十和田湖

3話 三(1)

6,441字 約13分 2016年9月1日 公開

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 前途(ゆくて)()焼山(やけやま)茶店(ちやみせ)()いて、少時(しばらく)するまで、この友船(ともぶね)(さかひ)(へだ)てたやうに(わか)れたのである。

 (みち)大畝(おほうね)りに、乗上(のりあが)乗下(のりさが)つて、やがて、()(せま)り、(やま)(きた)り、(いはほ)(ちか)づき、(かは)(そゝ)いで、やつと砂煙(すなけぶり)(なか)()けたあたりから、心細(こゝろぼそ)さが(また)()した。()はいま(みどり)に、(ながれ)(しろ)い。嵐気(らんき)(したゝ)る、といふ(くせ)に、(なに)心細(こゝろぼそ)い、と都会(とくわい)極暑(ごくしよ)(なや)むだ方々(かた/″\)からは、その不足(ふそく)らしいのをおしかりになるであらうが、行向(ゆきむか)ふ、正面(しやうめん)次第(しだい)立累(たちかさな)(やま)(いろ)真暗(まつくら)なのである。左右(さいう)山々(やま/\)は、次第次第(しだいしだい)に、薄墨(うすずみ)(あは)せ、(ねずみ)()くし、(こん)(なが)し、(みね)(うるし)()く。

「さあ/\さあ、そろ/\(あや)しくなりましたな。」

怪談(くわいだん)ですか。」

「それ(どころ)ですか、(くら)()つて()ましたなあ、()りさうですね。()りさうですね。」

 三角(みすみ)さんが、

大丈夫(だいぢやうぶ)、よく御覧(ごらん)なさい、あの()れたやうに艶々(つや/\)(くろ)くすごい(なか)に……」

 小笠原氏(をがさはらし)(くち)()れて、

「あの(なか)が、これから()奥入瀬(おいらせ)大渓流(だいけいりう)でがすよ。」

 だから、だからいはぬ(こと)ではない、(わたし)寒気(さむけ)がして()た。

「いゝえ、――(くろ)(すご)(なか)に、(うす)く…(ひか)る…は不可(いけ)ませんか。」

博士(はかせ)莞爾(につこり)して、

(くろ)(すご)(なか)に、紫色(むらさきいろ)()えましやう。高山(かうざん)何処(どこ)もこの景色(けしき)です。光線(くわうせん)工合(ぐあひ)です。夕立雲(ゆふだちぐも)ではありません。」

 白皙蒲柳(はくせきほりう)(しつ)()ず、越中国(えつちうのくに)立山(たてやま)(つるぎ)(みね)(ゆき)を、先頭(せんとう)(だい)四十何人目(なんにんめ)かに手鈎(てかぎ)()けた、登山(とざん)においては、江戸(えど)消防夫(ひけし)ほどの侠勢(きほひ)のある、この博士(はかせ)(ことば)(しん)ずると、成程(なるほど)夕立雲(ゆふだちぐも)立籠(たちこ)めたのでもなさゝうで、山嶽(さんがく)(おもむ)きは墨染(すみぞめ)法衣(ころも)(かさ)ねて、(かた)(むらさき)()袈裟(けさ)した、大聖僧(だいせいそう)(たい)がないでもない。が、あゝ、(なん)となくぞく/\する。

 (たちま)ち、ざつとなつて、ポンプで()くが(ごと)く、泥水(どろみづ)()両方(りやうはう)(ほとばし)ると、ばしやんと衣裳鞄(いしやうかばん)()ねかゝつた。運転手台(うんてんしゆだい)横腹(よこばら)(つな)()けて()んだのである。しまつた、()りものだ、と(ひや)りとすると、ざつ、ざぶり、ばしやツ。(よわ)つた。が、落着(おちつ)いた。緑蝶夫人(ろくてふふじん)()(ぶり)(おも)へ。――「これは、しやぼん、鰹節(かつをぶし)以上(いじやう)ですな。――道中(だうちう)(そん)ずる(こと)承合(うけあひ)ですぜ。」「(かばん)(よご)れたのが伊達(だて)なんですとさ。――だから(あたら)しいのを。()うぞ精々(せい/″\)(いた)めて()(くだ)さいな。」()う一つ落着(おちつ)いたのは、……(なつ)(あめ)だ。こゝらは()()つたあとらしい、と(おも)つたのである。

