37話 奇中の奇
読み方を変える
遂にこのことが警察沙汰になった。明智小五郎も再び事件の依頼を受けた。
「魔術師はまだ生きている」
どこからともなく、そんな囁きが起って、全市に拡がって行った。
警察でも、捨て置き難く、協議の結果、奥村源造の墓をあばいて、死体が紛失してはいないかと、確めて見るという騒ぎになった。
源造の死体は、後日の為に土葬にしてあったので、着衣や骨格は元のまま残っている筈だ。そして、事実残っていた。あらゆる点が源造の死体に相違ないことを示していた。彼はやっぱり死んでいるのだ。死体が夜な夜な墓場を抜け出して、蛇使いの大入道に化けて出るなんて、ベラ棒な怪談を信じる訳には行かぬ。
これには何かしら、死人の残して行ったトリックがある。死後必ず復讐がとげられると思えばこそ、彼奴は自殺したのだ。死人が生前組立てて置いたトリックによって、罪を犯すというのは、非常に珍らしいことではあるけれど、犯罪史上先例がないでもない。
そこで、当時まで未決監にいた一味の者共が、厳重な訊問を受けた。だが、部下の者八人が八人とも、誰一人首領の秘密を打開けられているものはなかった。文代にも今度の事は全く見当さえつかなかった。
玉村一家の人々は、又しても極度に神経過敏となった。殊に善太郎氏は、大嫌いな蛇がからんでいるだけに、怖気をふるって、極度に用心深くなった。
家内のもの四人の寝室がとりかえられた。同じ廊下に面した四つの洋室が、奥から一郎、妙子、善太郎氏、二郎の順で割当てられた。幸いその廊下は奥が行止りになっているので、窓さえ用心すれば、通路と云っては廊下の入口たった一箇所であった。廊下の窓も四つの寝室の窓も、窓という窓は鎧戸を閉め切った上、ガラス戸は凡て釘着けにしてしまった。廊下の端には、交替で寝ずの番が立った。しかも、寝につく時には、四人とも、各自の部屋のドアに、内側から鍵をかけることにした。
善太郎氏は、それでもまだ安心が出来なかった。自分の家ではあるけれど、若しや知らぬ間に、部屋の中に秘密戸でも出来ていはしないかと明智小五郎の助けを借りて、四つの寝室を、床と云わず天井と云わず、壁と云わず、一寸角も余さず、綿密に検査して、どこにも異状のないことを確めた。
糸の様に細く伸るという蛞蝓の様な怪虫なら知らぬ事、どんな小さい蛇さえも、全く這入る隙はなかった。まして蛇使いの大入道なぞ、絶対に忍び込む余地はない。先ず先ずこれで安心だ。と善太郎氏は思った。だが、その安心が、非常な間違いであったことが、間もなく分る時が来た。
数日は何事もなく過去った。だが、右の用心を施してから丁度一週間目の深夜、人々は、物悲しい横笛の音に、ふと夢を破られた。
アア、あの笛の音色! 曲の調子! どうして忘れることが出来よう。得二郎氏の殺された時にも、妙子や一郎が傷けられた時にも、これと全く同じ、物悲しげな笛の音が聞えたではないか。
まっ先に飛び起きたのは二郎であった。彼がその笛の音を一番よく聞き慣れていたからだ。
こんな時には、ドアに鍵をかけて置いたのが非常な邪魔になる。鍵を探して、もどかしくドアを開けて、廊下に飛び出して見ると、向うの端に寝ずの番の書生がボンヤリと立っている。
「誰か通りやしなかったか」尋ねて見ると、
「イイエ」
とけげん顔だ。まさか角力取りみたいな奴を見逃がす筈はない。マアよかったと思いながら、耳をすますと、いつしか笛の音はやんでいる。
「君、妙な笛の音を聞かなかった?」
「エエ、聞きました。僕も変だと思っているのです」
「どの辺から聞えて来た?」
「大旦那のお部屋です。確かに」
二郎はそれを聞くと、まさかとは思うものの、やっぱり気になるので、念の為に父の部屋を開けて見ることにした。
鍵は四部屋とも共通のものであったから、外からドアは開く。なるべく音のせぬ様に鍵を廻すと、彼はソッと寝室の中を覗き込んだ。覗き込むや否や、彼の口から何とも云えぬ恐ろしい悲鳴がほとばしった。
笛の音で、已に目を覚ましていた、外の二人も、二郎の声に驚いて飛び出して来た。
「どうしたんだ。二郎」
「お父さんが、お父さんが、……」
一郎も妙子もドアの前に来て、二郎の指さす所を見た。そこには、父善太郎氏が、イヤ、善太郎氏の死骸が、ベッドを転がり落ちて、倒れていた。
両手は喉の辺をかきむしる格好に、空を掴み、顔は苦悶に歪んで、歯をむき出し、白くなった目は、飛び出すかと見開かれていた。
