吉田松陰

28話 第十九 人物

2,400字 約5分 2017年8月4日 公開

読み方を変える
字の大きさ
行の間隔
1行の長さ
書体
配色
組み方

 彼は如何なる人物なるか、普通の意味において、大なる人物という能(あた)わず。何となれば大なる活眼なく、大なる雄腕なく、また大なる常識を有せざるが故に。

 然(しか)れどももし大なる人物というを許さば、許すべきはただ一あり。曰く、彼は真誠の人なり、仮作(かさく)の人にあらざるなり。彼が真誠の人たるは、なおルーテルが真誠の人たるが如し。

 ルーテルの幼きや、胡弓を人の門口(かどぐち)に弾じて以て自(みずか)ら給す、弾じ終りて家人の物を与えんとするや、彼れ乍(たちま)ち赤面して遁(のが)れ去れり。彼何(な)んぞかくの如く小心なる。彼がウオムスの大会において訊問せられんとするや、人その行を危ぶむ。彼昂然(こうぜん)として曰く、「否々我往(ゆ)かん、悪魔の数縦令(たと)い屋上の瓦より三倍多きも何ぞ妨げん」。あるいは曰く、「惹爾日(ジョルジ)公あり、汝の強敵なり」と。彼泰然として曰く、「否々我往かん、縦令(たと)い惹爾日公雨の如く九日九夜降り続きたりとて何かあらん」と。彼アウクスボルクに在(あ)りて、衆敵に窘追(きんつい)せらるるや、慨然として曰く、「もし余をして五百箇の首ありて、むしろ尽(ことごと)くこれを失うとも、余が信ずる所の一箇条を改むるを欲せず」と。

 彼は何故に前に小心にして、後にかくの如く大胆なるか。怪む勿(なか)れ、真成の剛勇は、翼々たる小心より来(きた)るを知らずや。松陰固(もと)よりルーテルに比すべきものにあらず、然(しか)れども彼が彼たる所以(ゆえん)は、至誠にして自(みず)から欺かざる故と知らずや。

 彼れただ小心翼々たり、その世に処する、あたかも独木橋(まるきばし)を渡るが如し。彼は左にも右にも行くべき道を見ず、故に思い切りて独木橋を鉛直線に進前す。彼が行くべき道は唯一の道なり、故に彼は全力を出してこれを踏過す。彼はこれがために死すら辞せず、何となれば彼が信ずる所は、死よりも重ければなり。故に大胆の事を為すは、小心の人なり、傍若無人(ぼうじゃくぶじん)の事を為すは、至誠にして自(みず)から欺かざる人なり。彼(か)の非道横着にして、人を虐(しいた)げ世を逆して、自(みず)から慚死(ざんし)する能(あた)わざる者の如きは、これ良心の麻痺(まひ)病に罹(かか)りたるなり、彼らが大胆は強盗殺人者の大胆なり、未だ剛勇を以て許すべからざるなり。

 ただ一の真誠なり、赤心なり。父母に対すれば孝となり、兄妹に対すれば友愛となり、朋友に対すれば信義となり、君に対すれば忠となり、国に対すれば愛国となり、道に対すれば殉道となる。その本は一にして、その末は万なり。万種の動作、ただ一心に会(あつ)まる。彼が彼たる所以(ゆえん)、ただこの一誠以て全心を把持するが故にあらずや。

 彼は殉難者てふ(ちょう)筋書により、吉田松陰てふ(ちょう)題目を演ずる俳優にあらず。彼自(みず)から活ける松陰なり、彼は多くの欠点を有するに係(かかわ)らず、仮作(かさく)的の人物にあらず、真誠の人物なり。

 彼は真摯(しんし)の人なり、彼は意の人に非ず、気の人なり。理の人に非ず、情の人なり。識の人に非ず、感の人なり。彼は塩辛らく、意地悪ろく、腹黒き人に非ず。彼は多くの陰謀を作(な)したるに拘(かかわ)らず、正義の目的を達せんがために作(な)したるの陰謀にして、殆んど胸中、人に対して言うべからざるのものなかりしなり。彼は村田清風の手書に係る、司馬温公の「吾れ人に過ぎるもの無し、但(た)だ平生の為す所、未(いま)だ嘗(かつ)て人に対して言うべからざるもの有らざるのみ」の語を守袋に入れ、常住坐臥、その膚を離さざりしという。また以て彼が功夫(くふう)の存する所を察(み)るべし。

