24話 第十六 最後(2)
読み方を変える
兼て御相談申し置き候尊攘堂の事、僕はいよいよ念を絶ち候〔既に死を決するが故に〕。この上は足下兄弟の内一人は是非僕が志を成就致しくれられ候事と頼母しく存じ候。春以来の在囚、飽くまで読書も出来、思慮も精熟、人物一変なるべくと殊に床敷く、日夜西顧父母を拝する外、先ず第一には足下兄弟の事を思出し候。尊攘堂の事は中々大業にて、速成を求めてはかえって大成出来申さず、また亡命などにて出国し候ては往先の不都合もこれ有る事故、足下出牢の上は先ず慈母の心を慰め、兄弟間遊学の事も政府辺の指揮を受けての事が宜敷く、これは小田村その他の諸友も随分尽力致すべく候。さて僕も江戸に来たりて天下の形勢一覧致し、余程知見の進み候処これ有り。神州未だ地に墜ちず人物も随分これ有る事承知、委細に御話申したく候えども、心に任せず候間、ただただ何事も心強く抛たざるよう御心懸け専一に存じ候。尊攘堂の事に付いても一策を得たり。御聞き及びも候わん、堀江克之助と申す水戸の豪士あり、羽倉の三至録に久保善助とあるはこの人なり。丁巳墨使登営の節、信田、蓮田と共に墨使を討たんことを謀る。両田は獄死、堀江は今に東口揚屋に在り(この人の事は追々高杉へも申し遣わし候、御聞き及びと存じ候)。この人殊の外神道を尊び 天朝を尊ぶ人なり。毎々申され候事に、神道を明白に人々の腹へ入る如く書を著し、 天朝より開板して天下へ御頒示成されたしと頻に祈念仕り居られ候。僕が心得には教書のみ天下に頒ちても天下の人心一定と申すようには参り難きに付き、京師に大学校を興し上は天子親王公卿より武家士民まで入寮寄宿等も出来候よう致し、恐れながら 天朝の御学風を天下の人々に知らせ、天下の奇材異能を天朝の学校へ貢じ候よう致し候えば、天下の人心一定仕るに相違なし〔いわゆる皇室中心主義〕。しかし急に京師へ大学校を興すと申しては、只今の時勢、とてもとても出来ぬ事と誰しも存ずべく候えども、ここにまた策あるべし。小林民部より承り候。今学習院は学職方は公家なり、儒官は菅清家と地下の学者と混じて相務められ、定日ありて講釈これ有り。この日は町人百姓まで聴聞に出で候事勝手次第、勿論堂上方御出坐なり。然れば学習院の基に依り今一層興隆致し候えば、何様にも出来申すべし。さて学問の筋目を糺し候事が誠に肝要にて、朱子学じゃの陽明学じゃのと一偏の事にては何の役にも立ち申さず、尊皇攘夷の四字を眼目として、何人の書にても何人の学にても、その長ずる所を取るようにすべし。本居学と水戸学とはすこぶる不同あれども、尊攘の二字はいずれも同じ。平田はまた本居とも違い癖なる所も多けれども『出定笑語』『玉襷』等は好書なり。関東の学者、道春以来、新井、室、徂徠、春台らみな幕府に佞しつれども、その内に一、二箇所の取るべき所はあり。伊藤仁斎などは尊王の功もなけれども、人に益ある学問にて害なし。林子平も尊王の功なし攘夷の功あり。兼て御話し申し候高山、蒲生、対馬の雨森伯陽、魚屋の八兵衛の類は、実に大切の人なり、各神牌を設くべし。右諸家の書を聚め長を抜取り、人物格別功あるは学習院中へ神牌を設くる等の評議は中々大議に付き、天下の人物を聚めねば出来ず、人物聚らずとも諸国へ京師より人を遣わし豪傑の議論を聞聚め、京師にて大成すべし。この議論中に天下の正論大いに起るべし。また水戸『日本史』の後もこれ無く、天朝『六国史』の後も闕く。 天皇の御諡号も光孝天皇までなり。その後の帝紀御撰述、諡号御定め等、勅諚にて学習院に抑付けられたき事なり。尤もこれは書籍と人物と大いに学習院に集りたる上の事なり。
学習院興隆の事
一、天下有志の者出席を免し給うべき事(居寮寄宿を免す)
一、天下有用の書籍献上を免し給うべき事(古書近世書に限らず)
但し神代の神々、式内の神々も時宜を酌んで院中に祭るべし。それ以下菅公、和気公、楠公、新田公、織田公、豊臣公、近来の諸君子に至るまでその功徳次第神牌を立つるなり。
