8話 第四 鎖国的政策(2)
読み方を変える
と。而して彼は自から江戸の咽吭たる豆相、房総沿岸を巡検したり。而して遂に彼の発議により、寛永打払令を修正して、外舶の来るものにはその来意を質し、漂流船には、薪水食料を供して立ち退かしむるの融通法を設けたり。これ実に寛永以来の一大変局といわざるを得ず。而してこの変局を促したるもの、また辺海の形勢日に急なるにこれ帰せずんばあらず。
我邦識者の国防的観念に、一大刺激を与えたるもの、実に露国の北辺を侵擾したるに拠る。蓋し露国の警を報じたるは、明和八年(千七百七十一年)露国西比利亜の流竄者、波蘭人アウスより創る。然れども太平の酔客は、霜天の晨鐘に目を醒すを欲せず。延いて寛政五年露船松前に来り、我が漂民を護送して通商を請う。幕府これを斥く。而して従来虚説なりとして顧りみざりし露国南下の実情も、この漂民の談話によりて詳かにするを得。今は蝦夷をも幕府の直轄に帰し、頻りに防禦に余念なきも、さりとて名策あるにあらず。ただ一時応変の彌縫策に過ぎず。みすみすかくの如き江山挙げて人に附するぞ口惜しけれ。越えて寛政十年露船蝦夷に到り、文化元年露国使節レザノット長崎に来り、互市を請う、許さず。遂に文化三年(千八百六年)より四年に亙り、露人来りて樺太及び蝦夷を椋めぬ。
而して我邦においても、近藤守重は(寛政十年)、択捉島に渡り、大日本国領の標柱を建て、間宮林蔵は(文化五年)、樺太を探験し、独身満州に入り、黒竜江畔の形勢を按じて帰り、平山行蔵は自から征北軍の先鋒となり、死を北海に致さんと欲し、幕府に上書して曰く、「一日の苟安は、数百年の大患なり、今ま徒に姑息以て処せば、その我を軽侮するもの、豈に独り露人のみならん。四方の外夷、我に意あるもの、踵を接して起らん」と。蓋し彼は蝦夷総督川尻筑後守と相謀り、カムサッカを襲い、直ちに露人立脚の地を奪わんと欲したるなり。壮志蹉行われずといえども、護国的精神、敵愾的気象は、沸々として時勢の児の血管中に煮え騰れり。
かくの如く一方においては、露国の警急なると共に、他方においては英船文化五年(千八百〇八年)長崎に入り、港内を剽掠し、ために長崎奉行松平康英をして、自殺してその機宜を失するの責を幕府に謝せしめたりき。されば幕府は奥羽諸藩を催して、函館を護らしめ、西国諸大名に令して長崎を警せしめ、文化七年においては、松平定信は、松平容衆と共に房総海岸の防禦を命ぜられ、ために東京湾の砲台を築かしめ、人心も何となく洶々たらんばかりの有様とはなりぬ。蒔くものは、穫らざるべからず。今や徳川幕府も、二百年来の悪因果たる鎖国の苦がき経験を嘗めねばならぬ時とはなれり。
国外の警報は、直ちに対外の思想を誘起し、対外の思想は、直ちに国民的精神を発揮し、国民的精神は、直ちに国民的統一を鼓吹す。国民的統一と、封建割拠とは、決して両立するを容さず。それ外国てふ思想は、日本国てふ観念を生ず。日本国てふ観念の生ずる日は、これ各藩てふ観念の滅ぶる日なり。各藩てふ観念の滅ぶ日は、これ封建社会顛覆の日なり。果して然らば歴史の眼中には、既に明治四年の廃藩置県を、寛政、文化の時代に予想したるや知るべきのみ。文化よりして文政、文政よりして天保、天保よりして嘉永、安政、これ実に円石を万峰の上より転ずるなり。