 彼は日本国民の通有性を有す。彼は余りに可燃質なり、彼は余りに殺急に、余りに刃近(はしか)し、切言すれば彼は浅躁(せんそう)と軽慓(けいひょう)と雑馭(ざっぱく)との譏(そしり)を免るる能(あた)わず。然れども彼は敬虔(けいけん)なる献身的精神を以て、その身を国家とその道とする所とに捧ぐ。彼は到底一の「殉」字を会得(えとく)したるもの、而(しこう)して彼は到底一の殉字に慚(は)じざるもの、略言すれば彼は天成の好男児なり、日本男児の好標本なり。

       *   *   *   *   *

 余嘗(かつ)て維新革命前の故老を訪い、以て彼が風(ふうぼう)を聴くを得たり。いう、彼れ短躯(たんく)骨(くこつ)、枯皮瘠肉、衣に勝(た)えざるが如く、嘗(かつ)て宮部鼎蔵と相伴い、東北行を為すや、しばしば茶店の老婆のために、誤って賈客視せらる。宮部戯(たわむ)れて曰く、「君何ぞそれ商骨に饒(と)む、一にここに到る」と。彼れ然(ふつぜん)刀柄(とうへい)を擬(ぎ)して曰く、「何ぞ我を侮辱するや」と。彼れ白痘(はくとう)満顔、広額尖頤(せんい)、双眉(そうび)上に釣り、両頬下に殺(そ)ぐ、鼻梁(びりょう)隆起、口角(こうかく)緊束(きんそく)、細目深瞳(しんとう)、ただ眼晴烱々(けいけい)、火把(たいまつ)の如きを見るのみ。彼れ人に対して真率(しんそつ)、漫(みだり)に辺幅を飾らず、然(しか)れども広人稠坐(ちゅうざ)の裡(うち)、自(おのずか)ら一種の正気、人を圧するものありしという。

 彼れ居常他の嗜好(しこう)なし、酒を飲まず、烟(たばこ)を吹かず、その烟を吹かざるは、彼が断管吟の詩に徴して知るべし。書画(しょが)、文房、骨董(こっとう)、武器、一として彼の愛を経るものなし。衣服、玩好(がんこう)、遊戯、一も彼の嗜(し)を惹(ひ)くものなし。机上一硯(いっけん)、一筆、蕭然(しょうぜん)たる書生のみ。最も読書を好み手に巻を釈(す)てず、その抄録(しょうろく)したるもの四十余巻ありという。嘗(かつ)て森田節斎の「項羽本紀」の講義に参ず。これよりして「項羽本紀」を手ずから謄写(とうしゃ)するものおよそ四回、随って批し随って読む。その愛読するもの孫子、水戸流の諸書、菅茶山詩、山陽詩文等は固(もと)より、その他経史百家の書より、近代の諸著作に致るまで、寓目(ぐうもく)せざるなし。その博覧強識にして、言論堂々、翰(ふで)を揮い飛ぶが如きもの、その著作編述、無慮(むりょ)五、六十種に出づるもの、その好む所によりて、その長技を見るべし。声色の如きは、殆んど思うに遑(いとま)あらざりしなり。ただ菓物と餅とは、平生(へいぜい)すこぶる嗜(たしな)む所、故に今に到りて、祭時必らずこれを供すという。

 彼は哲学において、「ストイック」派にはあらざれども、その行状(ぎょうじょう)は確かに「ストイック」なりき。剛健簡質以て彼が生活を尽(つく)すべし。彼は実に封建制度破壊の張本人たりしに係(かかわ)らず、その身は武士風の遺影を留めたり。

 彼の友人なる維新革命前の故老曰く、「人誰(た)れか過失なからん。ただ彼は余をしてその欠点を忘れしむ」と。彼は多くの欠点を有したり。然(しか)れども彼は人をしてその欠点を忘れしむるほどの、真誠なる人物なりき。彼の赤心はかくまで深く人に徹せしなり。

目次に戻る

目次