23話 第十六 最後(1)
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井伊直弼は、密勅の水戸に降りしを奇貨とし、これを中心として、その打撃を始めたり、史家称して安政の大獄という。然ればその犠牲者は、概ね水戸と朝廷との間を周旋したる、在京都の諸藩士、諸浪人にして、松陰の如きは、固よりこれに対して何らの関係ある筈なかりしなり。彼は当時において、その胸中には、千万丈の波瀾を湧かしめたりといえども、これらの運動に関しては、あたかも太陽系圜外の小遊星に外ならざりしなり。而して何物の酷漢ぞ、その禍の手を以てこの小遊星までには及ぼしたる。
さても彼は、安政六年五月二十五日において、いよいよ公の筋より江戸檻致の命を聞くに至れり。彼はこれを聴いて、毫も愕く所なし。彼の江戸の法庭に――刑場に赴くや、新郎の新婦の筵に赴くほどにゆかざるも、猛夫の戦場に出るが如く、勇みたりしなり。彼その反対党なる長井に書を贈り、如何なる場合に遭逢するも、決して禍を彼らに嫁し、藩政府に波及せしむるが如き事なきを告げ、かつ謂いて曰く、「小生も兼て人を不忠とか不義とか、大言に罵り置きたれば、拠無きも、今度は一身を以て、国難に代らねばならぬ事、疾に落着仕り居るなり」と。何ぞその言の歴々落々として青天白日を覩るが如き。
もしそれ彼がいわゆる訣別のために、門人浦無窮に描かしめたる肖像の自賛文に至っては、彼が一生の抱負と特性とを視るに足るべきもの、吾人はその文の既に人口に膾炙したるに拘らず、これを掲載するを禁ずる能わず。
三分廬を出づ、諸葛已んぬるかな、一身洛に入る、賈彪安に在りや。心は貫高を師とし、而して素より名を立つる無く、志は魯連を仰ぎ、遂に難を釈くの才に乏し。読書功なく樸学三十年、滅賊計を失す猛気二十一回。人、狂頑と譏り、郷党、衆く容れず。身は家国に許し、死生は吾れ久しく斉しうす。至誠にして動かざるは古より未だこれ有らず。古人は及び難きも聖賢をば敢て追陪せん。
彼は実に死を決して行けり。彼は固より死の来る偶然に非ざるを知れり。吟じて曰く、
鳴かずあらば誰かは知らん郭公
さみだれ暗く降り続く夜は
ここにおいて、彼は五月二十六日、梅雨を冒し、檻車萩城を発し、一路の江山を随意に眺め、あるいは淡路島に対しては、
別れつつまたも淡路の島ぞとは
知らでや人の余所に過ぐらん
と独唱し、一の谷を過ぎては、
一の谷討死とげし壮士を
起して旅のみちづれにせん
と戯れ、淀を過ぎては、
こと問わん淀の川瀬の水ぐるま
幾まわりして浮世へぬらん
と懐抱を洩らし、途上あるいは史を詠じ、あるいは文天祥正気の歌に和し、七月九日直ちに江戸町奉行所に送られたり。
彼は直ちに評定所に喚び出されたり。幕吏彼に対して曰く、「汝は梅田源次郎と密謀を企てたるに非ざるか」。曰く、「否」。「汝は御所内に落文なしたること無きか」。曰く、「断じて無し、余は大丈夫なり、故に断じてかかる影暗きことなし。然れども余は実になお言うべきものあり。余は書を大原三位に致し、彼を我藩に召し下し、以て藩主を論諫せんと欲したり。余は同志を募りて間部を要撃せんと欲したり」。奉行曰く、「大胆甚し、覚悟しろ、吟味中揚屋入りを申付ける」と。ここにおいて彼は嘗て蹈海失敗の余勇を養いたりし、江戸伝馬町の獄に再び投ぜられたり。
彼は自己の罪に非ざる罪のために檻致せられたるなり。何となれば、凡て幕府が彼に対して鞠治したるものは、みなこれ大楽源太郎が為したる所にして、松陰の関したる所に非ざればなり。而して彼はかえって叢を衝いて蛇を出し、その自首したるがために、遂に彼をして死刑に致さざるべからざるまでの罪を羅織せらるるに至りしなり。彼は曰く、「もし奉行余が言を聴き、今日の急務を弁知し、一、二の措置をなさば、吾れ死して光あり、一、二の措置をなす能わざるも、また赤心を諒し一死を許せば、吾生きて名あり、また酷烈の処置に出で、妄りに親戚朋友に連及せば、吾言うに忍びずといえども、昇平の惰気を鼓舞するに足る、皆妙」と。
