3話 唇のない男
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恋人達のこの不吉な予感は、不幸にして、間もなく適中する時が来た。全く想像さえしなかった恐ろしい事件が起った。
岡田道彦が怪写真を残して立去ってから、半月ほどたったある日(彼はその間一度も鹽原へ帰って来なかった)三谷や倭文子の泊っている同じ宿へ、世にも奇怪な一人物が投宿した。
椿事というのは、まるでその人物が悪魔のつかわしめででもあった様に、彼が宿についた丁度その日に突発したのだ。偶然の一致には相違ない。だが、何かしら異様な因縁を感じないではいられぬ。
その人物は、後々まで、この物語に重大な関係を持っているので、ここにやや詳しくその風を記しておく必要がある。
紅葉が色づき始め、遊山客も日毎にふえて行く季節なのに、その日は、しょぼしょぼ雨が降っていたせいもあるが、魔日とでもいうのか、鹽の湯A館には、妙に客の少い日であった。
夕方になって、やっと一台、貸切自動車が玄関に横づけになった。
中から、一寸見たのでは、六十歳以上の、ヨボヨボの爺さんが、運転手の腕にすがって降りて来た。
「なるべく近所に客のない部屋へね」
老人はフガフガと鼻へ抜ける、不明瞭な声で、ぶっきら棒にいって、敷台を上った。ひどく足が悪いらしく廊下の上でも、ステッキを離さない。
びっこで、鼻くたの、薄気味悪いお客さまだ。しかし、仕立卸しの合トンビを初め、服装が仲々立派なので、少々片輪者でも、宿の者は鄭重に取扱った。
階下の一室へ通されると、彼は何よりも先に、何度も聞き返さなければならない、不明瞭な言葉で、こんなことをたずねた。
「姉さん、ここに柳倭文子という美しい女が泊っているかね」
お泊りですと、正直に答えると、その部屋はどこだとか、男友達の三谷青年とは、どんな風にしているかとか、フガフガと根掘り葉掘りたずねた上、倭文子達に、わしがこんなことをたずねたといってはいけない。口止料だ、と十円紙幣を抛り出した。
「あれ何でしょう。気味が悪いわ」
老人の食事が済んで、お膳をさげて来た女中が、廊下の隅で、別の女中を捕えて、ヒソヒソ囁いた。
「あの人、幾つ位だと思って!」
「そうね、勿論六十上だわ」
「イイエ、それが本当は、ずっと若いらしいのよ」
「だって、あんな真白な頭をしているじゃないの?」
「エエ、だから、猶更おかしいのよ。あの白髪だって、本当に自分の髪だかどうだか。それから色眼鏡で目を隠しているでしょう。部屋の中でもマスクをかけて、口の辺を隠しているでしょう」
「その上、義手と義足ね」
「そうそう、左の手と右の足が、自分のではないのよ。ご飯をたべるのだって、それや不自由なの」
「あのマスク、ご飯の時には取ったでしょう」
「エエ、取ったわ。マア、あたし、ゾーッとしてしまった。マスクの下に何があったと思って?」
「何があったの?」
相手の女中は、彼女自身ゾッとした様に、薄暗い廊下の隅を見廻した。
「何もないの。いきなり赤い歯ぐきと白い歯がむき出しになっているの。つまりあの人は唇がないのよ」
変ないい方だが、その客は、半分の人間であった。つまり身体の二分一は自分のものでないのだ。
一番目立ったのは唇だが、鼻も醜く欠けて、直接赤い鼻孔の内部が見えているし、眉毛が痕跡さえなく、もっと不気味なのは、上下の眼瞼に一本も睫毛がないことである。女中が頭の白髪も鬘ではないかと疑ったとは尤もだ。
その外、左手が義手で、右足が義足、身体中で満足な部分といったら、胴体ばかりの人間だ。
あとで、その男――蛭田嶺蔵という名前だ――が、問わず語りに話した所によると、先年の大震火災の時、手足を失い、顔中やけどをしたので、この大怪我に命をとりとめたのは奇蹟だと、それが却て自慢の様子であった。
