に向い議する所あらんと欲して得ず。彼ら言して曰く、「止むなくんば同志三十余人を糾合し、毛利家参府の駕を伏見に要し、三条、大原の諸公卿と周旋し、京師に入りて事を謀らん」と。松陰これを聞き、藩政府に向って能くこれを遇し、共に事を謀らんことを勧む、顧みられず。而して共に伏見に走り要駕の挙に与せしむ、諸友みな聞かず。独り入江杉蔵憤然として起つ。松陰踴躍して曰く、「防長絶えて真尊攘の人なし、吾といえども復た尊攘を言うを得ず、然らば則ち防長の真尊攘者、ただ汝一人のみ、切に自から軽んずる勿れ」。また曰く、「伏見の事万一蹶かば嘯聚賊となれ、頼政の事汝固より自から任ぜざるべからず」。ここにおいては彼は破壊的本領を示して曰く、
今の世界は老屋頽厦の如し。これ人々の見る所なり。吾れ謂えらく、大風一たび興って、それをして転覆せしめ、然る後朽楹を代え敗椽を棄て、新材を雑えてこれを再造せば、乃ち美観と為らんと。諸友はその老かつ頽なるものに就き、一楹一椽を抜きてこれに代え、以て数月の風雨を支えんと欲す。これ吾を視て異端怪物と為して、これを疎外する所以なり。汝に非ずして安んぞ吾が心を知らんや。
これ実に彼が福音なり、而して入江はその母の養うなきを見て、棄て去るに忍びず、その弟野村和作をして代り走らしめ、而して野村もまた藩政府の追蹤する所となり、獄に投ぜられたり。いわゆる松陰が、「国に酬ゆる精忠十八歳、家を毀つ貧士二十金」の一聯はこの事を指すなり。ここにおいて要駕策また齟齬せり。
百事齟齬す、正にこれ死して益なく、生もまた懶きの苦境に迫る。ここにおいて五月六日庸書檄を作り、筆耕以て無聊を消ぜんとす、これもまた獅子毬なるかな。然れども命運の鬼は、彼をしてここに安んずるを許さず、井伊、間部の共謀に出でたる大獄は、瓜蔓葛以て松陰に及び、安政六年五月十四日その兄の口より、檻車江戸に護送せらるることを聞かざるべからざるに到れり。彼は自からその所以を知らず、然れども一の大なる力に駆られて、歩一歩血を見るに近づき進めり。