小笠原(をがさはら)さん、()つたんですね。」

「いや、昨日(きのふ)(あめ)ですわい。」

 御勝手(ごかつて)になさい、(にべ)のないこと(おびたゞ)しい。()やうでございませうとも、成程(なるほど)()れたのではない。(まど)をたよるほど(くら)さが()して()滅入(めい)(こと)(また)(おびたゞ)しい。(わたし)(いへ)(こひ)しくなつた。人間(にんげん)女房(にようぼう)(こひ)しく()るほど、勇気(ゆうき)(おとろ)へる(こと)はない。それにつけても、それ、その(かばん)がいたはしい。()つた、(また)ばしやり、ばしやん。

 (もつ)て、この(あたり)(すで)樹木(じゆもく)(しげ)れる(こと)(おも)ふべし。焼山(やけやま)()(ちか)い。

 (ちか)い。が焼山(やけやま)である。唐黍(たうもろこし)()げてゐやう。茄子(なすび)()(あか)からう。女気(をんなげ)(とほ)ざかる(こと)(かばん)(のぞ)いて十()(あま)つた。焼山(やけやま)について(やす)んだ(ところ)で、渋茶(しぶちや)()むのはさだめし(しわ)くたの……()ういへば、()(みち)(さか)一つ、(ながれ)(ちか)く、(がけ)ぶちの捨石(すていし)に、竹杖(たけづゑ)を、ひよろ/\と、猫背(ねこぜ)()いて、(よはひ)、八十にも(あま)んなむ、卒塔婆小町(そとばこまち)(しやう)()(ばあ)さんが、ぼやり、うつむいて(やす)んでゐた。そのほかに(ほとん)人影(ひとかげ)()なかつたといつても()い。――あんなのが「()ましやい。」であらうと観念(くわんねん)したのであつたから。

今日(こんにち)は――女房(おかみ)さん。」

 珊瑚(さんご)(えだ)()つてゐた、()焚火(たきび)から、(いそ)いで()つて出迎(でむか)へた、もの(やはら)かな中形(ちゆうがた)浴衣(ゆかた)の、(かみ)()いのを()(とき)は、(あわ)てたやうに(こゑ)()けた。

 焼山(やけやま)の一(けん)茶屋(ちやや)旅籠(はたご)に、雑貨荒物屋(ざつくわあらものや)()ねた――土間(どま)に、(この女房(かみ)さんなら(ちや)(あつ)い)――一(わん)(きつ)し、博士(はかせ)たちと一(いき)して、まはりの(くさ)広場(ひろば)を、ぢつと()ると、雨空(あまぞら)(ひく)()れつゝ、(くも)黒髪(くろかみ)(ごと)()(さば)けて、(むね)(まと)ひ、(のき)(みだ)るゝとゝもに、(むか)うの山裾(やますそ)に、ひとつ、ぽつんと()える、柴小屋(しばごや)茅屋根(かややね)に、(うす)雨脚(あめあし)()かつて、下草(したぐさ)(すそ)をぼかしつゝ歩行(ある)くやうに、次第(しだい)此方(こちら)へ、百条(もゝすぢ)となり、千(すぢ)()つて、やがて軒前(のきまへ)(しろ)(すだれ)(おろ)ろした。