この怪人物は入浴を勧められた時には、風を引いているからと断った癖に、女中が行ってしまうと、ステツキと義足で、板の間をコトンコトンいわせながら、長い階段を、谷底の浴場の方へ降りて行った。慣れているせいか、存外危げもなく、巧に身体の調子を取って、サッサと降りて行く。
階段を降り切ると、恐ろしい音を立てて流れている、鹿股川の岸辺に出る。そこに、半自然の岩石で出来た、陰気な浴室が建っているのだ。
入浴するのかと思うと、そうではなく、彼は廊下から庭へ出て、浴室の外から、ガラス窓越しに、ソッと内部を覗き込んだ。
煙る細雨、それにもう夕暮れ近い刻限故、湯気の立ちこめた浴場内は、夢の中の景色のように、薄暗くぼやけて見える。
そこに蠢いている二つの白いもの。三谷青年のたくましい筋肉と、倭文子の滑かな肌。
蛭田はこの二人の様子を、それとなく見る為に、降りて来たのだ。彼等が入浴中であることは、女中の言葉で分っていた。
いくら温泉場の浴場でも、男女の別はあったのだが、入浴客が一人もなく、ガランと薄暗い、谷底みたいな浴室を、倭文子がひどく怖がるので、三谷青年の方から女湯へ這入って行ったのだ。
薄暗いのと、湯気の為に、一間と離れぬ相手の白い身体さえ、はっきりとは見えぬ程だから、お互に、さしておかしくも、羞しくも感じなかった。
聞えるものは、雨の為に水嵩を増した、谷川の音ばかり。母屋とは遠く隔たっているし、浴場の構造が、自然の岩をそのまま使ってあったりするので、人外の境に、生れたままの男女が、たった二人、ポツンと向き合っている感じであった。
「あんなこと気にするには当りませんよ。子供だましの悪戯ですよ」
三谷は湯の中に、大の字になっていった。
「あたし、そうは思えません。あの人が、今でも、その辺を、影みたいにウロウロしている様な気がして」
倭文子の白い身体が、青黒い大岩の上に、絵の様に蹲っていた。
暫くすると、青年は、ふとそれに気づいて、驚いて尋ねた。
「アア、君は何をそんなに見ているのです。僕までゾッとするじゃありませんか。その目はどうしたんです。
しっかりして下さい。倭文子さん。僕のいうことが分りますか」
三谷は、ふと、恋人が発狂したのではあるまいかと、怖くなって叫んだ。
「あたし、幻を見たのでしょうか、ホラ、あの窓から、変なものが覗いたのよ」
頓狂な、夢を見ている様な空の声が答えた。三谷はギョッとしたが、強て元気な調子で、
「何もいないじゃありませんか。向うの山の紅葉が見えている外には。君、今日はどうかして……」
といいさして、なぜかプッツリ言葉を切てしまった。
と同時に、広い浴場にこだまして、身の毛もよだつ、倭文子の悲鳴。
彼等は見たのだ。川に面した小窓の外に、一刹那ではあったが、何とも形容出来ない恐ろしいものを見たのだ。
そのものは、フサフサした白髪を逆立て、異様な黒眼鏡をかけ、その下に鼻はなくて、顔半面が真赤な口と、むき出しの鋭い白歯ばかりの、嘗て見たこともないけだものであった。
倭文子は余りの恐ろしさに、恥も外聞も忘れて、パチャンと浴槽に飛び込むと、いきなり三谷青年の裸体にしがみついた。
底の見える美しい湯の中で、二匹の人魚が、ヒラヒラともつれ合った。
「逃げましょう。早く、逃げましょうよ」
一匹の人魚が、他の人魚の首に、しっかりからみついて、口を耳にくっつける様にして、惶しく囁いた。
「怖がる事はありません。気のせいです。何かを見違えたのです」
三谷は、まだからみついている倭文子を、引ずる様にして、浴槽を出ると、小窓に駆けより、ガラッとそれを開いた。
「ごらんなさい。何にもいやしない。僕等は余り神経を使い過ぎているのですよ」
いわれて倭文子は、青年の肩越しに、ソッと首を伸ばして、窓の外を眺めた。
すぐ目の下を、鹿股川の青黒い水が流れている。そこは丁度淵になった個所で、たださえ深い上に、雨降り続きの増水、しかも、夕暮れの深い谷間、その底を流れる川は、いとど物凄く見えるのだ。
