吸血鬼

3話 唇のない男

4,833字 約10分 2017年10月21日 公開

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 恋人達のこの不吉な予感は、不幸にして、間もなく適中する時が来た。全く想像さえしなかった恐ろしい事件が起った。

 岡田道彦が怪写真を残して立去ってから、半月ほどたったある日(彼はその間一度も鹽原へ帰って来なかった)三谷や倭文子の泊っている同じ宿へ、世にも奇怪な一人物が投宿した。

 椿事(ちんじ)というのは、まるでその人物が悪魔のつかわしめででもあった様に、彼が宿についた丁度その日に突発したのだ。偶然の一致には相違ない。だが、何かしら異様な因縁を感じないではいられぬ。

 その人物は、後々(のちのち)まで、この物語に重大な関係を持っているので、ここにやや詳しくその(ふうぼう)(しる)しておく必要がある。

 紅葉(もみじ)が色づき始め、遊山客(ゆさんきゃく)日毎(ひごと)にふえて行く季節なのに、その日は、しょぼしょぼ雨が降っていたせいもあるが、魔日(まひ)とでもいうのか、鹽の湯A館には、妙に客の少い日であった。

 夕方になって、やっと一台、貸切自動車が玄関に横づけになった。

 中から、一寸見たのでは、六十歳以上の、ヨボヨボの爺さんが、運転手の腕にすがって降りて来た。

「なるべく近所に客のない部屋へね」

 老人はフガフガと鼻へ抜ける、不明瞭な声で、ぶっきら棒にいって、敷台(しきだい)を上った。ひどく足が悪いらしく廊下の上でも、ステッキを離さない。

 びっこで、(はな)くたの、薄気味悪いお客さまだ。しかし、仕立卸(したておろ)しの(あい)トンビを初め、服装が仲々(なかなか)立派なので、少々片輪者でも、宿の者は鄭重(ていちょう)に取扱った。

 階下の一室へ通されると、彼は何よりも先に、何度も聞き返さなければならない、不明瞭な言葉で、こんなことをたずねた。

「姉さん、ここに柳倭文子という美しい女が泊っているかね」

 お泊りですと、正直に答えると、その部屋はどこだとか、男友達の三谷青年とは、どんな風にしているかとか、フガフガと根掘り葉掘りたずねた上、倭文子達に、わしがこんなことをたずねたといってはいけない。口止料だ、と十円紙幣(しへい)(ほう)り出した。

「あれ何でしょう。気味が悪いわ」

 老人の食事が済んで、お(ぜん)をさげて来た女中が、廊下の(すみ)で、別の女中を(とら)えて、ヒソヒソ囁いた。

「あの人、幾つ位だと思って!」

「そうね、勿論(もちろん)六十(うえ)だわ」

「イイエ、それが本当は、ずっと若いらしいのよ」

「だって、あんな真白な頭をしているじゃないの?」

「エエ、だから、猶更(なおさら)おかしいのよ。あの白髪(しらが)だって、本当に自分の髪だかどうだか。それから色眼鏡(めがね)で目を隠しているでしょう。部屋の中でもマスクをかけて、口の(あたり)を隠しているでしょう」

「その上、義手と義足ね」

「そうそう、左の手と右の足が、自分のではないのよ。ご飯をたべるのだって、それや不自由なの」

「あのマスク、ご飯の時には取ったでしょう」

「エエ、取ったわ。マア、あたし、ゾーッとしてしまった。マスクの下に何があったと思って?」

「何があったの?」

 相手の女中は、彼女自身ゾッとした様に、薄暗い廊下の隅を見廻(みまわ)した。

「何もないの。いきなり赤い歯ぐきと白い歯がむき出しになっているの。つまりあの人は唇がないのよ」

 変ないい方だが、その客は、半分の人間であった。つまり身体の二分一(にぶんのいち)は自分のものでないのだ。

 一番目立ったのは唇だが、鼻も(みにく)く欠けて、直接赤い鼻孔の内部が見えているし、眉毛(まゆげ)が痕跡さえなく、もっと不気味なのは、上下の眼瞼(まぶた)に一本も睫毛(まつげ)がないことである。女中が頭の白髪も(かつら)ではないかと疑ったとは(もっと)もだ。

 その外、左手が義手で、右足が義足、身体中で満足な部分といったら、胴体ばかりの人間だ。

 あとで、その男――蛭田嶺蔵(ひるたれいぞう)という名前だ――が、問わず語りに話した所によると、先年の大震火災の時、手足を失い、顔中やけどをしたので、この大怪我(おおけが)に命をとりとめたのは奇蹟だと、それが(かえっ)て自慢の様子であった。