 この(しづく)に、横頬(よこほゝ)()たれて、腕組(うでぐみ)をして、ぬい、と()つたのは、草鞋(わらぢ)()つた(みせ)端近(はぢか)(しやが)んだ山漢(やまをとこ)魚売(うをうり)で。三(まい)(ざる)魚鱗(うろこ)(ひか)つた。(うろこ)(ひか)つても、(それ)大蛇(だいじや)でも、()(しづ)かな(あめ)では()雷光(いなびかり)憂慮(きづかひ)はない。見参(けんざん)見参(けんざん)などゝ元気(げんき)づいて、説明(せつめい)()つまでもない、()山深(やまふか)岩魚(いはな)のほかは、(かね)()いた姫鱒(ひめます)にておはすらむ、カバチエツポでがんせうの、と横歩行(よこある)きして()()(いきほ)ひ。(ついで)にバスケツトを(さぐ)つて、緑蝶夫人(ろくてふふじん)はなむけする(ところ)のカクテルの(くち)()いた。

(すご)(ばあ)さんに()ひましたよ。」

大雨(おほあめ)大雨(おほあめ)。」

と、画工(ゑかき)さん、三(うら)さんがばた/\と()た、その自動車(じどうしや)が、柴小屋(しばごや)(ちい)さく背景(はいけい)にして真直(まつすぐ)()くと、吹降(ふきぶり)(いと)つた(わたし)たちの自動車(じどうしや)も、じり/\と把手(ハンドル)(たて)()つた。(なら)んだ二(だい)に、(あたま)からざつと(あび)せて、(のき)(あめ)(しの)つくのが、(たてがみ)(たゝ)いて、轡頭(くつわづら)(たか)()げた、二(とう)(うま)鼻柱(はなばしら)(そゝ)風情(ふぜい)だつたのも、(たに)(ふか)い。

 が、驟雨(しうう)(すさま)じさは(すこ)しもない。すぐ、(まは)(ゑん)座敷(ざしき)に、畳屋(たゝみや)(はい)つてゐたのも、(なん)となく(こゝろ)ゆく(みやこ)時雨(しぐれ)()て、(をり)から(ゑん)(はし)にトントンと(たゝ)いた茣蓙(ござ)から、(かすか)()つた(ほこり)(あを)い。

 はじめよりして、ものゝ可懐(なつか)しかつたのは、底暗(そこくら)納戸(なんど)()に、大鍋(おほなべ)(おも)ふのに、ちら/\と(から)んで()焚火(たきび)であつた、この()は、(くるま)(うへ)から、彼処(かしこ)茶屋(ちやや)()(とき)から、(まよ)つた深山路(みやまぢ)孤屋(ひとつや)(ともしび)のやうに(うれ)しかつた。女房(にようばう)姿(すがた)(やさ)しかつた。

 壁天井(かべてんじやう)(すゝ)のたゞ(くろ)(なか)に、()(かへ)つて(あざや)かである。この(むね)にかゝる(つた)はいち(はや)くもみぢしよう。この背戸(せど)烏瓜(からすうり)(さき)んじて(いろ)()めよう。東京(とうきやう)(はるか)に、(いへ)(とほ)い。……(たび)単衣(ひとへ)のそゞろ(さむ)に、(はだ)にほの(あたゝ)かさを(おぼ)えたのは一(ぱい)のカクテルばかりでない。焚火(たきび)(ひと)(なさけ)である。

 ひら/\と()がり、ひら/\と()して、()(なび)く。焚火(たきび)(たすき)桃色(もゝいろ)である。かくて焼山(やけやま)(あめ)(たに)(うつく)しい。

 ひそかに()づけて、こゝを村雨茶屋(むらさめちやや)といはうと(おも)つた。小降(こぶ)りになつた。(しろ)(くも)(えだ)()く。

(なに)()てゐなさるんですか、女房(おかみ)さん。」

 出立(いでた)(とき)(わたし)は、納戸(なんど)のその(なべ)をさしてきいた。

「はい?」

(なべ)(なに)()なさいますか。」

小豆(あづき)でございます。」

()ふと、女房(おかみ)容子(ようす)よく、ぽつと(いろ)()めた。

 (わたし)はその理由(わけ)()らない。けれども、それよりして奥入瀬川(おいらせがは)深林(しんりん)穿(うが)つて(とほ)る、激流(げきりう)飛瀑(ひばく)碧潭(へきたん)の、(いた)(ところ)に、松明(たいまつ)(ごと)く、(ともしび)(ごと)く、(ほそ)くなり(ちひ)さくなり、また(ひらめ)きなどして、――()(くち)湖畔(こはん)までともなつたのは、この焚火(たきび)と、――一(くき)釣舟草(つりぶねさう)(はな)のあつたことを(わす)れない。