向に御相談申し候尊攘堂の本山ともなるべし。人物集り書籍集りたる上にて、神道を尊び神国を尊び 天皇を尊び、正論ばかり抜き取り一書として天下に頒つべし。
□慶ごろの人清原某「神代巻跋」、松苗「十八史略序」、この二編小子深く心服仕る論なり。
一、院中へ史局を設け『六国史』以下の闕を補う事。
右等の趣向を眼目として御工夫を御こらし然るべく候。他日御出国出来候わば、先ず大原公父子へ御謀り、公卿方の御論御伺い、また関東下向、掘江とも御相談成され、天下同意の人々申合せ、そろそろ京師にて御取建て然るべし。尤も湖城、鯖江等〔井伊、間部〕威権を振う間は少し御見合わせ成されるべく候。近年の内両権仆るべし。京師も九条公御辞職あらん〔先生平生の口吻にあらず〕。その後よき関白ありて関東と御一和の事も調い候わば、その節妙なり。その内夷事も日々禍深く相見え候に付き、好機会の出る事もあらん。何分京と関東との形勢を熟覧して、どうもむつかしくば最前の論の如く吉田にてなすなり。妙なれば学習院へ出るなり。この所は足下の眼中にあれば、悉くは申し難く候。堀江何卒出牢させたきものなり。僕より勝野保三郎へ申し遣わし置き候。山口三など好策なきかと申し遣わし置き候。堀江出牢と御聞きに成られ候わば、早速諸事御通信然るべし。僕天下の士を多く見候えども、無学にして篤志なることかくの如き人は多く見申さず、実に奇人なり。学ぶべし、頼るべし。別封の一通御覧、この人の心中察し給え。
僕出国以来五箇月に相成り候えども、小田村、久坂ら一書もなし。足下は在獄なればせん方なし。僕においては苦しからざる事には候えども、諸友の踈濶は志の薄き故かと大いに懸念致し候。この事兄出牢せば一論あるべし。作間、弥二、徳民などのこと甚だ懸念なり。この三人は決して変ぜぬに相違はなくと存じ候。岡部これまた棄つべからず。この四人、兄幸いにこれを愛せよ。福原は長進と察し候。如何にや。佐世も心にかかり候。来原、中村余り周布風を学び大人振り、後進を導くこと能わざるが患なり。中谷は自ら妙、山口にて一世界をなせかし。これを要するに諸人才器齷齪、天下の大事を論ずるに足らず、吾が長人をして萎せしめん。残念々々。足下久坂をのみ頼むなり。高杉大いに長進とは察し候えども、この地にては十分の議論せず帰国、大いに残り多き事どもなり
未十月廿日松陰
子遠兄
足下
―――――――――――
『留魂録』〔人の将に死せんとする、その言や善し。〕
身はたとえ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂
十月念五日二十一回猛士
一、余去年已来心蹟百変、挙げて数え難し。就中趙の貫高を希い、楚の屈平を仰ぐ、諸知友の知る所なり。故に子遠が送別の句に「燕趙の多士一貫高、荊楚の深憂只屈平」というもこの事なり。然るに五月十四日関東の行を聞きしよりは、また一の誠の字に工夫を付けたり。時に子遠死字を贈る、余これを用いず、一白綿布を求めて、「孟子の至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり」の一句を書し、手巾へ縫付け、携えて江戸に来り、これを評定所に留め置きしも、吾が志を表するなり。去年来の事、恐れ多くも天朝、幕府の間、誠意相孚せざる所あり。天苟も吾が区々の悃誠を諒し給わば、幕吏必ず吾が説を是とせんと志を立てたれども、蚊虻山を負うの喩、終に事をなすこと能わず今日に至る。また吾が徳の非薄なるによればなり。今将誰をか尤めかつ怨んや〔これ哲人の心地〕。
