5話 五
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水源を、岩井の大沼に発すと言ふ、浦川に架けた橋を渡つた頃である。
松島から帰途に、停車場までの間を、旅館から雇つた車夫は、昨日、日暮方に其の旅館まで、同じ停車場から送つた男と知れて、園は心易く車上で話した。
「さあ、何と言はうかな。……景色は何うだ、と聞かれて悪いと言ふものもなからうし……唯よかつたよ、とだけぢや、君たちの方も納るまいけれども、何しろ、私には、松島は見ても松島を論ずる資格はないのだよ。昨日も君に世話に成つたと言ふから、知つてるだらうが、薄暮合、あの時間に旅館へ着いたのだから、あとは最う湯に入つて寝るばかりさ。」
園は昨日の其までは、聊か達す用があつて仙台に居たのであつた。
「夜があけたわ、顔を洗つたわ、旅館の縁側から、築山に松の生へたのが幾つも霞の中に浮いて居る、大な池を視めて、いゝなあと言つたつて、それまでだ。――海岸へ出たからつて、波が一つ寄るぢやなし、桜貝一つあるんぢやあない。
しかし、無理だよ。……予て聞いても居るし、むかしの書物にも書いてある。――松島を観るのは船に限る。八百八島と言ふ島の間を、自由に青畳の上のやうに漕ぐんだと言ふから、島一つ一つ趣のかはるのも、どんなにいゝか知れやしない。魚もすら/\泳ぐだらうし、松には藤も咲いてるさうだし、つゝじ、山吹、とり/″\だと言ふ、其の間を、船の影に驚いて、パツと群れて水鳥が立つたり、鴎が泳いで居たり……」
「然うで、然うで、其の通りで……旦那。」
と、車夫は楫棒に張つた肩を聳やかした。
「船でなけりや、富山と言ふのへ上るだね。はい、其処だと、松島が残らず一目に見えますだ。」
「ださうだね。何しろ、船で巡るか、富山へ上らないぢやあ、松島の景色は論ずべからずと、ちやんと戒められて居るんだよ。」
「何うでがすね、此から、富山へおのぼりに成つては、はい、一里たらずだ、一息だで。」
「いや、それよりも、早く帰つて、墓参がしたくなつた。」
「へい。」
と言つたが、乗つた客も、挽く男も、妙に黙つた。
園は我ながら、余りつきもない言をうつかり言つたのに、はつと気が着いたほどである。
車夫は唐突に、目かくしでもされたやうに思つたらう。
陽が白く、雲が白く、空も白い。のんどりとして静寂な田畠には、土の湧出て、装上るやうな蛙の声。かた/\かた/\ころツ、ころツ、くわら/\くわら、くつ/\くつ。中でも大きさうなのが、土の気の蒸れる処に、高く構へた腹を、恁う人の目に浮かせて、があ/\があ/\と太く鳴く。……
俥は踏切を、其の蛙の声の上を越した。一昨日の夜を通した雨のなごりも、薄い皮一枚張つたやうに道が乾いた。
一方が小高い土手に成ると、いまゝで吹いて居た風が留むだ。靄も霞もないのに、田畑は一面にぼうとして、日中も春の夜の朧である。薄日は弱く雲を越さず、畔に咲いた黄蒲公英、咲交る豆の花の、緋、紫にも、ぽつりとも黒い影が見えぬ。朱の木瓜はちら/\と灯をともし、樹の根を包むだ石楠花は、入日の淡い色を染めつゝ、然も日は正に午なのである。道にさし出た、松の梢には、紫の藤かゝつて、どんよりした遠山のみどりを分けた遅桜は、薄墨色に濃く咲いて、然も散敷いた花弁は、散かさなつて根をこんもりと包むで、薄紅い。
其の傍に、二ツ三ツ境のない墓が見える。
見つゝ、俥は、段々の田を隔てゝ、土手添ひの径を遥に行くのである。
雲も、空も、皆白い。
其処へ、影のさすやうなのは、一つ一つ、百千と数へ切れない蛙の声である。
鳴く、鳴く。……