 この怪人物は入浴を勧められた時には、(かぜ)を引いているからと断った癖に、女中が行ってしまうと、ステツキと義足で、板の間をコトンコトンいわせながら、長い階段を、谷底の浴場の方へ降りて行った。慣れているせいか、存外(あやう)げもなく、(たくみ)に身体の調子を取って、サッサと降りて行く。

 階段を降り切ると、恐ろしい音を立てて流れている、鹿股川の岸辺に出る。そこに、(なかば)自然の岩石で出来た、陰気な浴室が建っているのだ。

 入浴するのかと思うと、そうではなく、彼は廊下から庭へ出て、浴室の外から、ガラス窓越しに、ソッと内部を覗き込んだ。

 煙る細雨(さいう)、それにもう夕暮れ近い刻限(ゆえ)、湯気の立ちこめた浴場内は、夢の中の景色のように、薄暗くぼやけて見える。

 そこに(うごめ)いている二つの白いもの。三谷青年のたくましい筋肉と、倭文子の滑かな肌。

 蛭田はこの二人の様子を、それとなく見る(ため)に、降りて来たのだ。彼等が入浴中であることは、女中の言葉で分っていた。

 いくら温泉場の浴場でも、男女の別はあったのだが、入浴客が一人もなく、ガランと薄暗い、谷底みたいな浴室を、倭文子がひどく怖がるので、三谷青年の方から女湯へ這入って行ったのだ。

 薄暗いのと、湯気の為に、一(けん)と離れぬ相手の白い身体さえ、はっきりとは見えぬ程だから、お互に、さしておかしくも、羞しくも感じなかった。

 聞えるものは、雨の為に水嵩(みずかさ)を増した、谷川の音ばかり。母屋(おもや)とは遠く(へだ)たっているし、浴場の構造が、自然の岩をそのまま使ってあったりするので、人外(じんがい)の境に、生れたままの男女が、たった二人、ポツンと向き合っている感じであった。

「あんなこと気にするには当りませんよ。子供だましの悪戯ですよ」

 三谷は湯の中に、大の字になっていった。

「あたし、そうは思えません。あの人が、今でも、その辺を、影みたいにウロウロしている様な気がして」

 倭文子の白い身体が、青黒い大岩の上に、絵の様に(うずくま)っていた。

 暫くすると、青年は、ふとそれに気づいて、驚いて尋ねた。

「アア、君は何をそんなに見ているのです。僕までゾッとするじゃありませんか。その目はどうしたんです。

 しっかりして下さい。倭文子さん。僕のいうことが分りますか」

 三谷は、ふと、恋人が発狂したのではあるまいかと、怖くなって叫んだ。

「あたし、幻を見たのでしょうか、ホラ、あの窓から、変なものが覗いたのよ」

 頓狂(とんきょう)な、夢を見ている様な(うつろ)の声が答えた。三谷はギョッとしたが、(しい)て元気な調子で、

「何もいないじゃありませんか。向うの山の紅葉が見えている(ほか)には。君、今日はどうかして……」

 といいさして、なぜかプッツリ言葉を切てしまった。

 と同時に、広い浴場にこだまして、身の毛もよだつ、倭文子の悲鳴。

 彼等は見たのだ。川に面した小窓の外に、一刹那ではあったが、何とも形容出来ない恐ろしいものを見たのだ。

 そのものは、フサフサした白髪を逆立(さかだ)て、異様な黒眼鏡をかけ、その下に鼻はなくて、顔半面が真赤な口と、むき出しの鋭い白歯ばかりの、(かつ)て見たこともないけだものであった。

 倭文子は余りの恐ろしさに、恥も外聞(がいぶん)も忘れて、パチャンと浴槽に飛び込むと、いきなり三谷青年の裸体にしがみついた。

 底の見える美しい湯の中で、二匹の人魚が、ヒラヒラともつれ合った。

「逃げましょう。早く、逃げましょうよ」

 一匹の人魚が、他の人魚の首に、しっかりからみついて、口を耳にくっつける様にして、惶しく囁いた。

「怖がる事はありません。気のせいです。何かを見違えたのです」

 三谷は、まだからみついている倭文子を、引ずる様にして、浴槽を出ると、小窓に駆けより、ガラッとそれを開いた。

「ごらんなさい。何にもいやしない。僕等は余り神経を使い過ぎているのですよ」

 いわれて倭文子は、青年の肩越しに、ソッと首を伸ばして、窓の外を眺めた。

 すぐ目の下を、鹿股川の青黒い水が流れている。そこは丁度(ふち)になった個所で、たださえ深い上に、雨降り続きの増水、しかも、夕暮れの深い谷間、その底を流れる川は、いとど物凄く見えるのだ。