一、七月九日初めて評定所呼出しあり、三奉行出坐し、尋鞠の件両条あり。一に曰く、「梅田源二郎長門下向の節、面会したる由、何の密議をかせしや」。二に曰く、「御所内に落文あり、その手蹟汝に似たりと源二郎その外申立つる者あり、覚ありや」。この二条のみ。それ梅田は素より奸猾なれば、余与に志を語ることを欲せざる所なり。何の密議をかなさんや。余ここにおいて六年間幽囚中の苦心する所を陳じ、終に大原公の西下を請い、鯖江侯を要する等の事を自首す。鯖江侯の事に因りて、終に下獄とはなれり。
一、吾性激烈、怒罵に短し、務めて時勢に従い人情に適するを主とす〔それ然り、豈にそれ然らんや〕。ここを以て吏に対して幕府違勅の已むを得ざるを陳じ、然る後当今的当の処置に及ぶ。その説常に講究する所にして、具に対策に載するが如し。ここを以て幕吏といえども甚だ怒罵すること能わず。直ちに曰く、「汝陳白する所悉く的当とも思われず、かつ卑賤の身にして国家の大事を議すること不届なり」。余また深く抗せず、「ここを以て罪を獲るは万々辞せざる所なり」といいて已みぬ。幕府の三尺、布衣国を憂うることを許さず。その是非、吾曾て弁争せざるなり。聞く、薩の日下部伊三次は対吏の日、当今政治の欠乏を歴詆して、かくの如くにては往先三、五年の無事も保し難しというて、鞠吏を激怒せしめ、乃ち曰く、「ここを以て死罪を得るといえども悔ざるなり」と。これ吾の及ばざる所なり。子遠の死を以て吾を責むるも、またこの意なるべし。唐の段秀実、郭曦においては彼の如く誠悃、朱においては彼の如くの激怒、然らば則ち英雄自ら時措の宜しきあり。要するに内に省みて疚からざるにあり、そもそもまた人を知り機を見ることを尊ぶ。吾の得失、当に蓋棺の後を待って議すべきのみ〔隠然自負、蓋し松陰直情径行といえども、また臨機応変的長州気質を免がる能わざるなり〕。
一、この回の口書甚だ草々なり。七月九日一通申立てたる後、九月五日、十月五日両度の呼出しも、差したる鞠問もなくして、十月十六日に至り、口書読み聞かせありて、直ちに書判せよとの事なり。余が苦心せし墨使応接、航海雄略等の論、一も書載せず。ただ数箇所、開港の事を程よく申演べて、国力充実の後打攘然るべしなど、吾心にも非ざる迂腐の論を書付けて口書とす。吾言いて益なきを知る故に敢て言わず、不満の甚だしきなり。甲寅の歳、航海一条の口書に比する時は、雲泥の違というべし〔死に際して、なお口実の可否を論ず、これ死を愛まずして、名を愛む所〕。
一、七月九日一通り大原公の事、鯖江要駕の事等を申立てたり。初め意らく、これらの事幕にも已に諜知すべければ、明白に申立てたる方かえって宜しきなりと。已にして逐一口を開きしに、幕にて一円知らざるに似たり。因って意らく、幕にて知らぬ所を強いて申立て、多人数に株連蔓延せば善類を傷う事少なからず、毛を吹いて創を求むるに斉しと。ここにおいて鯖江侯要撃の事も要諫とはいい替えたり。また京師往来諸友の姓名、連判諸氏の姓名等、成るべく丈は隠して具白せず。これ吾後人のためにする区々の婆心なり。而して幕裁、果して吾一人を罰して一人も他に連及なきは、実に大慶というべし。同志の諸友深く考思せよ。
一、要諫一条に付き、事遂げざるときは鯖江侯と刺違えて死し、警衛の者要蔽する時は打払うべきとの事、実に吾がいわざる所なり。然るに三奉行強いて書載して誣服せしめんと欲す。誣服は吾肯て受けんや。ここを以て十六日書判の席に臨んで、石谷、池田の両奉行と大いに争弁す。吾肯て一死を惜しまんや、両奉行の権詐に伏せざるなり。これより先九月五日、十月五日両度の吟味に吟味役まで具に申立てたるに、死を決して要諫す、必ずしも刺違え、切払い等の策あるに非ず。吟味役具にこれを諾して、而もかつ口書に書載するは権詐にあらずや、然れども事ここに至れば、刺違え、切払いの両事を受けざればかえって激烈を欠き、同志の諸友もまた惜しむなるべし、吾といえどもまた惜しまざるに非ず、然れども反復これを思えば、成仁の一死、区々一言の得失に非ず。今日義卿奸権のために死す、天地神明照鑑上にあり、何の惜しむことかあらん〔松陰十五、六の少年を提げて、堂々たる諸侯の儀衛を衝かんとす。人みなその大胆に驚く。彼曰く、「昇平日久しく、苟くも決死の徒二、三あらんか、彼の横剣荷槍の儀衛は、禽奔獣散せん」。松陰死するの明年、水戸十七士桜田の変あり。ここにおいて門人みな彼が先見の明に服すという〕。