と、その時、三谷青年は、彼のお尻にピッタリくっついていた倭文子の肌が、突然、ギクンと痙攣するのを感じた。
「あれ! あれ!」
彼女が凝視して叫び続ける川岸を見ると、今度こそ、いかな三谷青年も「アッ」と声を立てないではいられなかった。
最早夢でも幻でもない。最も現実的な、棄ては置けぬ大椿事だ。
「水死人だ。怖がることはありません。助かる見込みがあるかどうか、見て来ますから、待っていらっしゃい」
脱衣場で、手早く着物を着て、廊下から現場へ飛び出すと、倭文子も彼のあとから、伊達巻一つで従って来た。
「アア、迚も駄目だ。飛込んだのは今日じゃありませんよ」
如何にも、水死人は、まるで角力取りみたいに、醜くふくれ上っていた。顔は下を向いているので分らぬけれど、服装の様子では湯治客らしい。
「アラ、この着物、見覚がありますわ。あなたもきっと……」
倭文子は激情に声を震わせて、妙なことを口走った。
土左衛門は、細い銘仙絣の単物を身につけていた。その絣に見覚がある。
「まさかそんなことが」
と我が目を疑いながら、併し、三谷はその水死人の顔を確めるまでは安心が出来なかった。彼は水際まで降りて行って、岸に漂いついている死体を、怖々足でグッと押して見た。
すると、死体は、戸板返しの様に、クルッと廻転して、上向きになった。まだ生きているのではないかと、ゾッとした程、軽々と向きを換た。
倭文子は遠くへ逃げて、水死人の顔を見る勇気はなかった。三谷は見るには見たけれど、余りのことに胸が悪くなって、長く眺めていることは出来なかった。
死体の顔は、ブクブクとふくれ上り、まるで相好が変っていたし、その上、岩角に当ってすり向けたのか、ほとんど顔全体が、グチャグチャにくずれて、二目とは見られぬ不気味さであった。
三谷と倭文子が、宿の者を呼びに走ったのは申すまでもない。それから起った、土左衛門騒ぎの詳細を記す必要はない。警察は勿論裁判所からも人が来た。騒ぎは鹽の湯ばかりでなく、鹽原全体に拡がり、二三日というもの、よると触るとその噂であった。
水死人は、顔はくずれていても、年配、体格、着衣、持物等から、岡田道彦に相違ないことが確められた。
取調べの結果入水自殺であることも判明した。川上には幾つも名高い滝がある。岡田はそのどれかの滝壺へ飛込んで、自殺をとげたのだ。医師の推定では、死後十日以上というのだから、恐らく、彼が東京へ行くといって宿を出たその日に、身投げをしたのが、滝壺に沈んでいて、雨続きの増水の為に、やっとその日、宿の裏まで流れついたものであろう。
自殺の原因については、結局ハッキリしたことは分らぬままに済んでしまった。失恋らしいという噂は立った。その相手は柳倭文子であろうという者もあった。だが、誰も本当のことは知らなかった。知っているのは当の倭文子と三谷青年ばかりだ。
岡田は鹽原へ来て初めて倭文子を知ったのではないらしい。彼の恋はもっともっと根強く深いものであった。温泉へ来たのも、湯治ではなくて、ただ倭文子に接近したさであったかも知れない。彼がどんなに悩んでいたかは、あの気違いめいた毒薬決闘を提案したのでも分るのだ。
思いが深く、悩みがひどかった丈けに、絶望が彼を半狂乱にしたのは無理ではない。だが、彼は短刀をふところにしながら、それを使用する勇気はなかった。結局弱者の道を選んで、自分自身を亡ぼす外に、何の手だてもなかったのだ。
水死人騒ぎの翌日、三谷青年と柳倭文子とは、このいまわしい土地をあとにして、東京へと汽車に乗った。
彼等は少しも知らなかったけれど、同じ列車の別の箱に、合トンビの襟を立て、鳥打帽をまぶかに、黒眼鏡とマスクで顔を隠した老人が乗合わせていた。唇のない男! 蛭田嶺蔵だ。アアこの怪人物は、三谷と倭文子に対して、抑そも如何なる因縁を持っていたのであろうか。
さて読者諸君、以上は物語の謂わばプロローグである。これから舞台は東京に移る。そして世にも奇怪なる犯罪事件の幕が、愈々開かれることになるのだ。