4話 茂少年
読み方を変える
三谷と倭文子は、東京へ帰ってからも、三日に一度は、場所を打合わせて置いて、楽しい逢う瀬を続けていた。
三谷の方は、学校を出てまだ勤め口も極まらず、親の仕送りで暮している下宿住いであったし、倭文子の方は何か打あけにくい事情があるらしく、住所さえ曖昧にしているので、お互に訪ね合うことはさし控えた。
だが、二人の情熱は、時がたつに従って、衰えるどころか、愈々濃かになって行ったので、そうした曖昧な状態を、いつまでも続けることは出来なかった。
「倭文子さん、僕はもう罪人の様な密会に堪えられなくなった。君の境遇をハッキリさせて下さい。例の畑柳未亡人というのは、一体何のことです」
三谷はある日、鹽原以来幾度も繰返した質問を、今日こそはという意気込みで持出した。「畑柳未亡人」というのは、死んだ岡田道彦が、ふと口を辷らした、倭文子のもう一つの名前なのだ。
「あたし、どうしてこんなに臆病なのでしょう。きっと、あなたに見捨てられるのが、怖いからだわ」
倭文子は冗談らしく笑って見せたが、どこか涙ぐんでいる様な調子であった。
「君の前身が何であろうと、そんなことで、僕の気持は変りやしない。それよりも、今の状態では、僕は君のおもちゃにされている様な気がするのだ」
「マア」
倭文子は哀しい溜息をついて、暫く押し黙っていたが、突然、妙なやけくそみたいな調子になって、ぶっきら棒にいった。
「あたし、未亡人なのよ」
「そんなことは、とっくに想像している」
「それから、百万長者なのよ」
「……」
「それから、六つになる子供があるのよ」
「…………」
「ホラね、いやあな気持になったでしょう」
三谷青年は、何をいっていいのかわからない様子で、黙り込んでいた。
「あたし、みんないってしまいますわ。聞いて下さる。アア、いっそのこと、今からすぐ、あたしのうちへいらっしゃらない? そして、あたしの可愛い坊やを見て下さらない? それがいいわ、それがいいわ」
倭文子は、異様な昂奮に上気した頬を、流れる涙も意識しないで、フラフラと立上ると、青年の意向を確めもせず、いきなり柱の呼鈴を押した。
間もなく、二人は何が何だか分らない、気違いめいた気持で、自動車のクッションに膝を並べていた。
三谷は「そんなことで、僕の心が変るものですか」といわぬばかりに、じっと倭文子の手を握りしめていた。
二人とも一言も口を利かなかった。だが、頭の中では、錯雑した想念のアラベスクが、風車の様に廻転していた。
三十分程で、車は目的地に到着した。降り立った二人の前に、広い石畳と、御影石の門柱と、締め切った透かし模様の鉄扉と、打続くコンクリート塀があった。
門柱の表札には、案の定「畑柳」と記されていた。
通されたのは、落ついた、併し非常に贅沢な飾りつけの、広い洋風客間であった。
大きな肘掛椅子の掛け心地は悪くなかった。三谷の椅子の真向うに、深々とした長椅子があって、派手な模様の天鵞絨クッションを背に、丸い肘掛へ、グッタリと凭れかかった倭文子の、匂わしき姿があった。
倭文子の膝に肘をついて、長椅子の上に足をなげ出している、可愛らしい洋装の少年は、畑柳氏の忘れ形見、倭文子の実子の茂ちゃんだ。
くすんだ皮の長椅子の凭れをバックにして、倭文子の白い顔、派手なクッション、茂少年の林檎の様に赤い頬。「母と子」と題する、美しい絵の様に眺められた。
三谷は二人から目を上げて、彼等の頭の上の壁に懸っている、引伸ばし写真の額を見た。何となく人相の悪い四十恰好の男だ。
「死んだ畑柳ですの。こんなもの懸けて置いて、いけませんでしたわね」
倭文子は神妙に詫言をした。
「それから、茂ちゃんも。この子も畑柳と同じ様に、あなたには、お目ざわりでしょうか」
「イイエ、決して。こんな可愛い茂ちゃんを誰が嫌うものですか。それにあなたに生写しなんだもの。
茂ちゃんの方でも、小父さん好きでしょう。ね、そうでしょう」
