吉田松陰

23話 第十六 最後(1)

7,923字 約16分 2017年8月4日 公開

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 井伊直弼は、密勅の水戸に降りしを奇貨とし、これを中心として、その打撃を始めたり、史家称して安政の大獄という。然(しか)ればその犠牲者は、概(おおむ)ね水戸と朝廷との間を周旋(しゅうせん)したる、在京都の諸藩士、諸浪人にして、松陰の如きは、固(もと)よりこれに対して何らの関係ある筈なかりしなり。彼は当時において、その胸中には、千万丈の波瀾を湧かしめたりといえども、これらの運動に関しては、あたかも太陽系圜外(えんがい)の小遊星に外ならざりしなり。而(しこう)して何物の酷漢ぞ、その禍の手を以てこの小遊星までには及ぼしたる。

 さても彼は、安政六年五月二十五日において、いよいよ公(おおやけ)の筋より江戸檻致(かんち)の命を聞くに至れり。彼はこれを聴いて、毫(ごう)も愕(おどろ)く所なし。彼の江戸の法庭に――刑場に赴くや、新郎の新婦の筵(えん)に赴くほどにゆかざるも、猛夫の戦場に出るが如く、勇みたりしなり。彼その反対党なる長井に書を贈り、如何なる場合に遭逢(そうほう)するも、決して禍を彼らに嫁し、藩政府に波及せしむるが如き事なきを告げ、かつ謂いて曰く、「小生も兼て人を不忠とか不義とか、大言に罵り置きたれば、拠(よんどころ)無きも、今度は一身を以て、国難に代らねばならぬ事、疾に落着仕(つかまつ)り居(お)るなり」と。何ぞその言の歴々落々として青天白日を覩(み)るが如き。

 もしそれ彼がいわゆる訣別のために、門人浦無窮(うらむきゅう)に描かしめたる肖像の自賛文に至っては、彼が一生の抱負と特性とを視るに足るべきもの、吾人(ごじん)はその文の既に人口に膾炙(かいしゃ)したるに拘らず、これを掲載するを禁ずる能(あた)わず。

三分廬を出づ、諸葛已(や)んぬるかな、一身洛(らく)に入る、賈彪(かひょう)安(いずく)に在りや。心は貫高を師とし、而して素(もと)より名を立つる無く、志は魯連を仰ぎ、遂に難を釈(と)くの才に乏し。読書功なく樸学三十年、滅賊計を失す猛気二十一回。人、狂頑と譏(そし)り、郷党、衆(おお)く容れず。身は家国に許し、死生は吾れ久しく斉(ひと)しうす。至誠にして動かざるは古(いにしえ)より未だこれ有らず。古人は及び難(がた)きも聖賢をば敢て追陪(ついばい)せん。

 彼は実に死を決して行けり。彼は固(もと)より死の来(きた)る偶然に非ざるを知れり。吟じて曰く、

鳴かずあらば誰(たれ)かは知らん郭公(ほととぎす)

  さみだれ暗く降り続く夜は

 ここにおいて、彼は五月二十六日、梅雨を冒し、檻車(かんしゃ)萩城を発し、一路の江山を随意に眺め、あるいは淡路島に対しては、

別れつつまたも淡路の島ぞとは

  知らでや人の余所(よそ)に過(す)ぐらん

と独唱し、一の谷を過ぎては、

一の谷討死とげし壮士(ますらお)を

  起して旅のみちづれにせん

と戯れ、淀を過ぎては、

こと問わん淀の川瀬の水ぐるま

  幾まわりして浮世へぬらん

と懐抱(かいほう)を洩らし、途上あるいは史を詠じ、あるいは文天祥正気の歌に和し、七月九日直ちに江戸町奉行所に送られたり。

 彼は直ちに評定所に喚び出されたり。幕吏(ばくり)彼に対して曰く、「汝は梅田源次郎と密謀を企てたるに非ざるか」。曰く、「否」。「汝は御所内に落文(おとしぶみ)なしたること無きか」。曰く、「断じて無し、余は大丈夫なり、故に断じてかかる影暗きことなし。然(しか)れども余は実になお言うべきものあり。余は書を大原三位に致し、彼を我(わが)藩に召し下し、以て藩主を論諫(ろんかん)せんと欲したり。余は同志を募りて間部を要撃(ようげき)せんと欲したり」。奉行曰く、「大胆甚し、覚悟しろ、吟味中揚屋(あがりや)入りを申付ける」と。ここにおいて彼は嘗(かつ)て蹈海(とうかい)失敗の余勇を養いたりし、江戸伝馬町の獄に再び投ぜられたり。