二目と見られぬ無残な形相だ。併し、それよりも一層恐ろしい一物が、死人の頸に巻きついていた。小豆色の蛇だ。源造の怨霊だ。善太郎氏は恐らく、睡眠中この蛇に頸をしめつけられて、死んだものに相違ない。
死体の上には、例によって、早咲きの桜の花弁が、雪の様に撒きちらしてあった。死体を飾るこの花びら、さい前聞えた横笛の葬送曲、凡てが嘗つての奥村源造のやり口である。
蛇は人々の立騒ぐ物音に驚いたのか、死人の頸を離れ、スルスルと床を這って逃げようとした。
「畜生め、畜生め」
気の強い一郎は、いきなりそれを追って、蛇の頭を革のスリッパで踏みにじった。
蛇はピチピチ躍り廻って、一郎の足に巻きついて来たが、頭を踏み砕かれては、おしまいだ。もろくもグッタリと死に絶えてしまった。
一方では二郎と妙子とが、父を蘇生させようと、色々介抱して見たが、善太郎氏は遂に甦らなかった。
「だが、一体この蛇は、どこから入って来たんだろう」
悲歎の数分間が過ぎて、やっと気を取直した二郎が云った。
ドアには少しも隙間がなかった。庭に面した窓のガラス戸は、皆釘づけになっていた。天井の通風孔には、厳重に金網が張りつめてあった。それらを凡て調べて見たが、どこにも破損した箇所はない。
不思議だ。蛇だけならまだしも、蛇の外に人間が入って来た筈だ。そして、善太郎氏の死に切ったのを見届けて、又煙の様に出て行った筈だ。なぜと云って、蛇には横笛も吹けないし、花びらも撒けないからである。
魔術師奥村源造は死んでしまった。彼の死体は共同墓地で腐っている。それにも拘らず、奥村源造は生きているのだ。彼は彼自身の名札を示し、生前と寸分違わぬ不思議の手段によって、敵と狙う玉村氏を殺害したのだ。
読者諸君、この奇怪事を何と解釈すればよいのであろうか。寝室は釘づけにした箱の様に密閉されていた。その中へ蛇が這い入ったのさえ不思議であるのに、蛇の何百倍も容積のある一人の人間が、自由に出入りしたのだ。手品の箱なら種仕掛けもあろう。だが、この部屋には絶対に仕掛けのないことが分っている。つまり、全然不可能なことが行われたのだ。
一郎も二郎も妙子も、父を失った悲歎に加うるに、この不可解事を見せつけられ、まるで思考力を喪失したかの如く、茫然として為すすべを知らなかった。
兎も角も警察に知らせなければならぬ。一郎は電話室へ走って行って警視庁と明智のアパートへこのことを報じた。
やがて、波越警部と明智小五郎がやって来た。彼等は同じ事件で、同じ玉村家で再び顔を合せた。
綿密此上もない調査がくり返された。併し、何の新発見もない。
「明智さん。あなたのご意見は? 残念ながら、僕には、まるで見当がつきません」
波越警部は正直に打開ける外はなかった。
「そうです。不可解と云えば不可解です」明智は流石にいつものニコニコ顔ではなかった。「密閉されたる部屋に人間が出入り出来ないのは、云うまでもありません。仮令彼が合鍵を持っていたとしても、見通しの廊下にちゃんと番人がいたのですからね。
しかも、あの書生は、一点疑う余地のない人物です。もう三年も此家に雇われている上に、正直者と評判の男です。又仮令あの男が犯人を見逃がしたとしても、家の中には沢山の召使達がいるのだし、玄関にも裏口にも人の忍び入った形跡がないのだから、不思議はやっぱり同じ事です。
そういう考え方をすれば、不思議は色濃くなるばかりです。併し、殺人が行われたからには、犯人が入らなかった筈はない。波越さん、あなたは『蜜柑の皮をむかずして中身を取出す法』というのをご存じですか。高等数学の数式上では、それが可能なのです。つまり、この犯罪は、中学などでは教えない、高等数学に属するものかも知れませんね」
明智は妙なことを云い出した。一体高等数学の犯罪なんて、あるものかしら。又、高等数学を心得た犯人は、そんなに易々と密閉された部屋に入り得るものだろうか。
「目の角度を変えるのです。同じ物体でも、正面から、うしろから、横から、斜めからと、色々な見方がある。そして、見方を変えるに従ってその物体も、ある場合には、まるで違ったものに見えるではありませんか」
波越警部は、明智の云う意味がボンヤリと分って来る様な気がした。
「では、若しやあなたは、……」
彼はハッとした様に顔色を変えて、明智の目の中を覗き込んだ。ボンヤリと分って来た意味が余りにも意外な、恐ろしい事柄であったからだ。