前途七里焼山の茶店に着いて、少時するまで、この友船は境を隔てたやうに別れたのである。
道は大畝りに、乗上り乗下つて、やがて、野は迫り、山来り、巌近づき、川灌いで、やつと砂煙の中を抜けたあたりから、心細さが又増した。樹はいま緑に、流は白い。嵐気漓る、といふ癖に、何が心細い、と都会の極暑に悩むだ方々からは、その不足らしいのをおしかりになるであらうが、行向ふ、正面に次第に立累る山の色が真暗なのである。左右の山々は、次第次第に、薄墨を合せ、鼠を濃くし、紺を流し、峰が漆を刷く。
「さあ/\さあ、そろ/\怪しくなりましたな。」
「怪談ですか。」
「それ処ですか、暗く成つて来ましたなあ、鳴りさうですね。鳴りさうですね。」
三角さんが、
「大丈夫、よく御覧なさい、あの濡れたやうに艶々と黒くすごい中に……」
小笠原氏が口を入れて、
「あの中が、これから行く奥入瀬の大渓流でがすよ。」
だから、だからいはぬ事ではない、私は寒気がして来た。
「いゝえ、――黒く凄い中に、薄く…光る…は不可ませんか。」
と博士が莞爾して、
「黒く凄い中に、紫色が見えましやう。高山は何処もこの景色です。光線の工合です。夕立雲ではありません。」
白皙蒲柳の質に似ず、越中国立山、剣ヶ峰の雪を、先頭第四十何人目かに手鈎に掛けた、登山においては、江戸の消防夫ほどの侠勢のある、この博士の言を信ずると、成程、夕立雲が立籠めたのでもなさゝうで、山嶽の趣きは墨染の法衣を襲ねて、肩に紫の濃い袈裟した、大聖僧の態がないでもない。が、あゝ、何となくぞく/\する。
忽ち、ざつとなつて、ポンプで噴くが如く、泥水が輪の両方へ迸ると、ばしやんと衣裳鞄に刎ねかゝつた。運転手台の横腹へ綱を掛けて積んだのである。しまつた、借りものだ、と冷りとすると、ざつ、ざぶり、ばしやツ。弱つた。が、落着いた。緑蝶夫人の貸し振を思へ。――「これは、しやぼん、鰹節以上ですな。――道中損ずる事承合ですぜ。」「鞄は汚れたのが伊達なんですとさ。――だから新しいのを。何うぞ精々傷めて来て下さいな。」最う一つ落着いたのは、……夏の雨だ。こゝらは最う降つたあとらしい、と思つたのである。
「小笠原さん、降つたんですね。」
「いや、昨日の雨ですわい。」
御勝手になさい、膠のないこと夥しい。然やうでございませうとも、成程晴れたのではない。窓をたよるほど暗さが増して気の滅入る事又夥しい。私は家が恋しくなつた。人間女房の恋しく成るほど、勇気の衰へる事はない。それにつけても、それ、その鞄がいたはしい。行つた、又ばしやり、ばしやん。
以て、この辺既に樹木の茂れる事思ふべし。焼山は最う近い。
近い。が焼山である。唐黍も焦げてゐやう。茄子の実も赤からう。女気に遠ざかる事、鞄を除いて十里に余つた。焼山について休んだ処で、渋茶を汲むのはさだめし皺くたの……然ういへば、来る道の阪一つ、流を近く、崖ぶちの捨石に、竹杖を、ひよろ/\と、猫背へ抽いて、齢、八十にも余んなむ、卒塔婆小町を正で見る婆さんが、ぼやり、うつむいて休んでゐた。そのほかに殆ど人影を見なかつたといつても可い。――あんなのが「飲ましやい。」であらうと観念したのであつたから。
「今日は――女房さん。」
珊瑚の枝を折つてゐた、炉の焚火から、急いで立つて出迎へた、もの柔かな中形の浴衣の、髪の濃いのを見た時は、慌てたやうに声を掛けた。
焼山の一軒茶屋、旅籠に、雑貨荒物屋を兼ねた――土間に、(この女房さんなら茶も熱い)――一椀を喫し、博士たちと一息して、まはりの草の広場を、ぢつと視ると、雨空低く垂れつゝ、雲は黒髪の如く野に捌けて、棟を絡ひ、檐に乱るゝとゝもに、向うの山裾に、ひとつ、ぽつんと見える、柴小屋の茅屋根に、薄く雨脚が掛かつて、下草に裾をぼかしつゝ歩行くやうに、次第に此方へ、百条となり、千条と成つて、やがて軒前に白い簾を下ろした。
