軍艦金剛航海記

4話

1,349字 約3分 2010年10月19日 公開

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 すると、機關長が僕たちの側へ來て、「これが炭庫です」と云つた。さうしてさう云ふかと思ふと、急にどこかへ見えなくなつてしまつた。よく見ると、側面の鐵の板に、人一人がやつと這ひこめる位な穴が明いてゐる。そこで僕たちは皆一人づつ、床を嘗めないばかりにして、その穴から中へもぐりこんだ。中は高い所に電燈が一つともつてゐるだけだから、殆ど夜のやうな暗さである。まづ坑山の竪坑の底に立つてゐるやうな心もちだと思へば間違ひない。僕はごろごろする石炭を踏んで、その高い所にある電燈を見上げた。ぼんやりした光の輪の中に、蟲のやうなものが紛々と黒く動いてゐる。雪の降る日に空を見ると、雪が灰をまくやうに黒く見える――あれのやうな具合である。僕はすぐに、それが宙に舞つてゐる石炭の粉だと云ふ事に氣がついた。此中で働いてゐる機關兵の事を考へると殆ど僕と同じ肉體を持つてゐる人間だとは思はれない。

 現にその時も二三人、その暗い炭庫の中で、石炭をシヨヴルで下してゐる機關兵の姿が見えた。彼等は皆默々として運命のやうに働いてゐる。外に海があつて、風が吹いて、日があたつてゐる事も知らない人間のやうに働いてゐる。僕は妙に不安になつた。さうして、誰よりも先きに、元の入口をボイラアの前へ這ひ出した。が、ここでもやはり、すさまじい勞働が、鐵と石炭との火氣の中に、未練未釋なく續けられてゐる。海の上の生活は、陸の上の生活に變りなく苦しい。

 エレヴエタアで艦の底から天上して中甲板の自分のケビンへ歸つて、カアキイ色の作業服を脱いだら、漸くもとの人間になつたやうな心もちがした。今日は朝から、ぐるぐる艦の中ばかり歩いてゐる。砲塔、水雷室、無線電信室、機械室、汽罐室――勘定するばかりでも、容易な事ではない。それがどこへ行つても、空氣が息苦しい位生暖かくつて、いろんな機械が猛烈に動いてゐて、鐵の床や手すりが油でぴかぴか光つてゐて、僕のやうな勞働に縁の遠いものは、五分とそこにゐると、神經にこたへてしまふ。が、その間に絶えず或る考へが僕の頭にこびりついてゐた。それは歐洲の戰爭が始まつて以來、僕位の年齡のものが大抵考へるやうになつた、或る理想的な考へである。今このケビンの寢臺の上にころがつて、くたびれた足をのばしながら、持つて來たオオベルマンの頁をはぐつてゐる間もやはりその考へは、僕をはなれない。

 これは其の後の事だが、夕飯をすませて、士官室の諸君と話してゐると、上甲板でわあと云ふ聲が聞こえた事がある。何だらうと思つて、ハツチを上つて見ると、第四砲塔のうしろに艦中の水兵が黒山のやうに集まつてゐた。さうしてそれが皆、大きな口をあいて、「勇敢なる水兵」の軍歌を唱つてゐた。ケエプスタンの上に、甲板士官がのつてゐるのは、音頭をとつてゐるのであらう。こつちから見ると、その士官と艦尾の軍艦旗とが、千人あまりの水兵の頭の上に、曇りながら夕燒けのした空を切りぬいて、墨を塗つたやうに黒く見えた。下では皆が、鹽辛い聲をあげて、「煙も見えず雲もなく」とうたつてゐる。僕はこの時も亦、その或る考へに襲はれた。勇ましかる可き軍歌の聲が、僕には寧ろ、凄壯な調子を帶びて聞えたからである。

 僕はオオベルマンを抛り出して眼を閉つた。艦は少し搖れ始めたらしい。

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