9話 窓なき部屋
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明智小五郎は、うたたねの夢から覚めた様な気持で、ふと目を開いた。
少々頭痛がするのを除くと、凡てが甚だ快適であった。手狭ながら贅沢に飾られた洋室、天井から下った古風な併し贅沢な空気ランプ、深いクッションの立派な長椅子。……彼は意識を恢復して、上野駅での出来事を思起した刹那、猿轡と手足の繩目を幻想したが、どうして、繩目どころか、全く自由な身体で、彼はその長椅子のクッションに深々と横わっていたのである。
明智が目を開いて、まじまじしていると、それを待構えてでもいた様に、ドアが開いて、一人の女が室内に這入って来た。美しい十八ばかりの娘だ。一寸見なれぬ型のダブダブした黒絹の洋装で、手に銀盆をささげている。盆の上には飲み物と軽い食事の皿が並んでいるのだ。
「お目ざめになりまして?」
娘はソファの前の卓に銀盆を置いて、ニッコリして明智に話しかけた。
「本当に大変でしたわね。でも、どこも御痛みにはなりません?」
無論知らぬ娘だ。この部屋にも見覚えはない。明智は夢みたいな気持で、しばらくボンヤリしていたが、やっと気を取り直して、
「ここは一体どこの御宅なんでしょう。そしてあなたは?」
と尋ねて見た。
「イイエ、御心配なさることはありませんわ。あなたの御危い所を御救い申した人の家とでも思っていて下さいまし。そしてあたしはその家の娘ですの」
「そうでしたか。僕は上野駅で変な自動車に押込まれたことは覚えていますが、すると今迄気を失っていたのでしょうか。それにしても、どうして僕を救って下すったのですか。御主人はどなたですか。そして、ここはやっぱり東京市内なんでしょうね」
「エエ、まあそうですの。でも、あなたまだ色々なこと御考えなさらない方がよござんすわ。それに、あたし、何にも喋ってはいけないって云いつけられているんですもの」
「ナアニ、もう大丈夫ですよ。どこも何ともありません。少し頭がフラフラしている位のものです」
明智はそう云って、大丈夫だということを示す為に、ソファの上に起直って、真直に腰かけて見せた。だが、そうして起きて見ると、やっぱり身体が本当でないのか、部屋全体がグラグラ揺っている様な感じを受けて、思わずソファの上に片手をついた。
「まだ駄目な様です。何だか僕には、この部屋がフワフワ宙に浮いてる様な気がするんです」
「ホラ、ごらんなさいまし。まだ無理をなすってはいけませんわ」
「でも気分は何ともないんです。どうか御主人に逢わせて下さい。御礼を云わなければなりません」
「イイエ、そんなこといいんですの。それに主人は今不在なのです」
その時、明智は、やっとその小部屋の作り方が、どうやら普通でないことに気がついた。
「オヤ、この部屋には、窓が一つもありませんね。じゃ昼間もこうしてランプをつけて置くのですか。妙な部屋ですね。で、一体今は昼でしょうか夜でしょうか」
実に変な聞き方だけれど、その部屋で目を覚ました人にとっては、当然の質問であった。
「夜ですの。今八時を打った所ですわ」
「何日の?」
「十一月、十八日」娘はそう答えて、口に手を当ててクスクス笑った。
「僕が上野駅についたのは十七日の晩だから、丸一日眠っていた訳ですね」
と独言の様に云ったものの、何だか変な感じだった。娘の妙に慣れ慣れしい様子と云い、窓のない部屋といい、その上いつまでたっても、頭がフラフラして、部屋そのものが不安定に感じられるのも不快だった。
「この部屋は一体何階にあるんです」明智はたまらなくなって、変なことを尋ねた。「何だか高い塔の上にいる様な気持がするんです。若しや本当に、そんな高い建物の上にあるんじゃありませんか」
「そうかも知れませんわ」娘は相変らず、どこか表情の奥で笑っていた。「でも、居心地は悪くないでしょう。当分御滞在の間、出来る丈け御心持のいい様にと、云いつけられていますのよ。お気に召さないことがありましたら、御遠慮なくおっしゃって下さいまし。御食事でも何でも」
娘はチラと銀盆の上の、オートミールの皿を見て云った。
「滞在ですって。冗談じゃありません。僕は大切な用事があるのです」
明智はあっけにとられてしまった。狐につままれた様な、凡ての因果関係が混乱してしまった様な、途方もない感じがした。
「イイエ、そんなにおあせりなすっては駄目ですわ。何も御考えなさらない方がいいわ」
娘はまるで気の毒な精神病者をでも慰める調子で云ったが、一寸小首をかしげて、
「では後程又参りますわ。まずいのですけど、どうか御ゆっくり召上って下さいまし」
娘が逃げる様にして、ドアを開けるので、明智は驚いて、
「待って下さい。待って下さい」
と呼びながら、ソファから立上り、娘の跡を追ったが、五六歩でドアの所に達し、廊下へ出た娘の袖を、もう少しで捕えようとした時、突然、思いがけず、何かに足をとられて、バッタリ倒れてしまった。
「ホホホホホホ、ですから、じっとしていらっしゃる方が御為ですわ」
鼻の先でドアが閉って、ドアの外から娘の声が嘲る様に響いて来た。
気がつくと、足首に細い鎖がついて、その一端が部屋の真中のソファの下の床に取りつけてあることが分った。つまり彼は、丁度動物園の熊の様に、その鎖の描く円周の外へは出られないのだ。
ナアンだ。救われたというのは嘘で、ここは賊の巣窟だったのか。こいつは面白くなって来たぞ。明智は真相を知ると、失望するどころか、却って、ひどく争闘慾をそそられたのである。