この雫に、横頬を打たれて、腕組をして、ぬい、と立つたのは、草鞋を吊つた店の端近に踞んだ山漢の魚売で。三枚の笊に魚鱗が光つた。鱗は光つても、其が大蛇でも、此の静かな雨では最う雷光の憂慮はない。見参、見参などゝ元気づいて、説明を待つまでもない、此の山深く岩魚のほかは、予て聞いた姫鱒にておはすらむ、カバチエツポでがんせうの、と横歩行きして見に立つ勢ひ。序にバスケツトを探つて、緑蝶夫人はなむけする処のカクテルの口を抜いた。
「凄い婆さんに逢ひましたよ。」
「大雨、大雨。」
と、画工さん、三浦さんがばた/\と出た、その自動車が、柴小屋を小さく背景にして真直に着くと、吹降を厭つた私たちの自動車も、じり/\と把手を縦に寄つた。並んだ二台に、頭からざつと浴せて、軒の雨の篠つくのが、鬣を敲いて、轡頭を高く挙げた、二頭の馬の鼻柱に灌ぐ風情だつたのも、谷が深い。
が、驟雨の凄じさは少しもない。すぐ、廻り縁の座敷に、畳屋の入つてゐたのも、何となく心ゆく都の時雨に似て、折から縁の端にトントンと敲いた茣蓙から、幽に立つた埃も青い。
はじめよりして、ものゝ可懐しかつたのは、底暗い納戸の炉に、大鍋と思ふのに、ちら/\と搦んで居る焚火であつた、この火は、車の上から、彼処に茶屋と見た時から、迷つた深山路の孤屋の灯のやうに嬉しかつた。女房の姿に優しかつた。
壁天井、煤のたゞ黒い中に、火は却つて鮮かである。この棟にかゝる蔦はいち早くもみぢしよう。この背戸の烏瓜も先んじて色を染めよう。東京は遥に、家は遠い。……旅の単衣のそゞろ寒に、膚にほの暖かさを覚えたのは一杯のカクテルばかりでない。焚火は人の情である。
ひら/\と揚がり、ひら/\と伏して、炉に靡く。焚火は襷の桃色である。かくて焼山は雨の谷に美しい。
ひそかに名づけて、こゝを村雨茶屋といはうと思つた。小降りになつた。白い雲が枝に透く。
「何を煮てゐなさるんですか、女房さん。」
出立つ時、私は、納戸のその鍋をさしてきいた。
「はい?」
「鍋に何を煮なさいますか。」
「小豆でございます。」
と言ふと、女房は容子よく、ぽつと色を染めた。
私はその理由を知らない。けれども、それよりして奥入瀬川の深林を穿つて通る、激流、飛瀑、碧潭の、到る処に、松明の如く、灯の如く、細くなり小さくなり、また閃きなどして、――子の口の湖畔までともなつたのは、この焚火と、――一茎の釣舟草の花のあつたことを忘れない。
「しばらく、一寸。」
焼山を一町ばかり、奥入瀬口へ進んだ処で、博士が自動車を留めていつた。
「あの花を知つてゐなさいますか――一寸、お目に掛けませう。」
自動車を引戻し、ひらりと下りるのに、私も続くと、雨にぬれた草の叢に、優しい浅黄の葉を掛けて、ゆら/\と咲いたのは、手弱女の小指さきほどの折鶴を乗せよう、おなじく折つた小さな薄黄色の船の形に連り咲いた花である。「一枝」と意を得ると、小笠原氏の顔を出して、事もなげに頷くのを視て、折り取る時、瀬の音が颯と響いた。
やがて交る/″\手に翳した。
釣舟草は浮いて行く。
忽ち見る、車の輻は銀に、轍は緑晶を捲いて、水が散つた。奥入瀬川の瀬に入つたのである。
これよりして、子の口までの三里余は、たゞ天地を綾に貫いた、樹と巌と石と流の洞窟と言つて可い。雲晴れても、雨は不断に降るであらう。楢、桂、山毛欅、樫、槻、大木大樹の其の齢幾干なるを知れないのが、蘚苔、蘿蔦を、烏金に、青銅に、錬鉄に、刻んで掛け、鋳て絡うて、左右も、前後も、森は山を包み、山は巌を畳み、巌は渓流を穿ち来る。……
色を五百機の碧緑に織つて、濡色の艶透通る薄日の影は――裡に何を棲ますべき――大なる琅の柱を映し、抱くべく繞るべき翡翠の帳の壁を描く。
この壁柱は星座に聳え、白雲に跨がり、藍水に浸つて、露と雫を鏤め、下草の葎おのづから、花、禽、鳥、虫を浮彫したる氈を敷く。
氈の上を、渓流は灌ぎ、自動車は溯る。