「しばらく、一寸(ちよいと)。」

 焼山(やけやま)を一(ちやう)ばかり、奥入瀬口(おいらせぐち)(すゝ)んだ(ところ)で、博士(はかせ)自動車(じどうしや)()めていつた。

「あの(はな)()つてゐなさいますか――一寸(ちよいと)、お()()けませう。」

 自動車(じどうしや)引戻(ひきもど)し、ひらりと()りるのに、(わたし)(つゞ)くと、(あめ)にぬれた(くさ)(むら)に、(やさ)しい浅黄(あさぎ)()()けて、ゆら/\と()いたのは、手弱女(たをやめ)小指(こゆび)さきほどの折鶴(をりづる)()せよう、おなじく()つた(ちひ)さな薄黄色(うすきいろ)(ふね)(かたち)(つらな)()いた(はな)である。「一(えだ)」と()()ると、小笠原氏(をがさはらし)(かほ)()して、(こと)もなげに(うなづ)くのを()て、()()(とき)()(おと)(さつ)(ひゞ)いた。

 やがて(かは)る/″\()(かざ)した。

 釣舟草(つりぶねさう)()いて()く。

 (たちま)()る、(くるま)()(ぎん)に、(わだち)緑晶(ろくしやう)()いて、(みづ)()つた。奥入瀬川(おいらせがは)()()つたのである。

 これよりして、()(くち)までの三里余(りよ)は、たゞ天地(てんち)(あや)(つらぬ)いた、()(いは)(いし)(ながれ)洞窟(どうくつ)()つて()い。(くも)()れても、(あめ)不断(ふだん)()るであらう。(なら)(かつら)山毛欅(ぶな)(かし)(つき)大木(たいぼく)大樹(たいじゆ)()(よはひ)幾干(いくばく)なるを()れないのが、蘚苔(せんたい)蘿蔦(らてう)を、烏金(しやくどう)に、青銅(せいどう)に、錬鉄(れんてつ)に、(きざ)んで()け、()(まと)うて、左右(さいう)も、前後(ぜんご)も、(もり)(やま)(つゝ)み、(やま)(いは)(たゝ)み、(いは)渓流(けいりう)穿(うが)(きた)る。……

 (いろ)五百機(いほはた)碧緑(あをみどり)()つて、濡色(ぬれいろ)(つや)透通(すきとほ)薄日(うすひ)(かげ)は――(うち)(なに)()ますべき――(おほい)なる(らうかん)(はしら)(うつ)し、(いだ)くべく(めぐ)るべき翡翠(ひすゐ)(とばり)(かべ)(ゑが)く。

 この壁柱(かべはしら)星座(せいざ)(そび)え、白雲(はくうん)(また)がり、藍水(らんすゐ)(ひた)つて、(つゆ)(しづく)(ちりば)め、下草(したくさ)(むぐら)おのづから、(はな)(きん)(とり)(むし)浮彫(うきぼり)したる(せん)()く。

