2話 二
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夕飯をしまつた後で、上甲板から最上甲板へ上ると、どこかから男ぶりの好い少尉が一人やつて來て、僕たちを前部艦橋へつれて行つてくれた。軍艦の中で艦首から艦尾を一目に見渡す所と云ふと、先づここの外にない。僕たちは司令塔の外に立つて何時か航行を始め出した艦の前後に眼を落した。眼分量にして、凡そ十五六呎の高さにゐるのだから、甲板の上にゐる水兵や將校も、可成小さく見える。僕にはその小さな水兵の一人が、測鉛臺の上に立つて青い海に向ひながら、長い綱の先につけた分銅を、水の中へ投げこんでゐるのが殊に面白かつた。投げこんでゐると云ふだけでは、甚だ振はないが、實はまるで昔の武藝者が鎖鎌でも使ふやうな調子で、その分銅のついた長い綱をびゆうびゆう頭の上でふりしながら、艦の進むのに從つて出來る丈け遠くへ勢ひよく抛りこむのである。上から見てゐると、抛りこむ度にその細い綱が生きもののやうに海の上でうねくつた。その先につけてある分銅が、まだ殘つてゐる日脚に光つて、魚の跳ねるやうに白く見えた。僕はへえ危いねと思ひながら、暫の間は感心して、そればかり眺めてゐた。
それから司令塔の内部や海圖室を見て、又中甲板へひき返した。すると、狹い通路にはもうハムモツクを釣つて、眠つてゐる水兵が大勢ある。中にはその中で、うす暗い電燈の光をたよりに、本を讀んでゐるものも二三人あつた。僕たちは皆な背をかがめてそのハムモツクの下を這ふやうにして歩いた。その時僕は痛切に「軍艦の臭ひ」を嗅いだ。これはペンキの臭ひでもなければ、炊事場の流しの臭ひでもない。さうかと云つて又機械の油の臭ひでもなければ、人間の汗の臭ひでもない。恐らくそれらのすべてが混合した、――要するにまあ「軍艦の臭ひ」である。これは決して高等な臭ひではない。こんな事を考へながらふと頭をあげると、一人の水兵の讀んでゐる本の表紙が、突然僕の鼻の先へ出た。それには、「天地有情」と云ふ字が書いてある。――僕は一瞬の間、「軍艦の臭ひ」を忘れた。さうして妙に小説めいた心持になつた。
それでもハムモツクの下を通りぬけたあとで、バスにはいつたら、生れかはつたやうな氣になつた。バスは海水で沸かしてある。それが白い陶器の湯槽の中で、明礬のやうに青く見えた。Tの語を借りると、「躯が染まりさうな氣がする位青い。」僕は湯槽の中で手足をのばしながら、Tに京都の湯屋の講釋を聞いた。それからこつちでは淺草の蛇骨湯の話をしてやつた。――それ程僕たちのバスのはいり心は泰平なものだつたのである。
湯から上ると副長の巡見がすんでゐたから、浴衣に着かへて、又士官室へ行つた。軍艦では夕飯の外に、もう一つ晩飯がある。その晩はそれが索麪だつた。僕はそこで酒をすすめられた。元來下戸だから、酒の善惡は更にわからない。が、二三杯飮むとすぐ顏が熱くなつた。すると僕の隣へ來て、「二十年前の日本と今日の日本とは非常な相違です」と云ふ人がある。その人はシイメンのタイプに屬さない、甚だ感じの好い顏をしてゐた。さうしてその顏がまつ赤になつてゐた。何でも國防計畫か何かを論じてゐるらしい。