3話 (下)推理(2)
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「ミュンスターベルヒが賢くも説破した通り」と明智は始めた。「人間の観察や人間の記憶なんて、実にたよりないものですよ。この例にある様な学者達でさえ、服の色の見分がつかなかったのです。私が、あの晩の学生達は着物の色を見違えたと考えるのが無理でしょうか。彼等は何者かを見たかも知れません。併しその者は棒縞の着物なんか着ていなかった筈です。無論僕ではなかったのです。格子のすき間から、棒縞の浴衣を思付いた君の着眼は、却々面白いには面白いですが、あまりお誂向きすぎるじゃありませんか。少くとも、そんな偶然の符合を信ずるよりは、君は、僕の潔白を信じて呉れる訳には行かぬでしょうか。さて最後に、蕎麦屋の便所を借りた男のことですがね。この点は僕も君と同じ考だったのです。どうも、あの旭屋の外に犯人の通路はないと思ったのですよ。で僕もあすこへ行って調べて見ましたが、その結果は、残念ながら、君と正反対の結論に達したのです。実際は便所を借りた男なんてなかったのですよ」
読者も已に気づかれたであろうが、明智はこうして、証人の申立てを否定し、犯人の指紋を否定し、犯人の通路をさえ否定して、自分の無罪を証拠立てようとしているが、併しそれは同時に、犯罪そのものを否定することになりはしないか。私は彼が何を考えているのか少しも分らなかった。
「で、君は犯人の見当がついているのですか」
「ついていますよ」彼は頭をモジャモジャやりながら答えた。「僕のやり方は、君とは少し違うのです。物質的な証拠なんてものは、解釈の仕方でどうでもなるものですよ。一番いい探偵法は、心理的に人の心の奥底を見抜くことです。だが、これは探偵者自身の能力の問題ですがね。兎も角、僕は今度はそういう方面に重きを置いてやって見ましたよ。
最初僕の注意を惹いたのは、古本屋の細君の身体中にある生傷のあったことです。それから間もなく、僕は蕎麦屋の細君の身体にも同じ様な生傷があることを聞込みました。これは君も知っているでしょう。併し、彼女等の夫は、そんな乱暴者でもなさそうです。古本屋にしても蕎麦屋にしても、おとなし相な、物分りのいい男なんですからね。僕は何となく、そこにある秘密が伏在しているのではないかと疑わないではいられなかったのです。で、僕は先ず古本屋の主人を捉えて、彼の口からその秘密を探り出そうとしました。僕が死んだ細君の知合だというので、彼もいくらか気を許していましたから、それは比較的楽に行きました。そして、ある変な事実を聞出すことが出来たのです。ところが、今度は蕎麦屋の主人ですが、彼は、ああ見えても却々しっかりした男ですから、探り出すのに可成骨が折れましたよ。でも、僕はある方法によって、うまく成功したのです。
君は、心理学上の聯想診断法が、犯罪捜査の方面にも利用され始めたのを知っているでしょう。沢山の簡単な刺戟語を与えて、それに対する嫌疑者の観念聯合の遅速を計る、あの方法です。併し、あれは必ずしも、心理学者の云う様に、犬だとか家だとか川だとか、簡単な刺戟語には限らないし、そして又、常にクロノスコープの助けを借りる必要もないと、僕は思いますよ。聯想診断の骨を悟ったものにとっては、その様な形式は大した必要ではないのです。それが証拠に、昔の名判官とか名探偵とかいわれる人は心理学が今日の様に発達しない以前から、唯彼等の天稟によって、知らず識らずの間に、この心理的方法を実行していたではありませんか。大岡越前守なども確かにその一人ですよ。小説で云えば、ポオの『ル・モルグ』の始めに、デュパンが友達の身体の動き方一つによって、その心に思っていることを云い当てる所がありますね。ドイルもそれを真似て、『レジデント・ペーシェント』の中で、ホームズに同じ様な推理をやらせますが、これらは皆、ある意味の聯想診断ですからね。心理学者の種々の機械的方法は、唯こうした天稟の洞察力を持たぬ凡人の為に作られたものに過ぎませんよ。話が傍路に入りましたが、僕はそういう意味で、蕎麦屋の主人に対して、一種の聯想診断をやったのです。僕は彼に色々の話をしかけました。それも極くつまらない世間話をね。そして、彼の心理的反応を研究したのです。併し、これは非常にデリケートな心持の問題で、それに可成複雑してますから、詳しいことはいずれゆっくり話すとして、兎も角その結果、僕は一つの確信に到達しました。つまり犯人を見つけたのです。
併し物質的の証拠というものは一つもないのです。だから、警察に訴える訳にも行きません。よし訴えても、恐らく取上げて呉れないでしょう。それに、僕が犯人を知りながら、手を束ねて見ているもう一つの理由は、この犯罪には少しも悪意がなかったという点です。変な云い方ですが、この殺人事件は、犯人と被害者と同意の上で行われたのです。いや、ひょっとしたら被害者自身の希望によって行われたのかも知れません」
私は色々想像をめぐらして見たけれど、どうにも彼の考えていることが分り兼ねた。私自身の失敗を恥じることを忘れて、彼のこの奇怪な推理に耳を傾けた。
「で、僕の考を云いますとね、殺人者は旭屋の主人なのです。彼は罪跡をくらます為にあんな便所を借りた男のことを云ったのですよ。いや、併しそれは何も彼の創案でも何でもない。我々が悪いのです。君にしろ僕にしろ、そういう男がなかったかと、こちらから問を構えて、彼を教唆した様なものですからね。それに、彼は僕達を刑事かなんかと思違えていたのです。では、彼は何故に殺人罪を犯したか。……僕はこの事件によって、うわべは極めて何気なさ相な、この人世の裏面に、どんなに意外な、陰惨な秘密が隠されているかということを、まざまざと見せつけられた様な気がします。それは、実に、あの悪夢の世界でしか見出すことの出来ない様な種類のものだったのです。
旭屋の主人というのは、サード卿の流れをくんだ、ひどい惨虐色情者で、何という運命のいたずらでしょう、一軒置いて隣に、女のマゾッホを発見したのです。古本屋の細君は彼に劣らぬ被虐色情者だったのです。そして、彼等は、そういう病者に特有の巧みさを以て、誰にも見つけられずに、姦通していたのです。……君、僕が合意の殺人だといった意味が分るでしょう。……彼等は、最近までは、各々、正当の夫や妻によって、その病的な慾望を、かろうじて充していました。古本屋の細君にも、旭屋の細君にも、同じ様な生傷のあったのは其証拠です。併し、彼等がそれに満足しなかったのは云うまでもありません。ですから目と鼻の近所に、お互の探し求めている人間を発見した時、彼等の間に非常に敏速な了解の成立したことは想像に難くないではありませんか。ところがその結果は、運命のいたずらが過ぎたのです。彼等の、パッシヴとアクティヴの力の合成によって、狂態が漸次倍加されて行きました。そして、遂にあの夜、この、彼等とても決して願わなかった事件を惹起して了った訳なのです……」
私は、明智のこの異様な結論を聞いて、思わず身震いした。これはまあ、何という事件だ!
そこへ、下の煙草屋のお上さんが、夕刊を持って来た。明智はこれを受取って、社会面を見ていたが、やがて、そっと溜息をついて云った。
「アア、とうとう耐え切れなくなったと見えて、自首しましたよ。妙な偶然ですね。丁度その事を話していた時に、こんな報導に接しるとは」
私は彼の指さす所を見た。そこには、小さい見出しで、十行許り、蕎麦屋の主人の自首した旨が記されてあった。