彼が獄中の生涯は、彼が獄中より諸友に与えたる書中に詳かなり。彼は死と同居しても、なおその飛揚跳梁の精神を全く棄てざりしなり。彼はその友人に向って、種々の事を言い送れり、あるいは唐筆を入れくれよといい、あるいは『孫子』一巻を送りくれといい、あるいは金子の入用を申遣り、またあるいはその郷里の友人に向ってその消息を通ぜざるを責め、その来信を促したり。彼れ曰く、「艱難辞せずといえども、安楽もまた自ら好に御坐候」と、これ実に彼が獄中の生涯を言い顕したるものなり。何となれば彼は獄中に多くの知己を得、従って多くの便宜を得たればなり。彼は獄中にて聴きたる大獄に関する諸有志の身の上につき、その人物につき、その出来事につき、これをその獄外の友人に告げたり。彼はその身は獄中に安坐するも、その心は一日も平静なる能わざりしなり。彼も自らその身の如何に落着するかを知らず、ただ曰く、「三奉行大憤激して吟味することにも相成り候わば、小子深望の事に候えば、その節株連も蔓延も構わず、腹一杯天下の正気を振うべし。事未だここに至らざれば、安然として獄に坐し夫の天命を楽しむのみ」と。彼は実にその身の如何に落着するかを知らず、ただその友人に向って、「天下の事追々面白く成るなり。挫ける勿れ、折ける勿れ、神州は必ず滅びざるなり」と言い贈れり。
彼は獄中において朋友に富めり。その同獄の長は、沼崎某という者なり、彼もまた初めより松陰の名を知り居れり。またその別獄には、堀江克之助、鮎沢伊太夫らの水戸藩士あり、京都鷹司家諸太夫なる小林民部太夫あり。彼らは獄中にて常に書翰を取遣り、あるいは往を談じ、あるいは来を語り、殊に死の眼前に迫るをも打忘れて、将来の経綸に余念なきものの如し。
彼は獄中において多少の新見聞を広めたり、何となれば天下の新聞は実に獄中に集れるなり。故にまた新見識を加えたり。その九月十二日高杉に与うる書中に曰く、「三人とも我を学んで、軽忽をやるな、吾は自ら知己の主、上に在り、然らざるを得ず。三人(久坂実甫、久保清太、入江杉蔵)暢夫と謀り十年ばかりも名望を養えと申置き候」。彼が言う所、何ぞそれ雍容悠長なる。彼は実にこの三人の一人たる入江杉蔵に向って脱走を勧め、佳賊となるべしとまで勧めたりしに非ずや、彼は嘗て久坂に序を贈りて、鄭延平の挙を慕うの意を寓したるに非ずや。彼れ而して今に至って、十年苦学の要を説く、そもそも何ぞや。独り新見聞のためのみならず、惟うに獄中の静想は、彼をしてかくの如く清心遠識ならしめたるか。
彼は十月七日その父兄に書を贈り、「孰れ日月未だ地に墜ちず候えば、膝下に侍し天下の奇談申上げ候日これ有るべし」といえり。而してその八日高杉に書を与えて、「橋本と頼は幕に憚りて斬ったも尤もなれども、飯泉喜内を斬ったは無益の殺生、それはとまれ喜内を斬るほどでは、回も斬られずとも遠島は免れずと覚悟致し候」と言い贈れり。而して彼は未だ充分自ら死の運命に支配せられたるを知らざりしなり。
然れども十月十六日に至り、鞠問全く畢り、奉行は彼を流罪に当るものとなし、案を具えてこれを老中に致す。大老井伊直弼、「流」字を鈎して「死」字と作す。彼もまたこれを漏れ聞き、遂に十月二十日永訣の書を作り、これをその父兄に与えたり。
平生の学問浅薄にして、至誠天地を感格する事出来申さず、非常のここに立至り申し候。嘸々御愁傷も遊ばさるべく拝察仕り候。
親思う心にまさる親心
きょうの音ずれ何ときくらん