湖の殿堂を志す、曲折算ふるに暇なき、この長い廊下は、五町右に折れ、十町左に曲り、二つに岐れ、三つに裂けて、次第々々に奥深く、早きは瀬となり、静なるは淵となり、奔るは湍となり、巻けるは渦となつて、喜ばせ、楽ませ、驚かせ、危がらせ、ヒヤリとさせる。目の前に、幾処か、凄じき扉と思ふ、大磐石の階壇は、瀧を壇の数に落しかけ、落つる瀧は、自動車を空へ釣る。
呪なく、券なきに、この秘閣の廊下、行く処、扉おのづから開け、柱来り迎ふる感がある。
――惟ふに人は焼山をすぎて、其第一の扉展くとともに、心慄くであらう。車の轍を取つて引くものは、地でなく、草でなく、石でなく、森の壁を打つて、巌の柱に砕くる浪である。衝き入る自動車は、瀬にも、淵にも、瀧にも、殆ど水とすれ/\に、いや、寧ろ流の真中を、其のまゝに波を切つて船の如くに溯るのであるから。
巌の黒き時、松明は幻に照し、瀬の白き時、釣舟草は窓に揺れた。
全体、箱根でも、塩原でも、或は木曾の桟橋でも、実際にしろ、絵にせよ、瑠璃を灌ぎ、水銀を流す渓流を、駕籠、車で見て行くのは、樵路、桟道、高い処で、景色は低く下に臨むものと思つて居たのに、繰返していふが、此の密林の間は、さながら流に浮んで飛ぶのである。
もとより幾処にも橋がある。皆大木の根に掛り、巨巌の膚を穿つ。其の苔蒸す欄干を葉がくれに、桁を蔦蔓で埋めたのが、前途に目を遮るのに、橋の彼方には、大磐石に堰かれて、急流と奔湍と、左より颯と打ち、右より《だう》と潜り、真中に狂立つて、巌の牡丹の頂に踊ること、藍と白と紺青と三頭の獅子の荒るゝが如きを見るとせよ。角度を急に曲つて、橋を乗る時を思はれよ。
釣舟草は浮いて行く。
中に一所、湖神が設けの休憩所――応接間とも思ふのを視た。村雨又一時はら/\と、露しげき下草を分けつゝ辿ると、藻を踏むやうな湿潤な汀がある。森の中を平地に窪んで、居る処も川幅も、凡そ百畳敷きばかり、川の流が青黒い。波、波、波は、一面に陰鬱に、三角に立つて、同じやうに動いて、鱗のざわ/\と鳴る状に、蠑の群る状に、寂然と果しなく流れ流るゝ。
寂しく物凄さに、はじめて湖神の片影に接した思がした。
三方は、大巌夥しく累つて、陰惨冥々たる樹立の茂は、根を露呈に、石の天井を蜿り装ふ――こゝの椅子は、横倒れの朽木であつた。
鱗の波は、ひた/\と装上つて高く打つ。――所謂「石げど」の勝である。
馬の胴中ほどの石の、大樫、古槻の間に挟つて、空に架つて、下が空洞に、黒鱗の淵に向つて、五七人を容るべきは、応接間の飾棚である。石げどはこの巌の名なのである。が、魔の棲むべき岩窟を、嘗て女賊の隠れ家であつたと言ふのは惜い。……
隣郷津軽の唐糸の前に恥ぢずや。女賊はまだいゝ。鬼神のお松といふに至つては、余りに卑しい。これを思ふと、田沢湖の街道、姫塚の、瀧夜叉姫が羨しい。が、何だか、もの欲しさうに、川をラインとか呼ぶのから見れば、この方が遥にをかしい。
雲は黒くなつた。淵は愈々暗い。陰森として沈むあたりに、音もせぬ水は唯鱗が動く。
時に、廊下口から、扉の透間から、差覗いて、笑ふが如く、顰むが如く、ニタリ、ニガリと行つて、彼方此方に、ぬれ/\と青いのは紫陽花の面である。面でない燐火である。いや燈籠である。
しかし、十和田一帯は、すべて男性的である。脂粉の気の少い処だから、此の青い燈籠を携ふるのは、腰元でない、女でない。
木魅、山魅の影が添つて、こゝのみならず、森の廊下の暗い処としいへば、人を導くが如く、あとに、さきに、朦朧として、顕はれて、蕚の角切籠、紫陽花の円燈籠を幽に青く聯ねるのであつた。
釣舟草は浮いて行く。
焚火は幻に燈れて続く。
車の左右に手の届く、数々の瀧の面も、裏見る姿も、燈籠の灯に見て、釣舟草は浮いて行く。
瀧のその或ものは、雲にすぼめた瑪瑙の大蛇目の傘に、激流を絞つて落ちた。また或ものは、玉川の布を繋いで、中空に細く掛かつた。その或ものは、黒檀の火の見櫓に、星の泡を漲らせた。