松杉、田芹、すつと伸びた酸模草の穂の、そよとも動かないのに、溝川を蔽ふ、たんぽゝの花、豆のつるの、忽ち一所に、さら/\と動くのは、鮒、鰌には揺過ぎる、――昼の水鶏が通るのであらう。
夢を見て居るやうである。
趣は違ふけれども、園は、名所にも、古跡にも、あんな景色はまたあるまいと思ふ処を、前刻も一度通つて来た。
――水源を岩井沼に発すと言ふ、浦川の流の末が、広く成つて海へ灌ぐ処に近かつた。旅館を出てまだいく程もない処に――路の傍に、切立てた、削つた、大な巌の、矗々と立つのを視た。或は、仏の御龕の如く、或は人の髑髏に似て、或は禅定の穴にも似つゝ、或は山寨の石門に似た、其の岩の根には、一ツづゝ皆水を湛へて、中には蒼く凝つて淵かと思はるゝのもあつた。岩角、松、松には藤が咲き、巌膚には、つゝじ、山吹を鏤めて、御仏の紫摩黄金、鬼の舌、また僧の袈裟、また将軍の緋縅の如く、ちら/\と水に映つた。
「此処も海ではなかつたか――いまの松島の。……此の巌は、一つ一つ、あの島のやうに――」
一方は、ひしや/\とした、何処までも蘆原で、きよつ/\、きよつ/\、と蘆一むらづゝ、順に、ばら/\と、又飛々に、行々子が鳴きしきつた。
それから、しばらくは、まばらにも蘆のある処には、皆行々子が鳴いて居た――
こゝに、蛙の鳴くやうに……
まだ、其の頃は、海ある方に雲の切れた、薄青い空があつた。それさへいまは夢のやうである。
園は、行々子の鳴く音におくられつゝ、蛙の声に迎へられたやうな気がした。
……水鶏が走るか、さら/\と、ソレまた小溝が動く。……動きながら其の静寂さ。
唯、遠くに、行々子が鳴きしきつて、こゝに蛙がすだく――其の間を、わあーとつないで、屋根も門も見えないで、あの、遅桜の山のうらあたり、学校の生徒の、一斉に読本の音読を合はす声。
園は心も気も《ぼう》と成つた。
ピイ、キリ/\と雲雀が鳴くと、ぐらりと激しく俥が揺れた。
「あゝ、車夫。」
酷い道だ。
「降りやう、――降りやう。」
「何、旦那、大丈夫で、昨日も此処を通つたゞね、馴れてるだよ。」
「いや、昨日も、はら/\したつけが、まだ濡れて居たから、輪をくつて、お前さんが挽きにくいまでも、まだ可かつた。泥濘が薬研のやうに乾いたんぢやあ、大変だ。転んだ処で怪我もしまいが、……此の咲いてる花に極が悪い。」
道のゆく手には、藁屋が小さく、ゆる/\畝る路に顕はれた背戸に、牡丹を植ゑたのが、あの時の、子爵夫人のやうに遥に覗いて見えた。
「はゝゝ、旦那、御風流だ。」
それから、歩行きながら、
「東京から来らつしやる方は、誰方も花がお好きだアなあ。」
「いろんな可愛いのが、路傍に咲いて居るんだ。誰だつて悪くはあるまい。」
「此人方等は、実の成る奴か、食へるんでなくつては、黄色いのも、青いのも、小こいものを、何にすべいよ。」
と笑つた。が、ふと、汗ばんだ赤ら顔の、元気らしい、若いのが、唇をしめて……真顔に成つて、
「然うだ、然うだ、思ひつけた。旦那、あなた様、とこなつと言ふ草は知つてるだかね。」
「常夏。」
「それよ。」
「撫子の事ぢやあないか。」
「それよ――矢張り……然うだ――忘れもしねえ。……矢張り同じやうな事を言はしつけが、私等にや其の撫子が早や分んねえだ。――何ね、今から、二三年、然うだねえ、彼れこれ四年には成るづらか。東京から来なさつたな、そりや、何うも容子たら、容色たら、そりや何うも美い若い奥様がな。」
「一人かい。」
「へゝい、お二人づれで。――旦那様は、洋服で、それ、絵を描く方が、こゝへぶら下げておいでなさる、あの器械を持つて居らしつけえ。――忘れもしねえだ、若奥様は、綺麗な縫の肩掛を手に持つてよ。紫がゝつた黒い処へ、一面に、はい、桜の花びらのちら/\かゝつた、コートをめしてな。」