さりながら去年十月六日差上げ置き候書、得と御覧遊ばされ候わば、左まで御愁傷にも及び申さずと存じ奉り候。なおまた当五月出立の節、心事一々申上げ置き候に付き、今更何も思い残す事御座無く候。この度漢文にて相認め候諸友に語る書も、御転覧遊ばさるべく候。幕府正議は丸に御取用いこれ無く、夷秋は縦横自在に御府内を跋扈致し候えども、神国未だ地に墜ち申さず、上に聖天子あり、下に忠魂義魄充々致し候えば、天下の事も余り御力落しこれ無きよう願い奉り候。随分御大切に遊ばされ、御長寿を御保ち成さるべく候。以上。
死は人をして静かならしむ、死は人をして道念を警発せしむ。死は人の仮面を剥ぎてその本色を露呈せしむ。死は人をして舞台より移してその楽屋に入らしむ。かくばかり不穏なる精神も、実に如何なる厳粛、敬虔、幽静、崇高なる道念を発せしめたるか。吾人はその父兄に与うる書についてこれを知るを得るなり。もしそれ死に抵りて流涕し、落胆し、顔色土の如くなるが如きは、固より死に支配せられたる者にして、言うに足らず。彼のあるいは世を慨き、時を詈り、危言激語して死に就く者の如き、壮は則ち壮なりといえども、なおこれ一点狂激の行あるを免れず。むしろ若かんや、自ら平生の学問浅薄なるを言い、以てその限りなき懊悔を包むに限り無き慰安を以てす。その従容自若たる、正にこれ哲人の心地、観てここに到れば、吾人は松陰が多くの弱点と欠所とを有するに係らず、ただ愛すべく、敬すべく、慕うべく、仰ぐべく、真個の殉国殉道の達人たるに愧じざるを想見せずんばあらず。鳥の将に死せんとする、その鳴くや哀し、人の将に死せんとする、その言や善し。彼はいよいよ死の旦夕に迫りたるを知り、十月二十五日より『留魂録』一巻を作り、二十六日黄昏に至って稿を畢う。その中に言えること有り、
七月九日に至りては略一死を期す、その後九月五日、十月五日吟味の寛容なるに欺かれまた必生を期す、またすこぶる慶幸の心あり。十六日の口書、三奉行の権詐、吾を死地に措かんとするを知り、因ってさらに生を幸うの心なし、これまた平生学問の得か然るなり。
彼は実に生を愛まざりしに非ず、欲せざりしに非ず、彼は惰夫が事に迫りて自ら縊るるが如き者に非ず、狂漢が物に激して自ら腹を劈くが如きに非ず、彼は固より生を愛し死を避けんと欲したるに相違なし。ただ彼は時に死よりも重きものあるを観、これを成さんがために死をも辞せざりしなり。然れば彼は要撃の事をも、中頃に至って要諫とはいい更えたり。然れども井伊大老已に彼を死地に処かんとす、それ将た何の益有らん。彼はここにおいて死せざるべからざるを知り、死を待てり、死に安んぜり。彼は十月二十六日の黄昏、『留魂録』を書了り歌を題して曰く、
呼び出しの声まつ外に今の世に
待つべき事のなかりけるかな
と。読んでここに到る、吾人は実に彼が平生得る所のもの、すこぶる浅からざりしを覚う。ケートが死せんとするや、自らプレトーの霊魂不滅の文を誦せり。コンドルセーが山岳党のために獄に幽せらるるや、獄中に安坐して、死を旦夕に待つに際し、なお人類円満の進歩を想望して、人生進歩の一書を著せり。彼豈にこれに愧じんや、実に彼の心は死だもなお動かすべからざるものありしなり。
かくの如く彼は、十月二十七日において、遂に評定所において死刑の宣告を受けたり。その宣告たるや、実に幕法のすこぶる峻酷なるを見るに足るものあり。曰く、
杉百合之助へ引き渡し蟄居申付け置き候浪人吉田寅次郎
其方儀、外夷の情態等相察すべしと、去る寅年異国船へ乗込む科に依り、父杉百合之助へ引渡し在所において蟄居申付け請る身分にして、海防筋の儀なお頻りに申し唱え、外国通商数港御開き相成り候わば、柔弱の御取計にて御国のためにも相成らず、誠実友愛の義を唱え和親交易を相願う夷情に基き、御国において御不都合の次第これ有る儀を申し諭し御断り、追て御打払方然るべしなど、または当時の形勢にては人心一致天子を守護致し、卑賤の者にても人を越え御撰挙これ無くては迚も御国威は振い申すまじなど、御政事向に拘り候国家の重事を著述致し