 と、その時、三谷青年は、彼のお尻にピッタリくっついていた倭文子の肌が、突然、ギクンと痙攣するのを感じた。

「あれ! あれ!」

 彼女が凝視して叫び続ける川岸を見ると、今度こそ、いかな三谷青年も「アッ」と声を立てないではいられなかった。

 最早(もはや)夢でも幻でもない。最も現実的な、(すて)ては置けぬ大椿事だ。

「水死人だ。怖がることはありません。助かる見込みがあるかどうか、見て来ますから、待っていらっしゃい」

 脱衣場で、手早く着物を着て、廊下から現場へ飛び出すと、倭文子も彼のあとから、伊達巻(だてまき)一つで従って来た。

「アア、(とて)も駄目だ。飛込んだのは今日じゃありませんよ」

 如何(いか)にも、水死人は、まるで角力取(すもうと)りみたいに、醜くふくれ上っていた。顔は下を向いているので分らぬけれど、服装の様子では湯治客らしい。

「アラ、この着物、見覚がありますわ。あなたもきっと……」

 倭文子は激情に声を震わせて、妙なことを口走った。

 土左衛門(どざえもん)は、(こまか)銘仙絣(めいせんがすり)単物(ひとえもの)を身につけていた。その絣に見覚がある。

「まさかそんなことが」

 と我が目を疑いながら、併し、三谷はその水死人の顔を確めるまでは安心が出来なかった。彼は水際(みずぎわ)まで降りて行って、岸に漂いついている死体を、怖々(こわごわ)足でグッと押して見た。

 すると、死体は、戸板返しの様に、クルッと廻転して、上向きになった。まだ生きているのではないかと、ゾッとした程、軽々と向きを換た。

 倭文子は遠くへ逃げて、水死人の顔を見る勇気はなかった。三谷は見るには見たけれど、余りのことに胸が悪くなって、長く眺めていることは出来なかった。

 死体の顔は、ブクブクとふくれ上り、まるで相好が変っていたし、その上、岩角に当ってすり向けたのか、ほとんど顔全体が、グチャグチャにくずれて、二目とは見られぬ不気味さであった。

 三谷と倭文子が、宿の者を呼びに走ったのは申すまでもない。それから起った、土左衛門騒ぎの詳細を記す必要はない。警察は勿論裁判所からも人が来た。騒ぎは鹽の湯ばかりでなく、鹽原全体に拡がり、二三日というもの、よると触るとその(うわさ)であった。

 水死人は、顔はくずれていても、年配、体格、着衣、持物等から、岡田道彦に相違ないことが確められた。

 取調べの結果入水自殺であることも判明した。川上には幾つも名高い滝がある。岡田はそのどれかの滝壺(たきつぼ)へ飛込んで、自殺をとげたのだ。医師の推定では、死後十日以上というのだから、恐らく、彼が東京へ行くといって宿を出たその日に、身投げをしたのが、滝壺に沈んでいて、雨続きの増水の為に、やっとその日、宿の裏まで流れついたものであろう。

 自殺の原因については、結局ハッキリしたことは分らぬままに済んでしまった。失恋らしいという噂は立った。その相手は柳倭文子であろうという者もあった。だが、誰も本当のことは知らなかった。知っているのは当の倭文子と三谷青年ばかりだ。

 岡田は鹽原へ来て初めて倭文子を知ったのではないらしい。彼の恋はもっともっと根強く深いものであった。温泉へ来たのも、湯治ではなくて、ただ倭文子に接近したさであったかも知れない。彼がどんなに悩んでいたかは、あの気違いめいた毒薬決闘を提案したのでも分るのだ。

 思いが深く、悩みがひどかった()けに、絶望が彼を半狂乱にしたのは無理ではない。だが、彼は短刀をふところにしながら、それを使用する勇気はなかった。結局弱者の道を選んで、自分自身を(ほろ)ぼす外に、何の手だてもなかったのだ。

 水死人騒ぎの翌日、三谷青年と柳倭文子とは、このいまわしい土地をあとにして、東京へと汽車に乗った。

 彼等は少しも知らなかったけれど、同じ列車の別の箱に、合トンビの襟を立て、鳥打帽(とりうちぼう)をまぶかに、黒眼鏡とマスクで顔を隠した老人が乗合わせていた。唇のない男! 蛭田嶺蔵だ。アアこの怪人物は、三谷と倭文子に対して、(そも)そも如何なる因縁(いんねん)を持っていたのであろうか。

 さて読者諸君、以上は物語の謂わばプロローグである。これから舞台は東京に移る。そして世にも奇怪なる犯罪事件の幕が、愈々(いよいよ)開かれることになるのだ。

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