 彼は自己の罪に非ざる罪のために檻致(かんち)せられたるなり。何となれば、凡(すべ)て幕府が彼に対して鞠治(きくじ)したるものは、みなこれ大楽(だいらく)源太郎が為したる所にして、松陰の関したる所に非ざればなり。而(しこう)して彼はかえって叢(くさむら)を衝(つ)いて蛇を出し、その自首したるがために、遂に彼をして死刑に致さざるべからざるまでの罪を羅織(らしょく)せらるるに至りしなり。彼は曰く、「もし奉行余が言を聴き、今日の急務を弁知し、一、二の措置をなさば、吾(わ)れ死して光あり、一、二の措置をなす能わざるも、また赤心(せきしん)を諒し一死を許せば、吾(われ)生きて名あり、また酷烈の処置に出で、妄(みだ)りに親戚朋友に連及せば、吾言うに忍びずといえども、昇平の惰気を鼓舞するに足る、皆妙」と。

 彼が獄中の生涯は、彼が獄中より諸友に与えたる書中に詳(つまびら)かなり。彼は死と同居しても、なおその飛揚跳梁の精神を全く棄てざりしなり。彼はその友人に向って、種々の事を言い送れり、あるいは唐筆を入れくれよといい、あるいは『孫子』一巻を送りくれといい、あるいは金子(きんす)の入用を申遣(や)り、またあるいはその郷里の友人に向ってその消息を通ぜざるを責め、その来信を促したり。彼れ曰く、「艱難辞せずといえども、安楽もまた自(おのずか)ら好(このみ)に御坐候」と、これ実に彼が獄中の生涯を言い顕したるものなり。何となれば彼は獄中に多くの知己を得、従って多くの便宜を得たればなり。彼は獄中にて聴きたる大獄に関する諸有志の身の上につき、その人物につき、その出来事につき、これをその獄外の友人に告げたり。彼はその身は獄中に安坐するも、その心は一日も平静なる能(あた)わざりしなり。彼も自(みずか)らその身の如何に落着(らくちゃく)するかを知らず、ただ曰く、「三奉行大憤激して吟味することにも相成り候わば、小子深望の事に候えば、その節株連(しゅれん)も蔓延(まんえん)も構わず、腹一杯天下の正気を振うべし。事未(いま)だここに至らざれば、安然として獄に坐し夫(か)の天命を楽しむのみ」と。彼は実にその身の如何に落着するかを知らず、ただその友人に向って、「天下の事追々(おいおい)面白く成るなり。挫(くじ)ける勿(なか)れ、折(くじ)ける勿れ、神州は必ず滅びざるなり」と言い贈れり。

 彼は獄中において朋友に富めり。その同獄の長は、沼崎某という者なり、彼もまた初めより松陰の名を知り居(お)れり。またその別獄には、堀江克之助、鮎沢伊太夫らの水戸藩士あり、京都鷹司家諸太夫なる小林民部太夫あり。彼らは獄中にて常に書翰を取遣り、あるいは往を談じ、あるいは来を語り、殊に死の眼前に迫るをも打忘れて、将来の経綸に余念なきものの如し。

 彼は獄中において多少の新見聞を広めたり、何となれば天下の新聞は実に獄中に集れるなり。故にまた新見識を加えたり。その九月十二日高杉に与うる書中に曰く、「三人とも我を学んで、軽忽(けいこつ)をやるな、吾(われ)は自ら知己の主、上に在(あ)り、然(しか)らざるを得ず。三人(久坂実甫、久保清太、入江杉蔵)暢夫と謀り十年ばかりも名望を養えと申置き候」。彼が言う所、何ぞそれ雍容(ようよう)悠長なる。彼は実にこの三人の一人たる入江杉蔵に向って脱走を勧め、佳賊となるべしとまで勧めたりしに非ずや、彼は嘗(かつ)て久坂に序を贈りて、鄭延平の挙を慕うの意を寓(ぐう)したるに非ずや。彼れ而(しこう)して今に至って、十年苦学の要を説く、そもそも何ぞや。独り新見聞のためのみならず、惟(おも)うに獄中の静想は、彼をしてかくの如く清心遠識ならしめたるか。