、右作、「狂夫之言」あるいは「時勢論」と題号し、主家または右京家等へ差出し、殊に墨夷仮条約御渡し相成り御老中方御上京これ有る趣き承り、右は外夷御処置振の儀と相察し、蟄居の身分に在るとも下総守殿通行の途中へ罷出で御処置を相伺い見込の趣き申立て、もし御取用いこれ無く自然行われざる次第に至らば、その節は一死殉国の心得を以て、必死の覚悟を極め御同人御駕籠へ近寄り、自己の建議押立て申すべしなど、一旦存立て候段、国家の御為を存じ成し仕り候旨申立つるなれども、公議を憚らず不敬の至り、殊に大体蟄居中の身分梅田源二郎へ面会致す段不届に付き、死罪申付ける。
安政六未十月二十七日
と。ここにおいて安政六年十月二十七日午前十時、手の手は、この数奇にして冒険なる革命の大精神をば、五尺の躯より脱して長天万里に飛揚せしめたり。彼豈にこれを知らざらんや。彼れ曾て歌いて曰く、
かくすればかくなるものと知りながら
やむに止まれぬ大和魂
と。彼れ実にこれを知れり。然れども知りて悔いざるは、これ実に彼が維新革命の健児たる所以なり。
〔註〕以下掲ぐる所は、江戸獄中より同志への書簡、及びその絶筆たる『留魂録』なり。如何に彼が死に処して、その平生の潜光を発揮したるかを見よ。
慷慨死に赴くは易く、従容死に就くは難し。彼その難きに処して、安詳静粛、意長く神遠く、殆んど無極の精神に冥化するものあるが如し。〔書中の註脚に〔 〕あるは、著者の挿入に係る。〕
江戸獄中より高杉暢夫に与うる書
唐筆一本有難く拝受、則ち相用いて別紙認め上げ申し候。
小生去冬十二月二十五日投獄〔長州野山の獄〕以来、大分学問進み候よう覚え候。当五月までの文稿二冊これ有り〔幽室文稿〕、弥二郎に密蔵させ置き候。小生死して遺憾なき所全くこの二冊に在り、他日御一見下さるべく候。
○貴問に曰く、丈夫死すべき所如何。僕去冬以来、死の一字大いに発明あり。李氏焚書の功多し。その説甚だ永く候えども約していわば、死は好む所に非ず、また悪む所に非ず、道尽き心安んぜば、便ちこれ死所、世に身生きて心死せる者有り、身亡びて魂存する者有り、心死せば生くるも益無きなり、魂存すれば亡ぶるも損無きなり、「いわゆる死生は吾久しく斉しうするものか」。また一種の大才略ある人辱を忍びて事を為す、妙(明徐楷が楊継成を助けざるが如し)。また一種私欲なきもの生を偸むを妨げず(文天祥山に死せず生を燕獄に偸む四年これあり)、死して不朽の見込あらばいつでも死ぬべし、生きて大業の見込あらはいつでも生くべし〔人生の目的は不朽に在り、人業に志すのは不朽ならんがためのみ〕。僕が所見にては生死は度外に措きてただ言うべきを言うのみ
○貴問に曰く、僕今日如何して可ならん。この事在国の日にも御申越し成され候故、一通り貴答相認め候えども、この行ある故、その書は杉蔵へ密蔵させ置き候。大意遠大の論なり。まず遊学御済まし成され候わば、妻を蓄え官に就く等のこと、ひたすら父母の御心に任され、もし君側にでも御出でなれば深く精忠を尽し君心を得べし。然る後正論正義を主張すべし。この時必ず禍敗を取るなり。禍敗の後、人を謝し学を修め一箇恬退の人となり玉わば、十年の後必ず大忠を立つる日あらん。極々不幸にても一不朽の人となるべし。清太、玄瑞、杉蔵なども吾を学んで軽忽を遣るな。吾は自ら知己の主、上に在り、然らざるを得ず。三人暢夫と謀り十年ばかりも名望を養えと申し置き候。三人へ示し候書、御帰国の日御覧下さるべく候〔静思は遠識を生ず〕。
○読書は勉強さえすれば書中自ら妙味有り、必ずしも言わざるなり。『下学邇言』御読み成され候由また妙。王陽明の『伝習録』その外真味あり、陸象山いう、「六経はみな我が注脚」と、この見極めて妙。読書論は申したき事あれども言うも無益なり。