 (せん)(うへ)を、渓流(けいりう)(そゝ)ぎ、自動車(じどうしや)(さかのぼ)る。

 (みづうみ)殿堂(でんだう)(こゝろざ)す、曲折(きよくせつ)(かぞ)ふるに(いとま)なき、この(なが)廊下(らうか)は、五(ちやう)(みぎ)()れ、十(ちやう)(ひだり)(まが)り、二つに(わか)れ、三つに()けて、次第々々(しだい/\)奥深(おくふか)く、(はや)きは()となり、(しづか)なるは(ふち)となり、(はし)るは(はやせ)となり、()けるは(うづ)となつて、(よろこ)ばせ、(たのし)ませ、(おどろ)かせ、(あやぶ)がらせ、ヒヤリとさせる。()(まへ)に、幾処(いくところ)か、(すさま)じき(とびら)(おも)ふ、大磐石(だいばんじやく)階壇(かいだん)は、(たき)(だん)(かず)(おと)しかけ、()つる(たき)は、自動車(じどうしや)(そら)()る。

 (じゆ)なく、(てがた)なきに、この秘閣(ひかく)廊下(らうか)()(ところ)(とびら)おのづから(ひら)け、(はしら)(きた)(むか)ふる(かん)がある。

 ――(おも)ふに(ひと)焼山(やけやま)をすぎて、(その)(だい)一の(とびら)(ひら)くとともに、(こゝろ)(をのゝ)くであらう。(くるま)(わだち)()つて()くものは、()でなく、(くさ)でなく、(いし)でなく、(もり)(かべ)()つて、(いはほ)(はしら)(くだ)くる(なみ)である。()()自動車(じどうしや)は、()にも、(ふち)にも、(たき)にも、(ほとん)(みづ)とすれ/\に、いや、(むし)(ながれ)真中(まんなか)を、()のまゝに(なみ)()つて(ふね)(ごと)くに(さかのぼ)るのであるから。

 (いはほ)(くろ)(とき)松明(まつ)(まぼろし)(てら)し、()(しろ)(とき)釣舟草(つりぶねさう)(まど)()れた。

 全体(ぜんたい)箱根(はこね)でも、塩原(しほばら)でも、(あるひ)木曾(きそ)桟橋(かけはし)でも、実際(じつさい)にしろ、()にせよ、瑠璃(るり)(そゝ)ぎ、水銀(すゐぎん)(なが)渓流(けいりう)を、駕籠(かご)(くるま)()()くのは、樵路(せうろ)桟道(さんだう)(たか)(ところ)で、景色(けしき)(ひく)(した)(のぞ)むものと(おも)つて()たのに、繰返(くりかへ)していふが、()密林(みつりん)(あひだ)は、さながら(ながれ)(うか)んで()ぶのである。

 もとより幾処(いくところ)にも(はし)がある。(みな)大木(たいぼく)()(かゝ)り、巨巌(きよがん)(はだへ)穿(うが)つ。()苔蒸(こけむす)欄干(らんかん)()がくれに、(けた)蔦蔓(つたづる)()めたのが、前途(ゆくて)()(さへぎ)るのに、(はし)彼方(かなた)には、大磐石(だいばんじやく)()かれて、急流(きうりう)奔湍(ほんたん)と、(ひだり)より(さつ)()ち、(みぎ)より《だう》と(くゞ)り、真中(まんなか)狂立(くるひた)つて、(いはほ)牡丹(ぼたん)(いたゞき)(をど)ること、(あゐ)(しろ)紺青(こんじやう)と三(とう)獅子(しし)()るゝが(ごと)きを()るとせよ。角度(かくど)(きう)(まが)つて、(はし)()(とき)(おも)はれよ。

 釣舟草(つりぶねさう)()いて()く。

 (なか)に一(ところ)湖神(こしん)(もう)けの休憩所(きうけいしよ)――応接間(おうせつま)とも(おも)ふのを()た。村雨(むらさめ)(また)(しきり)はら/\と、(つゆ)しげき下草(したぐさ)()けつゝ辿(たど)ると、()()むやうな湿潤(しつじゆん)(みぎは)がある。(もり)(なか)平地(ひらち)(くぼ)んで、()(ところ)川幅(かははゞ)も、(およ)そ百畳敷(ぜふじ)きばかり、(かは)(なが)青黒(あをぐろ)い。(なみ)(なみ)(なみ)は、一(めん)陰鬱(いんうつ)に、三(かく)()つて、(おな)じやうに(うご)いて、(うろこ)のざわ/\と()(さま)に、(ゐもり)(むらが)(さま)に、寂然(せきぜん)(はて)しなく(なが)(なが)るゝ。