園はゾツとした。
「丁ど今頃だで――それ/\、それよ矢張り此の道だ。……私と忠蔵がお供でやしたが、若奥様がね、瑞巌寺の欄間に舞つてる、迦陵頻伽と云ふ声でや、
――あの夏になると、此の辺に常夏が沢山咲きませうね――
へい、其の常夏を知らねえだ。
――まあ、撫子の事なんだよ――
其のさ、撫子を知らねえだ。私は汗を流したでなあ。……
折があつたら、誰方ぞ、聞かう聞かう思つて、因果と因縁で三年経つたゞ。旦那、花がお好きだで、な、どんな草葉だかこゝ等にあつたら、一寸つまんで教へてくらせえ。」
「淡紅色の、優い花だが、此の辺には屹とあるね。あるに違ひない。葉だけでも私にも分るだらう。」
と、のつかゝつた勢で、溝を越さうとして、
「お待ち。」
園は、つと俥に寄つた。
バスケツトを開けて、其の花が、色のまゝ染まつた、衣絵さんの友染を、と思つた……其時である。車夫が、
「あつ。」
と口を開けて、にやりとして、
「へ、へ、転ぶと、そこらの花に恥かしい。……うつ、へ、へ。御尢もだで。旦那は目が早いだやあ。」
「何だ。」
「へ、へ、私あまた。真個の草葉の花かと思つたゞ、」
「何だよ……」
「なんだよつて、へ、へ、へ。そこな、酸模、蚊帳釣草の彼方に、きれいな花が、へ、へ、花が、うつむいて、草を摘んで居なさるだ。」
「え。」
「や――旦那、――旦那でがせう。其方を見ながら。招かつしやるは。」
「これ。」
「や、私で、――へい、私で。」
と、きよろりとしながら、
「へい、へい。」
俥を横に、つか/\と、田の畔へ、挽いて乗掛けると、白い陽に、影もなく、ぽんと立つて、ぺこ/\と叩頭をした。
「へい、其が、へい、成程、其が、常夏で、へい。」
とまた叩頭をした。が、ゑみわれるやうに、得もいはれぬ、成仏しさうな笑顔を向けて、
「旦那、旦那、旦那……」
「何。」
「あなた様にも、御覧なせえと……若奥様が。」
園は、魂も心も宙を踏んで衝と寄つた。
空に一輪、蕾を添へて、咲いたやうに、其の常夏の花を手にした、細りと白い手と、桜ぢらしの紫紺のコート。
「衣絵さん……」
品のいゝ、藤紫の鹿子切の、円髷つやゝかな顔を見た時。
「ぎやツ。」
と喚くと、楫棒をたゝき投げて、車夫は雲雀と十文字に飛んで遁げた。
寂寞と成る。蛙の声の小やむだ間を、何と、園は、はづみでころがり出した服紗の銀の鍋に、霊と知りつゝ、其の霊の常夏の花をうけようとした。
然り、銀の鼎を捧げた時、園は聖僧の如く、身も心も清しかつた。
襟をあとへ、常夏を指で少し引いて、きやしやな撫肩をやゝ斜に成つたと思ふと、衣絵さんの顔は、睫を濃く、凝然と視ながら片手を頬に打招く。……撓ふ、白き指先から、月のやうな影が流れた。
寄らうとすると、其の手も映る、褄も映る、裳に真蒼な水がある。
また招くのを、ためらうと、薄雲のさすやうに、面に颯と気色ばんで、常夏をハツと銀の鍋に投げて寄越した。
其の花の影も映つた。が、いまは、水も火もと思つた。
「御免なされや。」
背中に、むつとして、いきれたやうな可厭な声。此は、と視ると、すれ違つて、通り状に振向いたのは、真夜中の雨に饂飩を食つた、髪の毛の一筋ならびの、唇の爛れたあの順礼である。
見る端に、前歯の抜けた、汚い口でニヤリとした。
車夫が、其の道を、小さく成つて、遁げる、遁げる。
はや、幻影は消えつゝ、園は目の前に、一坐、藤つゝじを鏤めた、大巌の根に、藍の如き水に臨むで、足は、めぐらした柵を越えたのを見出した。
杵(キネ。)が池と言ふ、人を取る水よ、と後に聞く。
衣絵さんに、其の称の似通ふそれより、尚ほ、なつかしく、涙ぐまるゝは、銀の鍋を見れば、いつも、常夏の影がさながら植ゑたやうに咲くのである。