36話 悪夢
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だが、兎に角事件は落着した。あれ程世間を騒がせた怪賊魔術師も、遂に自滅してしまった。八人の部下(船中で捕えた七人と、月島海岸にころがっていた一人)は、悉く収監された。賊の娘の文代は、明智に味方し、実の親を捕縛させた苦衷をめで、いずれは無罪放免と極っていても、一応未決監に収容せられた。
玉村氏は勿論、警察でも、賊の余類がどこかに潜伏していはしないかとその点は最も厳重に訊問したが、如何なる拷問も、ないものを生み出すことは出来ぬ。文代さえも、外に余類のないことを宣誓したからには、最早疑う余地はない。賊の一味は完全に滅亡したのだ。よし又、仮令一人や二人残っていた所で、玉村氏に何の恨もない部下のものが、利益にもならぬ他人の復讐事業を続ける筈もないのだ。
玉村家に久し振りで明るい生活が戻って来た。彼等は地底の水責めで、半病人の体だったが、中にも妙子さんは、賊の恐ろしい最期を見て気絶してからというもの、大熱を出して、寝込んでしまった程だが、それは肉体上のこと、精神的には、又もとののうのうした幸福な日が戻って来た。
二ヶ月余り、何のお話もなく過去った。
怪賊のお蔭で一層有名になった、玉村宝石店は、群小同業者を圧して、メキメキと営業成績を上げて行った。家族一同の健康もすっかり恢復した。しかも、時は弥生、早い桜がチラホラ咲き初めようという季節だ。父善太郎氏は勿論、兄妹達も、うって変ったこの世の楽しさに、いつしか、あのいまわしい事件のことも忘れ勝ちになって行った。
だが、事件は果して真に落着したのであろうか。奥村源造の死に際の呪いの言葉は、単なるいやがらせに過ぎなかったのであろうか。それにしても、あの小豆色の小さな毒蛇は、一体何を意味しているのだろう。
ある朝のこと、妙子さんと貰い子の進一少年との寝室(進一少年はこの物語の初めの方で顔を見せた切り、事件にとりまぎれ、ついその存在を忘れられていたが、彼は玉村家の血筋ではないので、賊の迫害こそ受けなかったけれど、家族一同の苦しみを、少年は少年丈けに、恐怖もし心配もしていたのだ)から、何とも形容の出来ぬ、物凄い悲鳴が、家中に響き渡った。
まだ家族のものは、床を離れぬ早朝であったので、一同その声にハッと眼を覚したが、久しく忘れていた、いまわしい記憶が、ふと心の隅に甦って来た。「又か」「又なにか恐ろしい事件が起ったのではないか」父も子もゾッと肌寒く感じないではいられなかった。
かけつけて見ると、妙子さんは、白いベッドの上に半身を起して、開ける丈け開いた目で、キョロキョロとあたりを見廻していた。同じベッドの進一少年も、妙子さんの胸にしがみついて震えている。だが幸にも、両人ともどこも怪我をしている様子はない。
「夢を見たのか。びっくりするじゃないか」
善太郎氏が、たしなめる様に云うと、妙子さんは強くかぶりを振って、
「夢じゃありません。たしかにこのシーツの上にとぐろを巻いていたんです。あたし、何か重くなったものだから、目を覚したのですもの。……」
「とぐろをまいていたって?」
「エエ、あなた方、今廊下で、誰かにお逢いにならなかって? 大きな、角力取りみたいな人に」
それを聞くと、一同ギョッと色を変えた。角力取りみたいな男! 読者は記憶せられるであろう。第一回の殺人事件は、魔の様な巨人の仕業であったのだ。普通人の倍もある血の手型。闇の中を走り去った、七八尺もある様な大入道。あれだ。「角力取みたいな」という言葉が、忽ちその当時の巨人の幻を描き出した。
その後、賊は魔術師の様な怪人物と分ったので、あれも魔術的な一種の変装であったのだろうと、警察でも、明智小五郎さえも、殊更らその巨人について穿鑿をしなかった。捕縛した小賊共には一応尋ねて見たけれど、誰もその不気味なトリックを知っているものはなかった。
「角力取りだって? お前そんな奴を見たのか」
善太郎氏はただならぬ気色で尋ねた。
「エエ、たった今、そのドアをくぐって、出て行ったばかりなのよ。あなた方の目につかなかった筈がありませんわ」
「お前が、叫び声を立ててからか」
「エエ、そうよ」
「それじゃ逃げ出す暇はない。わしらは、廊下の両側からかけつけたのだから、誰かが見なければならない筈だ。一郎、二郎、お前達そんなものを見はしなかっただろうね」
「馬鹿なことがあるものですか」一郎が例によって、怪談を否定した。「僕等は勿論誰にも会やしないし、第一、そんなべら棒な大男が、家の中に這入って来る道理がないじゃありませんか。妙子は夢を見たのですよ。どうせ、胸に手でものせていたんだろう」
「イイエ、お兄さま、夢じゃないのよ。なんぼあたしでも、夢なんかでこんなに騒ぎやしませんわ」
「マアいい。それで、角力取りみたいな奴が、どうしたんだね。……君のシーツの上にとぐろでも巻いていたのかね」
