吉田松陰

8話 第四 鎖国的政策(2)

1,353字 約3分 2017年8月4日 公開

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と。而(しこう)して彼は自(みず)から江戸の咽吭(いんこう)たる豆相(ずそう)、房総沿岸を巡検(じゅんけん)したり。而(しこう)して遂に彼の発議により、寛永打払(うちはらい)令を修正して、外舶の来(きた)るものにはその来意を質(ただ)し、漂流船には、薪水(しんすい)食料を供して立ち退かしむるの融通(ゆうずう)法を設けたり。これ実に寛永以来の一大変局といわざるを得ず。而してこの変局を促したるもの、また辺海の形勢日に急なるにこれ帰せずんばあらず。

 我邦(くに)識者の国防的観念に、一大刺激を与えたるもの、実に露国の北辺を侵擾したるに拠る。蓋(けだ)し露国の警を報じたるは、明和八年(千七百七十一年)露国西比利亜(シベリア)の流竄(りゅうざん)者、波蘭(ポーランド)人アウスより創(はじま)る。然れども太平の酔客は、霜天(そうてん)の晨鐘(しんしょう)に目を醒(さま)すを欲せず。延(ひ)いて寛政五年露船松前(まつまえ)に来り、我が漂民を護送して通商を請う。幕府これを斥(しりぞ)く。而(しこう)して従来虚説なりとして顧りみざりし露国南下の実情も、この漂民の談話によりて詳(つまびら)かにするを得。今は蝦夷(えぞ)をも幕府の直轄に帰し、頻(しき)りに防禦に余念なきも、さりとて名策あるにあらず。ただ一時応変の彌縫策(びほうさく)に過ぎず。みすみすかくの如き江山(こうざん)挙げて人に附するぞ口惜しけれ。越えて寛政十年露船蝦夷(えぞ)に到り、文化元年露国使節レザノット長崎に来り、互市(ごし)を請う、許さず。遂に文化三年(千八百六年)より四年に亙(わた)り、露人来りて樺太(からふと)及び蝦夷(えぞ)を椋(かす)めぬ。

 而(しこう)して我邦においても、近藤守重は(寛政十年)、択捉(えとろふ)島に渡り、大日本国領の標柱を建て、間宮林蔵は(文化五年)、樺太を探験し、独身満州に入り、黒竜江畔の形勢を按(あん)じて帰り、平山行蔵は自(みず)から征北軍の先鋒となり、死を北海に致さんと欲し、幕府に上書して曰く、「一日の苟安(こうあん)は、数百年の大患なり、今(い)ま徒(いたずら)に姑息(こそく)以て処せば、その我を軽侮するもの、豈(あ)に独り露人のみならん。四方の外夷(がいい)、我に意あるもの、踵(くびす)を接して起らん」と。蓋(けだ)し彼は蝦夷(えぞ)総督川尻筑後守(ちくごのかみ)と相謀り、カムサッカを襲い、直ちに露人立脚の地を奪わんと欲したるなり。壮志蹉(さた)行われずといえども、護国的精神、敵愾(てきがい)的気象は、沸々として時勢の児の血管中に煮え騰(あが)れり。

 かくの如く一方においては、露国の警(けい)急なると共に、他方においては英船文化五年(千八百〇八年)長崎に入り、港内を剽掠(ひょうりゃく)し、ために長崎奉行松平康英をして、自殺してその機宜(きぎ)を失するの責(せめ)を幕府に謝せしめたりき。されば幕府は奥羽諸藩を催(もよお)して、函館(はこだて)を護らしめ、西国諸大名に令して長崎を警せしめ、文化七年においては、松平定信は、松平容衆(かたひろ)と共に房総海岸の防禦を命ぜられ、ために東京湾の砲台を築かしめ、人心も何となく洶々(きょうきょう)たらんばかりの有様とはなりぬ。蒔(ま)くものは、穫(か)らざるべからず。今や徳川幕府も、二百年来の悪因果たる鎖国の苦(に)がき経験を嘗(な)めねばならぬ時とはなれり。

 国外の警報は、直ちに対外の思想を誘起し、対外の思想は、直ちに国民的精神を発揮し、国民的精神は、直ちに国民的統一を鼓吹(こすい)す。国民的統一と、封建割拠とは、決して両立するを容(ゆる)さず。それ外国てふ(ちょう)思想は、日本国てふ観念を生ず。日本国てふ観念の生ずる日は、これ各藩てふ観念の滅ぶる日なり。各藩てふ観念の滅ぶ日は、これ封建社会顛覆(てんぷく)の日なり。果して然(しか)らば歴史の眼中には、既に明治四年の廃藩置県を、寛政、文化の時代に予想したるや知るべきのみ。文化よりして文政、文政よりして天保、天保よりして嘉永、安政、これ実に円石を万峰の上より転ずるなり。

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