 (さび)しく物凄(ものすご)さに、はじめて湖神(こしん)片影(へんえい)(せつ)した(おもひ)がした。

 三(ぱう)は、大巌(おほいは)(おびたゞ)しく(かさな)つて、陰惨冥々(いんさんめい/\)たる樹立(こだち)(しげみ)は、()露呈(あらは)に、(いし)天井(てんじやう)(うね)(よそほ)ふ――こゝの椅子(いす)は、横倒(よこたふ)れの朽木(くちき)であつた。

 (うろこ)(なみ)は、ひた/\と装上(もりあが)つて(たか)()つ。――所謂(いはゆる)(いし)げど」の(しよう)である。

 (うま)胴中(どうなか)ほどの(いし)の、大樫(おほかし)古槻(ふるつき)(あひだ)(はさま)つて、(そら)(かゝ)つて、(した)空洞(うつろ)に、黒鱗(こくりん)(ふち)(むか)つて、五七(にん)()るべきは、応接間(おうせつま)飾棚(かざりだな)である。(いし)げどはこの(いは)()なのである。が、()()むべき岩窟(がんくつ)を、(かつ)女賊(ぢよぞく)(かく)()であつたと()ふのは(をし)い。……

 隣郷(りんがう)津軽(つがる)唐糸(からいと)(まへ)()ぢずや。女賊(ぢよぞく)はまだいゝ。鬼神(きじん)のお(まつ)といふに(いた)つては、(あま)りに(いや)しい。これを(おも)ふと、田沢湖(たざはこ)街道(かいだう)姫塚(ひめつか)の、瀧夜叉姫(たきやしやひめ)(うらやま)しい。が、(なん)だか、もの()しさうに、(かは)をラインとか()ぶのから()れば、この(はう)(はるか)にをかしい。

 (くも)(くろ)くなつた。(ふち)愈々(いよ/\)(くら)い。陰森(いんしん)として(しづ)むあたりに、(おと)もせぬ(みづ)(たゞ)(うろこ)(うご)く。

 (とき)に、廊下口(らうかぐち)から、(とびら)透間(すきま)から、差覗(さしのぞ)いて、(わら)ふが(ごと)く、(しか)むが(ごと)く、ニタリ、ニガリと()つて、彼方此方(あちこち)に、ぬれ/\と(あを)いのは紫陽花(あぢさゐ)(かほ)である。(かほ)でない燐火(おにび)である。いや燈籠(とうろう)である。

 しかし、十和田(わだ)(たい)は、すべて男性的(だんせいてき)である。脂粉(しふん)()(すくな)(ところ)だから、()(あを)燈籠(とうろう)(たづさ)ふるのは、腰元(こしもと)でない、(をんな)でない。

 木魅(こだま)山魅(すだま)(かげ)()つて、こゝのみならず、(もり)廊下(らうか)(くら)(ところ)としいへば、(ひと)(みちび)くが(ごと)く、あとに、さきに、朦朧(もうろう)として、(あら)はれて、(がく)角切籠(かくきりこ)紫陽花(あぢさゐ)円燈籠(まるとうろう)(かすか)(あを)(つら)ねるのであつた。

 釣舟草(つりぶねさう)()いて()く。

 焚火(たきび)(まぼろし)(とも)れて(つゞ)く。

 (くるま)左右(さいう)()(とゞ)く、数々(かず/\)(たき)(おもて)も、裏見(うらみ)姿(すがた)も、燈籠(とうろう)(ともし)()て、釣舟草(つりぶねさう)()いて()く。