 彼は十月七日その父兄に書を贈り、「孰(いず)れ日月未(いま)だ地に墜ちず候えば、膝下(しっか)に侍し天下の奇談申上げ候日これ有るべし」といえり。而(しこう)してその八日高杉に書を与えて、「橋本と頼(らい)は幕に憚(はばか)りて斬(き)ったも尤(もっと)もなれども、飯泉(いいずみ)喜内を斬ったは無益の殺生、それはとまれ喜内を斬るほどでは、回も斬られずとも遠島は免れずと覚悟致し候」と言い贈れり。而して彼は未(いま)だ充分自(みずか)ら死の運命に支配せられたるを知らざりしなり。

 然(しか)れども十月十六日に至り、鞠問(きくもん)全く畢(おわ)り、奉行は彼を流罪に当るものとなし、案を具えてこれを老中に致す。大老井伊直弼、「流」字を鈎(こう)して「死」字と作(な)す。彼もまたこれを漏れ聞き、遂に十月二十日永訣の書を作り、これをその父兄に与えたり。

平生(へいぜい)の学問浅薄(せんぱく)にして、至誠天地を感格する事出来申さず、非常のここに立至り申し候。嘸々(さぞさぞ)御愁傷(しゅうしょう)も遊ばさるべく拝察仕(つかまつ)り候。

親思う心にまさる親心

  きょうの音ずれ何ときくらん

さりながら去年十月六日差上げ置き候書、得(とく)と御覧遊ばされ候わば、左まで御愁傷にも及び申さずと存じ奉り候。なおまた当五月出立(しゅったつ)の節、心事一々申上げ置き候に付き、今更何も思い残す事御座無く候。この度(たび)漢文にて相認(したた)め候諸友に語る書も、御転覧遊ばさるべく候。幕府正議(せいぎ)は丸(まる)に御取用(とりもち)いこれ無く、夷秋(いてき)は縦横自在に御府内を跋扈(ばっこ)致し候えども、神国未だ地に墜ち申さず、上に聖天子あり、下に忠魂義魄(ぎはく)充々致し候えば、天下の事も余り御力落しこれ無きよう願い奉り候。随分御大切に遊ばされ、御長寿を御保ち成さるべく候。以上。

 死は人をして静かならしむ、死は人をして道念(どうねん)を警発せしむ。死は人の仮面を剥(は)ぎてその本色を露呈せしむ。死は人をして舞台より移してその楽屋に入らしむ。かくばかり不穏(ふおん)なる精神も、実に如何なる厳粛(げんしゅく)、敬虔(けいけん)、幽静(ゆうせい)、崇高なる道念を発せしめたるか。吾人(ごじん)はその父兄に与うる書についてこれを知るを得るなり。もしそれ死に抵(いた)りて流涕(りゅうてい)し、落胆し、顔色土の如くなるが如きは、固(もと)より死に支配せられたる者にして、言うに足らず。彼(か)のあるいは世を慨(なげ)き、時を詈(ののし)り、危言(きげん)激語(げきご)して死に就(つ)く者の如き、壮は則ち壮なりといえども、なおこれ一点狂激の行あるを免れず。むしろ若(し)かんや、自(みずか)ら平生(へいぜい)の学問浅薄(せんぱく)なるを言い、以てその限りなき懊悔(おうかい)を包むに限り無き慰安を以てす。その従容(しょうよう)自若(じじゃく)たる、正(まさ)にこれ哲人の心地(しんち)、観てここに到れば、吾人(ごじん)は松陰が多くの弱点と欠所とを有するに係(かかわ)らず、ただ愛すべく、敬すべく、慕うべく、仰ぐべく、真個(しんこ)の殉国(じゅんこく)殉道(じゅんどう)の達人たるに愧(は)じざるを想見せずんばあらず。鳥の将(まさ)に死せんとする、その鳴くや哀し、人の将(まさ)に死せんとする、その言や善し。彼はいよいよ死の旦夕(たんせき)に迫りたるを知り、十月二十五日より『留魂録』一巻を作り、二十六日黄昏(こうこん)に至って稿を畢(お)う。その中に言えること有り、

七月九日に至りては略(ほぼ)一死を期す、その後九月五日、十月五日吟味の寛容なるに欺かれまた必生を期す、またすこぶる慶幸(けいこう)の心あり。十六日の口書(くちがき)、三奉行の権詐(けんさ)、吾(われ)を死地(しち)に措(お)かんとするを知り、因(よ)ってさらに生を幸(こいねが)うの心なし、これまた平生(へいぜい)学問の得(とく)か然(しか)るなり。