やがて、川の幅一杯に、森々、淙々として、却つて、また音もなく落つる銚子口の大瀧の上を渡つた時は、雲もまた晴れて、紫陽花の影を空に、釣舟草に、ゆら/\と乗心地も夢かと思ふ。……橋を辷つて、はツと見ると、こゝに晃々として滑らかなる珠の姿見に目が覚めた。
湖の一端は、舟を松蔭に描いて、大弦月の如く輝いた。
水の光を白砂にたよつて、子の口の夕べの宿に着いたのである。
「御馳走は?」
「洋燈。」
といつて、私はきよとりとした。――これは帰京早々お訪ねに預かつた緑蝶夫人の問に答へたのであるが――実は子の口の宿が洋燈だつたので、近頃余程珍しかつた。それが記憶に沁みてゐて、うつかり口へ出たのである。
洋燈も珍しいが、座敷もまだ塗立ての生壁で、木の香は高し、高縁の前は、すぐに樫、槻の大木大樹鬱然として、樹の根を繞つて、山清水が潺々と音を寂に流れる。……奥入瀬の深林を一処、岩窟へ入る思ひがした。
さて御馳走だが、その晩は、鱒のフライ、若生蕈と称ふる、焼麩に似たのを、てんこ盛の椀。
「ホツキ貝でなくつてよかつたわね。」
「精進のホツキ貝ですよ。それにジヤガ芋の煮たの。……しかしお好み別誂で以て、鳥のブツ切と、玉葱と、凍豆腐を大皿に積んだのを鉄鍋でね、湯を沸立たせて、砂糖と醤油をかき交ぜて、私が一寸お塩梅をして」
「おや、気味の悪い。」
「可、と打込んで、ぐら/\と煮える処を、めい/\盛に、フツフと吹いて、」
「山賊々々。」
と冷かしたが、元来、衣裳鞄の催促ではない、ホツキ貝の見舞に来たのだから、先づ其次第を申述べる処へ……又近処から、おなじく、氷砂糖、梅干の注意連の女性が来り加はつた。次手だから、次の泊の休屋の膳立てを紹介した。鱒の塩やき、小蝦のフライ、玉子焼、鱒と芙萸の葛かけの椀。――昼と晩の順は忘れたが、鱒と葱の玉子綴、鳥のスチウ、鱒のすりみと椎茸と茗荷の椀。
「鱒、鱒、鱒。」
「ます/\出ます。」と皆で笑ふ。何も御馳走を食べに行く処ではない。景色だ、とこれから、前記奥入瀬の奇勝を説くこと一番して、此の子の口の朝ぼらけ、汀の松はほんのりと、島は緑に、波は青い。縁前のついその森に、朽木を啄む啄木鳥の、青げら、赤げらを二羽視ながら、寒いから浴衣の襲着で、朝酒を。――当時、炎威猛勢にして、九十三度半といふ、真中で談じたが、
「だからフランネルが入つてるぢやありませんか、不精だね。」
と女房めが、風流を解しないこと夥しい。傍から、
「その為の鞄ぢやあないの。」
で、一向に涼しさなんぞ寄せつけない。……たゞ桟橋から、水際から、すぐ手で掬へる小瑕の事。……はじめ、羽の薄い薄萠黄の蝉が一疋、波の上に浮いて、動いてゐた。峨峰、嶮山に囲まれた大湖だから、時々颯と霧が襲ふと、この飛んでるのが、方角に迷ふうちに羽が弱つて、水に落ちる事を聞いてゐた。――上げてやらうと、杖で、……かう引くと、蝉の腹に五つばかり、小さな海月の脚の様なのが、ふら/\とついて泳いで寄る、食つてゐやがる――蝦である。引寄せても遁げないから、密と手を入れると、尻尾を一寸ひねつて、二つも三つも指のさきをチヨ、チヨツと突く。此奴と、ぐつと手を入れると、スイと掌に入つて来る。岩へ寄せて、ひよいと水から取らうとすると、アゝ擽つたい、輪なりに一つピンと刎ねて、ピヨイとにげて、スイと泳いで、澄ましてゐる。小雨のかゝるやうに、水筋が立つほど、幾らでも、といふ……半から、緑蝶夫人は気を籠めて、瞳を寄せ、もう一人は掌をひら/\動かし、じり/\と卓子台に詰寄ると、第一番に食意地の張つてる家内が、もう、襷を掛けたさうに、
「食べられるの。」
「そいつが天麩羅のあげたてだ。ほか/\だ。」
緑蝶夫人が、
「あら、いゝ事ねえ、行きたくなつた。」
「私……今からでも。」
度し難い! 弱つた。教養あり、識見ある、モダンとかゞ羨しい。