一、吾この回初め素より生を謀らず、また死を必せず。ただ誠の通塞を以て天命の自然に委したるなり。七月九日に至っては、ほぼ一死を期す。故にその詩にいう、「継成ただ当に市戮に甘んずべし、倉公寧んぞ復た生還を望まんや」と。その後九月五日、十月五日吟味の寛容なるに欺かれ、また必生を期す。またすこぶる慶幸の心あり。この心吾この身を惜しむために発するに非ず、そもそも故あり。去臘大晦、朝議已に幕府に貸す、今春三月五日、吾公の駕已に萩府を発す、吾策ここにおいて尽き果てたれば、死を求むること極めて急なり。六月の末江戸に来るに及んで、夷人の情態を見聞し、七月九日獄に来り天下の形勢を考察し、神国の事なおなすべきものあるを悟り、初めて生を幸とするの念勃々たり。吾もし死せずんば、その勃々たるもの決して汨没せざるなり。然れども十六日の口書、三奉行の権詐、吾を死地に措かんとするを知り、因ってさらに生を幸うの心なし。これまた平生学問の得か然るなり。
一、今日死を決するの安心は、四時の循環において得る所あり。蓋し彼の禾稼を見るに、春種し夏苗し秋刈り冬蔵す。秋冬に至れば人みなその歳功の成るを悦び、酒を造り醴を為り、村野歓声あり。未だ曾て西成に臨みて、歳功の終るを哀しむものを聞かず。吾行年三十、一事成ることなくして、死して禾稼の未だ秀でず実らざるに似たれば、惜しむべきに似たり。然ども義卿の身を以て言えば、これまた秀実の時なり。何ぞ必ずしも哀しまん。何となれば人寿は定りなし、禾稼の必ず四時を経る如きに非ず。十歳にして死するものは十歳中自ら四時あり、二十は自ら二十の四時あり、三十は自ら三十の四時あり、五十、百は自ら五十、百の四時あり。十歳を以て短しとするは、蛄をして霊椿たらしめんと欲するなり。百歳を以て長しとするは、霊椿をして蛄たらしめんと欲するなり。斉しく命に達せずとす。義卿三十、四時已に備わる、また秀また実、その秕たりとその粟たると吾が知る所にあらず。同志の士その微衷を憐み継紹の人あらば、乃ち後来の種子未だ絶えず、自ら禾稼の有年に恥じざるなり。同志それこれを考思せよ。
一、東口揚屋におる水戸の郷士堀江克之助、余未だ一面なしといえども、真に知己なり、真に益友なり。余に謂いて曰く、「昔し矢部駿州は桑名侯へ御預けの日より絶食して敵讐を詛いて死し、果して敵讐を退けたり、今足下も自ら一死を期するからは祈念を籠めて内外の敵を払われよ、一心を残し置きて給われよ」と丁寧に告戒せり。吾誠にこの言に感服す。また鮎沢伊太夫は水藩の士にして堀江と同居す。余に告げて曰く、「今足下の御沙汰も未だ測られず、小子は海外に赴けば天下の事総て天命に付せんのみ、ただ天下の益となるべき事は同志に托し後輩に残したき事なり」と。この言大いに吾志を得たり。吾の祈念を籠る所は、同志の士甲斐甲斐しく吾志を継紹して尊攘の大功を建てよかしなり。吾死すとも、堀鮎二子の如きは海外に立つとも獄中に立つとも、吾が同志たらん者願わくは交を結べかし。また本所亀沢町に山口三という医者あり、義を好む人と見えて、堀鮎二子の事など外間に在りて大いに周旋せり。尤も及ぶべからざるは、未だ一面もなき小林民部の事、二子より申し遣わしたれば、小林のためにまた大いに周旋せり。この人想うに不凡ならん。かつ三子への通路はこの三老に托すべし。