一郎はからかい顔だ。
「マア!」妙子は憎らしげに兄を睨んで置いて、父親の方へ向き直った。「お父さま、とぐろを巻いていたのは、小さな、小豆色の蛇ですのよ。ホラ、ここに、まだシーツの上が窪んでやしないこと」
「エ、小豆色の蛇だって」
善太郎氏は非常な恐怖の色を浮べた。彼は恐ろしく蛇嫌いであった。ヘビと聞いた丈けでも顔色が変る程であった。だが、今非常な恐怖を感じたのは、ただそれ丈けの理由ではない。
一郎も二郎も、それを知らなかったけれども、善太郎氏は明智小五郎から、賊の最期について詳しい話を聞いていた。例の怪しげな蛇の一件も、それが賊の所謂怨霊かも知れないという怪談めいた一節も、悉く聞知っていた。珍らしい小豆色の蛇、おまけに角力取りみたいな大男、いずれも怪賊魔術師を思出させる者共ではないか。彼が恐れ戦いたのも無理ではなかったのだ。
「その蛇は、どこへ行った」
彼は青ざめて、キョロキョロ身辺を見廻しながら尋ねた。
「あたしが、びっくりして飛起きると、チョロチョロとベッドを伝い降りて、ドアの方へ走って行きました。そして、その入口の所で、鎌首をもたげて、まるで人間みたいに、じっとあたしの顔を見つめているのです。それから……」
「それから?」
「それから妙なことが起ったのです。又一郎兄さまに叱られるかも知れませんわ。余り変なのですもの。あすこの鼠色の壁から浮き出す様に、一人の天井につかえ相な、大男が現われて、ハッと思う内に、スーッと、外へ出て行ってしまったのです。そして、蛇も、その人がいなくなると見えぬ様になってしまいました」
「ハハハハハハ、まるで石川五右衛門の忍術だね。鼠の代りに蛇を使って」
案の定、一郎がお茶を入れた。
だが、善太郎氏は笑えなかった。忍術と聞くと一層変な気持になった。
若しや奥村源造はまだ生きているのではあるまいか。船の中で死んだのも、共同墓地へ埋葬せられたのも、彼の所謂魔術ではなかったのか。死んだと見せかけ、どこかに潜伏していて、ほとぼりのさめた今頃又姿を現わし始めたのではあるまいか。若し生きているとしたら、あいつは蛇の忍術だって使いかねぬ怪物だ。とそんなことまで考えた。
それから一郎二郎の兄弟や、書生達に命じて、家中隈なく捜索させたが、角力取りみたいな奴は勿論、小豆色の小蛇も、どこにも姿を見せなかった。
「お父さん、気になさることはありませんよ。夢です。妙子が夢を見たのですよ」
一郎に云われると、成程そうかとも思うので、善太郎氏は警察沙汰にする様なこともなく、その日はそのまま済んでしまったが、二三日たった夜のこと、又しても恐ろしいことが起った。しかも今度は、当の善太郎氏が襲われたのだ。
――庭の池の亀を見ていると、その可愛らしい亀の頭がニューッと伸びて、小豆色のまだら蛇になった。
蛇嫌いの善太郎氏は「ギャッ」と云って、逃げ出したが、走っても走っても、蛇の頭がすぐうしろにあるのだ。そいつは亀の胴体から、紐の様に無限に伸びて来るのだ。
庭の向うに一郎、二郎、妙子の兄妹が笑い興じていた。善太郎氏は「助けてくれ」と叫びながら、その中へ入って行った。そして、三人に囲まれながら、うしろを見返ると、細い紐の様な小蛇が、いつのまにか、胴廻り一抱えもある様な、庭一杯の大蛇に変っていた。
「アッ」と思う内に、親子四人とも、その大蛇の為に、グルグル巻きに巻き込まれてしまった。むせ返る様な蛇の体臭、ヌルヌルした肌触り。
大蛇は、徐々に四人を絞めつけながら、空一杯の鎌首をもたげ、火焔の様な舌をはいて、頭の上から、ただ一呑みと迫って来る。……
我れと我が悲鳴に、ヒョイと目を開くと、ベッドの中でビッショリ汗をかいていた。今のは夢であったのだ。
「アア、夢でよかった」
善太郎氏はホッと安心して、寝返りをしようとしたが、オヤッ、何だか掛け蒲団の上に乗っているものがある。ズッシリと重い一物だ。
彼は鎌首をもたげて(それが夢の中の蛇とソックリの格好に見えた)その方を眺めた。眺めたかと思うと、今度こそは、本当に「ギャッ」と絞め殺される様な悲鳴を上げた。妙子の場合と同じだ。掛蒲団のシーツの上に、小豆色のまだら蛇が、とぐろを巻いていたのである。
善太郎氏が飛び起ると、蛇は床を這って素早く逃げてしまった。と同時に、黒い影が(なんとそれが出羽ヶ嶽みたいな巨人だったではないか)スーッとドアの外へ姿を消した。あとになって考えて見ると、その大入道は、さい前から、部屋の隅で、善太郎氏の寝姿をじっと見守っていたらしいのだ。
それから起ったことは、妙子の場合と全く同じであった。蛇も角力取りも、煙の様に消え去って、どこを探しても、影さえなかった。
ただ違っている点は、角力取りの消え去ったあとに一枚の紙切れが落ちていたことだ。
しかもゾッとしたことには、その紙切れには「奥村源造」と、簡単ながら、非常に恐ろしい四文字が書きつけてあった。怨霊は彼の名札を残して行ったのだ。