 彼は実に生を愛(おし)まざりしに非ず、欲せざりしに非ず、彼は惰夫(だふ)が事に迫りて自ら縊(くび)るるが如き者に非ず、狂漢が物に激して自ら腹を劈(さ)くが如きに非ず、彼は固(もと)より生を愛し死を避けんと欲したるに相違なし。ただ彼は時に死よりも重きものあるを観、これを成さんがために死をも辞せざりしなり。然(しか)れば彼は要撃(ようげき)の事をも、中頃に至って要諫(ようかん)とはいい更(か)えたり。然(しか)れども井伊大老已(すで)に彼を死地(しち)に処(お)かんとす、それ将(は)た何の益有らん。彼はここにおいて死せざるべからざるを知り、死を待てり、死に安んぜり。彼は十月二十六日の黄昏、『留魂録』を書了(おわ)り歌を題して曰く、

呼び出しの声まつ外に今の世に

  待つべき事のなかりけるかな

と。読んでここに到る、吾人(ごじん)は実に彼が平生(へいぜい)得る所のもの、すこぶる浅からざりしを覚う。ケートが死せんとするや、自らプレトーの霊魂不滅の文を誦せり。コンドルセーが山岳党(さんがくとう)のために獄に幽せらるるや、獄中に安坐して、死を旦夕(たんせき)に待つに際し、なお人類円満の進歩を想望(そうぼう)して、人生進歩の一書を著(あらわ)せり。彼豈(あ)にこれに愧(は)じんや、実に彼の心は死だもなお動かすべからざるものありしなり。

 かくの如く彼は、十月二十七日において、遂に評定所(ひょうじょうしょ)において死刑の宣告を受けたり。その宣告たるや、実に幕法のすこぶる峻酷(しゅんこく)なるを見るに足るものあり。曰く、

杉百合之助へ引き渡し蟄居申付け置き候浪人吉田寅次郎

其方(そのほう)儀、外夷の情態等相察すべしと、去る寅年異国船へ乗込む科(とが)に依り、父杉百合之助へ引渡し在所において蟄居(ちっきょ)申付け請(うく)る身分にして、海防筋の儀なお頻(しき)りに申し唱(とな)え、外国通商数港御開き相成り候わば、柔弱の御取計にて御国のためにも相成らず、誠実友愛の義を唱(とな)え和親交易を相願う夷情(いじょう)に基き、御国において御不都合の次第これ有る儀を申し諭(さと)し御断り、追て御打払方然(しか)るべしなど、または当時の形勢にては人心一致天子を守護致し、卑賤(ひせん)の者にても人を越え御撰挙これ無くては迚(とて)も御国威は振い申すまじなど、御政事向に拘り候国家の重事を著述致し、右作、「狂夫之言」あるいは「時勢論」と題号し、主家または右京家等へ差出し、殊(こと)に墨夷(ぼくい)仮条約御渡し相成り御老中方御上京これ有る趣き承り、右は外夷(がいい)御処置振(ぶり)の儀と相察し、蟄居(ちっきょ)の身分に在(あ)るとも下総守殿通行の途中へ罷(まかり)出で御処置を相伺い見込の趣き申立て、もし御取用いこれ無く自然行われざる次第に至らば、その節は一死殉国の心得を以て、必死の覚悟を極め御同人御駕籠(かご)へ近寄り、自己の建議押立て申すべしなど、一旦存立て候段、国家の御為を存じ成し仕り候旨申立つるなれども、公議を憚(はばか)らず不敬の至り、殊に大体蟄居(ちっきょ)中の身分梅田源二郎へ面会致す段不届(ふとどき)に付き、死罪申付ける。

安政六未十月二十七日

と。ここにおいて安政六年十月二十七日午前十時、手(かいしゅ)の手は、この数奇にして冒険なる革命の大精神をば、五尺の躯より脱して長天万里に飛揚せしめたり。彼豈(あ)にこれを知らざらんや。彼れ曾(かつ)て歌(うた)いて曰く、

かくすればかくなるものと知りながら

  やむに止まれぬ大和魂(やまとだましい)

と。彼れ実にこれを知れり。然(しか)れども知りて悔いざるは、これ実に彼が維新革命の健児たる所以(ゆえん)なり。

〔註〕以下掲ぐる所は、江戸獄中より同志への書簡、及びその絶筆たる『留魂録』なり。如何に彼が死に処して、その平生(へいぜい)の潜光(せんこう)を発揮したるかを見よ。