 (たき)のその(ある)ものは、(くも)にすぼめた瑪瑙(めなう)大蛇目(おほじやのめ)(からかさ)に、激流(げきりう)(しぼ)つて()ちた。また(ある)ものは、玉川(たまがは)(ぬの)(つな)いで、中空(なかぞら)(ほそ)()かつた。その(ある)ものは、黒檀(こくたん)()()(やぐら)に、(ほし)(あわ)(みなぎ)らせた。

 やがて、(かは)(はゞ)(ぱい)に、森々(しん/\)淙々(そう/\)として、(かへ)つて、また(おと)もなく()つる銚子口(てうしぐち)大瀧(おほたき)(うへ)(わた)つた(とき)は、(くも)もまた()れて、紫陽花(あぢさゐ)(かげ)(そら)に、釣舟草(つりぶねさう)に、ゆら/\と乗心地(のりこゝち)(ゆめ)かと(おも)ふ。……(はし)(すべ)つて、はツと()ると、こゝに晃々(くわう/\)として(なめ)らかなる(たま)姿見(すがたみ)()()めた。

 (みづうみ)の一(たん)は、(ふね)松蔭(まつかげ)(ゑが)いて、大弦月(だいげんげつ)(ごと)(かゞや)いた。

 (みづ)(ひかり)白砂(はくしや)にたよつて、()(くち)(ゆふ)べの宿(やど)()いたのである。

御馳走(ごちそう)は?」

洋燈(ランプ)。」

といつて、(わたし)はきよとりとした。――これは帰京(ききやう)早々(そう/\)(たづ)ねに(あづ)かつた緑蝶夫人(ろくてふふじん)(とひ)(こた)へたのであるが――(じつ)()(くち)宿(やど)洋燈(ランプ)だつたので、近頃(ちかごろ)余程(よほど)(めづら)しかつた。それが記憶(きおく)()みてゐて、うつかり(くち)()たのである。

 洋燈(ランプ)(めづら)しいが、座敷(ざしき)もまだ塗立(ぬりた)ての生壁(なまかべ)で、()()(たか)し、高縁(たかゑん)(まへ)は、すぐに(かし)(つき)大木(たいぼく)大樹(たいじゆ)鬱然(うつぜん)として、()()(めぐ)つて、山清水(やましみづ)潺々(せん/\)(おと)(しづか)(なが)れる。……奥入瀬(おいらせ)深林(しんりん)を一(ところ)岩窟(いはむろ)(はい)(おも)ひがした。

 さて御馳走(ごちそう)だが、その(ばん)は、(ます)のフライ、若生蕈(わかおひたけ)(とな)ふる、焼麩(やきふ)()たのを、てんこ(もり)(わん)

「ホツキ(がひ)でなくつてよかつたわね。」

精進(しやうじん)のホツキ(がひ)ですよ。それにジヤガ(いも)()たの。……しかしお(この)別誂(べつあつらへ)(もつ)て、(とり)のブツ(ぎり)と、玉葱(たまねぎ)と、凍豆腐(こゞりどうふ)大皿(おほざら)()んだのを鉄鍋(てつなべ)でね、()沸立(わきた)たせて、砂糖(さたう)醤油(しやうゆ)をかき()ぜて、(わたし)一寸(ちよつと)塩梅(あんばい)をして」

「おや、気味(きみ)(わる)い。」

(よし)、と打込(うちこ)んで、ぐら/\と()える(ところ)を、めい/\(もり)に、フツフと()いて、」

山賊々々(さんぞく/\)。」

(ひや)かしたが、元来(ぐわんらい)衣裳鞄(いしやうかばん)催促(さいそく)ではない、ホツキ(がひ)見舞(みまひ)()たのだから、()其次第(そのしだい)申述(まをしの)べる(ところ)へ……(また)近処(きんじよ)から、おなじく、氷砂糖(こほりざたう)梅干(うめぼし)注意連(ちういれん)女性(によしやう)(きた)(くは)はつた。次手(ついで)だから、(つぎ)(とまり)休屋(やすみや)膳立(ぜんだ)てを紹介(せうかい)した。(ます)(しほ)やき小蝦(こゑび)のフライ、玉子焼(たまごやき)(ます)芙萸(ずいき)(くづ)かけの(わん)。――(ひる)(ばん)(じゆん)(わす)れたが、(ます)(ねぎ)玉子綴(たまごとぢ)(とり)のスチウ、(ます)すりみ椎茸(しひたけ)茗荷(めうが)(わん)