一、堀江常に神道を崇め天皇を尊び、大道を天下に明白にし異端邪説を排せんと欲す。謂らく、天朝より教書を開板して天下に頒示するに如かずと。余謂らく、教書を開板するに一策なかるべからず、京師において大学校を興し、上天朝の御学風を天下に示し、また天下の奇材異能を京師に貢じ、然る後天下古今の正論確議を輯集して書となし、天朝教習の余を天下に分つときは、天下の人心自ら一定すべしと。因って平生子遠と密議する所の尊攘堂の議と合わせ堀江に謀り、これを子遠に任ずることに決す。子遠もし能く同志と議り内外志を協え、この事をして少しく端緒あらしめば、吾の志とする所もまた荒せずというべし。去年勅諚綸旨等の事一趺すといえども、尊皇攘夷苟くも已むべきに非ざれば、また善術を設け前緒を継紹せずんばあるべからず。京師学校の論また奇ならずや。
一、小林民部いう、京師の学習院は定日ありて、百姓町人に至るまで出席して講釈を聴聞することを許さる、講日には公卿方出坐にて、講師菅家、清家及び地下の儒者相混ずるなり。然らばこの基に因ってさらに斟酌を加えば、いくらも妙策あるべし。また懐徳堂には霊元上皇宸筆の勅額あり。この基に因りさらに一堂を興すもまた妙なりと小林いえり。小林は鷹司家の諸太夫にて、この度遠島の罪科に処せらる。京師諸人中罪責極めて重し。その人多材多芸、ただ文学に深からず、処事の才ある人と見ゆ。西奥揚屋にて余と同居す、後東口に移る。京師にて吉田の鈴鹿石州、同筑州別して知己の由、また山口三も小林のために大いに周旋したれば、鈴鹿か山口かの手を以て海外までも吾同志の士通信をなすべし。京師の事については後来必ず力を得る所あらん。
一、讃の高松の藩士長谷川宗右衛門、年来主君を諫め、宗藩水家と親睦の事について苦心せし人なり。東奥揚屋にあり、その子速水、余と西奥に同居す。この父子の罪科如何、未だ知るべからず。同志の諸友切に紀念せよ。予初めて長谷川翁を一見せしとき、獄吏左右に林立す。法、隻語を交ゆることを得ず、翁独語するものの如くして曰く、「むしろ玉と為りて砕くるとも、瓦と為りて全うする勿れ」と。吾甚だその意に感ず。同志それこれを察せよ。
一、右数条余徒に書するにあらず。天下の事を成すは、天下有志の士と志を通ずるに非ざれば得ず。而して右数人は余この回新たに得る所の人なるを以て、これを同志に告示するなり。また勝野保三郎早や已に出牢す。ついてその詳を問知すべし。勝野の父豊作、今潜伏すといえども有志の士と聞けり。他日事平ぐを待って物色すべし。今日の事、同志の諸士、戦敗の余、傷残の同志を問訊する如くすべし。一敗乃ち挫折する、豈に勇士の事ならんや。切に嘱す、切に嘱す。
一、越前の橋本左内二十六歳にして誅せらる、実に十月七日なり。左内東奥に坐する五、六日のみ。勝保同居せり。後勝保西奥に来り、余と同居す。余勝保の談を聞いて、益々左内と半面なきを嘆ず。左内幽囚邸居中『資治通鑑』を読み、註を作り漢紀を終る。また獄中教学工作等の事を論ぜし由、勝保余にこれを語る。獄の論大いに吾意を得たり。予益々左内を起して一議を発せんことを思う。ああ〔恐らくは松陰以上の人ならん〕。
一、清狂の護国論及び吟稿、口羽の詩稿、天下同志の士に寄示したし。故に余これを水人鮎沢伊太夫に贈ることを許す。同志それ吾に代ってこの言を践まば幸甚なり。
一、同志諸友の内、小田村、中谷、久保、久坂、子遠兄弟らの事、鮎沢、堀江、長谷川、小林、勝野らへ告知し置きぬ。村塾の事、須佐、阿月らの事も告げ置けり。飯田、尾寺、高杉及び利輔の事も諸人に告げ置きしなり。これみな吾が苟くもこれをなすに非ず。
かきつけ終りて後
心なることの種々かき置きぬ思い残せしことなかりけり〔安心〕
呼だしの声まつ外に今の世に待つべき事の無かりけるかな〔静寂〕
討たれたるわれをあわれと見ん人はきみを崇めて夷払えよ〔尊王攘夷〕
愚かなる吾をも友とめず人はわがとも友とめでよ人びと〔汝ら相い愛せよ〕
七たびも生かえりつつ夷をぞ攘わんこころ吾れ忘れめや〔七たび生れて賊を滅ぼす〕
十月二十六日黄昏書す二十一回猛士