○今日諸侯の処しよう、これも愚考の所、在邸の節密かに建白致し候えども、囚奴の言、政府何ぞ信用あらん。しかし知己のために一言して併せて高論を乞う。僕江戸に来り墨夷の事体見聞、大いに驚き、また窃かに喜ぶ。また深く惜しむことあり。墨夷本牧を以ていまだ足らずとし、江戸に来居、市中自在に横行するは、応接条約等の表にては当然の事には候えども、現在に目撃すれば随分驚き申し候。しかし英夷阿片交易のことに付き、瘍医を広東へ渡し療治を施させ、これに継ぐに引痘を以てする等の苦心(『海国図志』中奥東日報に見ゆ)、その思慮深遠というべし。墨夷は人心を懐柔するの手段大いに英夷に劣る。ここを以て窃かに喜び申し候。然るに機は得難く失い易し。墨夷の為す所市中の人心を失うとも、また数十年無事ならば人心も自ら帖服すべし。この機会を失うこと豈に惜しからざらんや。幕府初めは墨夷を借りて諸夷を制し諸侯を抑えんと欲す。而して今は何となく悔悟の色あり。悔悟すれども膺懲の奇策なければ淪胥与に喪ぶるの外致し方なし。将また京師の一条も幕府最初の思い過ちにて、追々糺明あればさまで不軌を謀りたる訳にこれ無く候えば、今また少しく悔ゆ。ここを以て今諸侯において誠に大切の時なり。今正義を以て幕府を責むるは宜しからず候えども〔これ平生の口吻にあらず〕、上策は彦根、間部等の所は誠実に忠告するに如かず。中策は隠然自国を富強にしていつにても幕府の倚頼となる如く心懸くべし〔獄中の意見何んぞ実着なる〕。今幕府への嫌忌と見えて杉蔵らが獄さえ免ぜず、遊学生も容易には出さず、坐ながら事機を失う、残念なり。せめては中策にても出だせかし。
○京師の一条に付き、投獄の人少なからず。この獄みな失策なり。
清水寺の僧信海、勅を奉じて敵国を調伏し万民を安穏にせんことを祷る。事、幕忌に触れ、捕えられて獄に下り、病を以て没す。実に今茲四月某日なり、遺歌一首有り。曰く、
西の海東のそらとかわれどもこころはおなじ君の世のため
その兄僧某、また同志の人なり。これより先、薩摩の海に投じて死す。また遺歌あり〔僧某は月照なり〕。
大君のためには何にか惜しからん薩摩のせとに身は沈むとも
くもりなきこころの月の薩摩潟おきの波間にいまぞしずめり
余獄に入り、同囚のその事を説くを聞き、感慕に堪えず、短古を作る。
弟は東獄に繋がれて死し、兄は西海に向って投ず。死その地を殊にすといえども、同じくこれ皇恩に酬ゆ。ああ、吾が身未だ死せず、感慕涕泗流る。昔聞く暁月坊、国に死す承久の秋、今見る公が兄弟、真箇、古人の儔。
この詩郷友へ御贈り下さるべく候。もし珍説あらば承りたし。
何卒御一答承りたく、態と金六を遣わし候。御答出来かね候わば、爾後は使い差出さず候に付き、左様抑聞け下さるべく候。
両度の書とも相達し候事と存じ奉り候処、絶えて御答これ無きは如何や。何か故障にても起き候ことかと案労仕り候。何卒御一答待ち奉り候。
小生投獄の信、国へ達し候後同志より未だなんとも音信これ無く、最早六十日過ぎ候えば、一信これ有る筈なり。ついては例の四円金(十円の内なり)今に参り申さずや。沼崎氏の出帆も三十日内外なり。何卒それまでに届けかしに御坐候。
水戸の臣鮎沢伊太夫、鷹司の臣小林民部権太輔両人遠島の命にて揚屋預け、小林は同居仕り候。色々妙話あり。
去月念七日水戸の大変物議如何。かえって奇事これより生ずべしと驚裡胆を生じ候。
今月五日小生評定所御呼出しこれ有り、御吟味の模様にては軽典に処せらるることと察せられ候。先ず御悦び下さるべく候。
六日に十四年在牢の僧宥長出牢し愛宕下円福寺へ預けに相成り候。獄中の様子御承知成されたくばこの僧を訪い玉え。善く譚ずる人なり。
九月十二日
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江戸獄中より入江杉蔵に与うるの書〔これ刑につく一週前の書、死に垂んとして、なお天下の経綸に汲々たるの情を見るべし〕