(ます)(ます)(ます)。」

「ます/\()ます。」と(みな)(わら)ふ。(なに)御馳走(ごちそう)()べに()(ところ)ではない。景色(けしき)だ、とこれから、前記(ぜんき)奥入瀬(おいらせ)奇勝(きしよう)()くこと一(ばん)して、()()(くち)(あさ)ぼらけ、(みぎは)(まつ)はほんのりと、(しま)(みどり)に、(なみ)(あを)い。縁前(ゑんまへ)のついその(もり)に、朽木(くちき)(ついば)啄木鳥(けらつゝき)の、(あを)げら、(あか)げらを二()()ながら、(さむ)いから浴衣(ゆかた)襲着(かさねぎ)で、朝酒(あさざけ)を。――当時(たうじ)炎威(えんゐ)猛勢(もうせい)にして、九十三度半(どはん)といふ、真中(まなか)(だん)じたが、

「だからフランネルが(はい)つてるぢやありませんか、不精(ぶしやう)だね。」

女房(かゝあ)めが、風流(ふうりう)(かい)しないこと(おびたゞ)しい。(そば)から、

「その(ため)(かばん)ぢやあないの。」

 で、一(かう)(すゞ)しさなんぞ()せつけない。……たゞ桟橋(さんばし)から、水際(みづぎは)から、すぐ()(すく)へる小瑕(こゑび)(こと)。……はじめ、(はね)(うす)薄萠黄(うすもえぎ)(せみ)が一(ぴき)(なみ)(うへ)()いて、(うご)いてゐた。峨峰(がほう)嶮山(けんざん)(かこ)まれた大湖(たいこ)だから、時々(とき/″\)(さつ)(きり)(おそ)ふと、この()んでるのが、方角(はうがく)(まよ)ふうちに(はね)(よわ)つて、(みづ)()ちる(こと)()いてゐた。――()げてやらうと、(ステツキ)で、……かう()くと、(せみ)(はら)に五つばかり、(ちひ)さな海月(くらげ)(あし)(やう)なのが、ふら/\とついて(およ)いで()る、()つてゐやがる――(ゑび)である。引寄(ひきよ)せても()げないから、(そつ)()()れると、尻尾(しつぽ)一寸(ちよつと)ひねつて、二つも三つも(ゆび)のさきをチヨ、チヨツと(つゝ)く。此奴(こいつ)と、ぐつと()()れると、スイと(てのひら)(はい)つて()る。(いは)()せて、ひよいと(みづ)から()らうとすると、アゝ(くすぐ)つたい、()なりに一つピンと()ねて、ピヨイとにげて、スイと(およ)いで、()ましてゐる。小雨(こさめ)のかゝるやうに、水筋(みづすぢ)()つほど、(いく)らでも、といふ……(なかば)から、緑蝶夫人(ろくてふふじん)()()めて、(ひとみ)()せ、もう一人(ひとり)(てのひら)をひら/\(うご)かし、じり/\と卓子台(ちやぶだい)詰寄(つめよ)ると、(だい)(ばん)食意地(くひいぢ)()つてる家内(かない)が、もう、(たすき)()けたさうに、

()べられるの。」

「そいつが天麩羅(てんぷら)のあげたてだ。ほか/\だ。」

 緑蝶夫人(ろくてふふじん)が、

「あら、いゝ(こと)ねえ、()きたくなつた。」

(わたし)……(いま)からでも。」

 ()(がた)い! (よわ)つた。教養(けうやう)あり、識見(しきけん)ある、モダンとかゞ(うらやま)しい。

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