 慷慨(こうがい)死に赴くは易(やす)く、従容(しょうよう)死に就(つ)くは難し。彼その難きに処して、安詳静粛、意長く神遠く、殆んど無極の精神に冥化するものあるが如し。〔書中の註脚に〔 〕あるは、著者の挿入に係る。〕

江戸獄中より高杉暢夫に与うる書

 唐筆(からふで)一本有難く拝受、則ち相用いて別紙認(したた)め上げ申し候。

 小生去冬十二月二十五日投獄〔長州野山の獄〕以来、大分学問進み候よう覚え候。当五月までの文稿二冊これ有り〔幽室文稿〕、弥二郎に密蔵させ置き候。小生死して遺憾なき所全くこの二冊に在(あ)り、他日御一見下さるべく候。

 ○貴問に曰く、丈夫死すべき所如何(いかん)。僕去冬以来、死の一字大いに発明あり。李氏焚書(ふんしょ)の功多し。その説甚だ永く候えども約していわば、死は好む所に非ず、また悪む所に非ず、道尽き心安んぜば、便(すなわ)ちこれ死所、世に身生きて心死せる者有り、身亡びて魂存する者有り、心死せば生くるも益無きなり、魂存すれば亡ぶるも損無きなり、「いわゆる死生は吾(われ)久しく斉(ひと)しうするものか」。また一種の大才略(さいりゃく)ある人辱(はじ)を忍(しの)びて事を為す、妙(明徐楷が楊継成を助けざるが如し)。また一種私欲なきもの生を偸(ぬす)むを妨げず(文天祥山に死せず生を燕獄に偸む四年これあり)、死して不朽(ふきゅう)の見込あらばいつでも死ぬべし、生きて大業の見込あらはいつでも生くべし〔人生の目的は不朽に在り、人業に志すのは不朽ならんがためのみ〕。僕が所見にては生死は度外に措(お)きてただ言うべきを言うのみ

 ○貴問に曰く、僕今日如何して可ならん。この事在国の日にも御申越し成(な)され候故、一通り貴答相認(したた)め候えども、この行ある故、その書は杉蔵へ密蔵させ置き候。大意遠大の論なり。まず遊学御済まし成(な)され候わば、妻を蓄(たくわ)え官に就(つ)く等のこと、ひたすら父母の御心に任され、もし君側にでも御出でなれば深く精忠を尽し君心を得べし。然(しか)る後正論正義を主張すべし。この時必ず禍敗を取るなり。禍敗の後、人を謝し学を修め一箇恬退(てんたい)の人となり玉(たま)わば、十年の後必ず大忠を立つる日あらん。極々(ごくごく)不幸にても一不朽の人となるべし。清太、玄瑞、杉蔵なども吾(われ)を学んで軽忽(けいこつ)を遣(や)るな。吾は自ら知己の主、上に在(あ)り、然(しか)らざるを得ず。三人暢夫と謀り十年ばかりも名望を養えと申し置き候。三人へ示し候書、御帰国の日御覧下さるべく候〔静思は遠識を生ず〕。

 ○読書は勉強さえすれば書中自(おのずか)ら妙味有り、必ずしも言わざるなり。『下学(かがく)邇言(じげん)』御読み成(な)され候由また妙。王陽明の『伝習録』その外真味あり、陸象山(りくしょうざん)いう、「六経はみな我が注脚」と、この見極めて妙。読書論は申したき事あれども言うも無益なり。

 ○今日諸侯の処しよう、これも愚考の所、在邸の節密(ひそ)かに建白致し候えども、囚奴の言、政府何ぞ信用あらん。しかし知己のために一言して併せて高論を乞う。僕江戸に来り墨夷(ぼくい)の事体見聞、大いに驚き、また窃(ひそ)かに喜ぶ。また深く惜しむことあり。墨夷(ぼくい)本牧を以ていまだ足らずとし、江戸に来居、市中自在に横行するは、応接条約等の表にては当然の事には候えども、現在に目撃すれば随分驚き申し候。しかし英夷(えいい)阿片(あへん)交易のことに付き、瘍医を広東へ渡し療治を施させ、これに継ぐに引痘を以てする等の苦心(『海国図志』中奥東日報に見ゆ)、その思慮深遠というべし。墨夷(ぼくい)は人心を懐柔(かいじゅう)するの手段大いに英夷に劣る。ここを以て窃(ひそ)かに喜び申し候。然(しか)るに機は得難く失い易し。墨夷の為す所市中の人心を失うとも、また数十年無事ならば人心も自(おのずか)ら帖服(ちょうふく)すべし。この機会を失うこと豈(あ)に惜しからざらんや。幕府初めは墨夷を借りて諸夷を制し諸侯を抑えんと欲す。而(しこう)して今は何となく悔悟(かいご)の色あり。悔悟すれども膺懲(ようちょう)の奇策なければ淪胥(りんしょ)与(とも)に喪(ほろ)ぶるの外致し方なし。将(はた)また京師の一条も幕府最初の思い過ちにて、追々糺明(きゅうめい)あればさまで不軌(ふき)を謀りたる訳にこれ無く候えば、今また少しく悔ゆ。ここを以て今諸侯において誠に大切の時なり。今正義を以て幕府を責むるは宜(よろ)しからず候えども〔これ平生(へいぜい)の口吻(こうふん)にあらず〕、上策は彦根、間部等の所は誠実に忠告するに如(し)かず。中策は隠然(いんぜん)自国を富強にしていつにても幕府の倚頼(いらい)となる如く心懸(こころが)くべし〔獄中の意見何んぞ実着なる〕。今幕府への嫌忌(けんき)と見えて杉蔵らが獄さえ免ぜず、遊学生も容易には出さず、坐(い)ながら事機を失う、残念なり。せめては中策にても出(い)だせかし。

 ○京師の一条に付き、投獄の人少なからず。この獄みな失策なり。

 清水寺の僧信海、勅を奉じて敵国を調伏し万民を安穏(あんのん)にせんことを祷(いの)る。事、幕忌に触れ、捕えられて獄に下り、病を以て没す。実に今茲(ことし)四月某日なり、遺歌一首有り。曰く、

西の海東のそらとかわれどもこころはおなじ君の世のため

 その兄僧某、また同志の人なり。これより先、薩摩の海に投じて死す。また遺歌あり〔僧某は月照なり〕。

大君のためには何にか惜しからん薩摩のせとに身は沈むとも

くもりなきこころの月の薩摩潟おきの波間にいまぞしずめり

 余獄に入り、同囚のその事を説くを聞き、感慕に堪えず、短古を作る。

弟は東獄に繋(つな)がれて死し、兄は西海に向って投ず。死その地を殊(こと)にすといえども、同じくこれ皇恩に酬(むく)ゆ。ああ、吾が身未(いま)だ死せず、感慕涕泗(ていし)流る。昔聞く暁月坊、国に死す承久の秋(とき)、今見る公が兄弟(けいてい)、真箇(しんこ)、古人の儔(たぐい)。

 この詩郷友へ御贈り下さるべく候。もし珍説あらば承りたし。

 何卒(なにとぞ)御一答承りたく、態(わざ)と金六を遣わし候。御答出来かね候わば、爾後(じご)は使い差出さず候に付き、左様抑聞(おおせき)け下さるべく候。

 両度の書とも相達し候事と存じ奉り候処、絶えて御答これ無きは如何や。何か故障にても起き候ことかと案労仕(つかまつ)り候。何卒(なにとぞ)御一答待ち奉り候。

 小生投獄の信、国へ達し候後同志より未だなんとも音信これ無く、最早六十日過ぎ候えば、一信これ有る筈なり。ついては例の四円金(十円の内なり)今に参り申さずや。沼崎氏の出帆(しゅっぱん)も三十日内外なり。何卒(なにとぞ)それまでに届けかしに御坐候。

 水戸の臣鮎沢伊太夫、鷹司の臣小林民部権太輔両人遠島の命にて揚屋(あがりや)預け、小林は同居仕り候。色々妙話あり。

 去月念七日水戸の大変物議如何。かえって奇事これより生ずべしと驚裡(きょうり)胆を生じ候。

 今月五日小生評定所御呼出しこれ有り、御吟味の模様にては軽典に処せらるることと察せられ候。先ず御悦び下さるべく候。

 六日に十四年在牢の僧宥長出牢し愛宕(あたご)下円福寺へ預けに相成り候。獄中の様子御承知成(な)されたくばこの僧を訪い玉(たま)え。善く譚ずる人なり。

九月十二日

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江戸獄中より入江杉蔵に与うるの書〔これ刑につく一週前の書、死に垂(なんな)んとして、なお天下の経綸に汲々たるの情を見るべし〕

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