そういって、三谷が少年の手を取ると、茂はニッコリ笑って、肯いて見せた。
窓の外には、ここの庭にも紅葉は色づいていたし、常緑木の茂みに、うらうらと暖かい日ざしが照りはえて、ほの白く、うら悲しく、夢見心地の一ときであった。
倭文子は、茂少年の頬を愛撫しながら、突然、彼女の身の上話を始めたが、周囲の情景がそんな風であったから、それさえも、何かしら、妖しき物語めいて聞こえたのである。
だが、彼女の身の上話を、そのままここに写すのは、余りに退屈なことだから、この物語に関係ある部分丈けを、極かいつまんで、記して置くに止めよう。
十八歳の倭文子は、両親を失い、遠い縁者に養われる身であった故か、金銭と、金銭によって贖い得る栄誉とに、珍らしい程、烈しい執着を持つ娘であった。
彼女は恋をした。だが、その恋を弊履の如く打棄て、百万長者畑柳に嫁づいた。
畑柳は年も違った。容貌も醜かった。その上、金儲けの為に、法網をくぐることばかり考えている悪者であった。だが、倭文子は畑柳が好きだった。彼が儲けてくれるお金は、畑柳その人よりも、もっと好きだった。
だが、悪運の強い畑柳にも、遂に報いが来た。法網をくぐりそこねて、恐ろしい罪に問われ、獄舎の人とならねばならなかった。
倭文子と茂とは、一年余りの月日を、淋しい日蔭の身で暮す内、獄中に発病した畑柳は、遂にそこの病舎で、この世を去った。
畑柳にも、倭文子にも、遺産の分配を迫る程の親戚はなかったけれど、巨万の富と、まだ若い未亡人の美貌に引きよせられて、求婚者が次から次へと現れ、余りの煩わしさと、富を目当の求婚のおぞましさに、茂は親切な乳母に任せ、たった一人で、偽名をして、気儘な湯治に出掛けたのだが。
そこで同じ宿に泊り合わせた三谷青年は、彼女の素性を少しも知らないで、彼女に烈しい思いを寄せた。それさえ好ましきに、あの毒薬決闘の際の、何ともいえぬ男らしい態度。倭文子の方でも、三谷青年を思い始めたのは、決して偶然ではなかったのだ。
「あたしが、どんなに慾ばりで、多情で、いけない女だかということが、よくお分りになりまして?」
倭文子は、長い打あけ話を終って、やや上気した頬に、棄て鉢な微笑を浮かべていった。
「その最初の、貧乏な恋人というのはどんな人だったのです。忘れてしまった訳ではないのでしょう」
三谷の口調には、一寸形容しにくい、妙な感じが含まれていた。
「あたしその人にだまされたのです。初めはうまいことをいって、あたしを仕合せにしてやると約束して置きながら、ちっとも仕合せになんかならなかったのです。その人は貧しかったばかりでなく、ゾッとする様な、いやあな性質があったのです。でも、あたしを愛してはいたのですけれど、そうされればされる程、虫酸が走る程いやでいやで仕方がなかったのです」
「その人が今どうしているか、どこにいるか、あなたは、ちっとも知らないのですね」
「エエ、八年も前の昔話ですもの。それに、あたしまだほんの子供でしたから」
三谷は黙って立上ると、窓の所へ歩いて行って外を眺めた。
「で、つまり、これがあなたの愛想づかしなんですか」
彼は外を眺めたまま、無表情な口調でいった。
「マア」倭文子はびっくりして、
「どうして、そんなことおっしゃいますの。ただ、あたし、あなたにあたしの本当の境遇を隠しているのが、苦しくなったからですわ。子供まである、獄死をした罪人の妻が、あなたとこうしているのが、恐ろしくなったからですわ」
「そういうことで、今更、僕達が離れられると思っているのですか」
倭文子にして見れば、離れられぬからこそ、身の上を打あけたともいえるのだ。それが分らぬ相手ではない筈だ。
彼女も立って行って、三谷と並んで、窓の外を見た。少し赤みがかった日光が、立木の影を長々と投げている、美しい芝生に、いつの間にか、部屋を抜け出して行った茂少年が、彼の身体の二倍程もある、愛犬のシグマと、たわむれているのが見えた。
「子供と同じ様に、あなたにも罪はないのです。僕はそういうことで、あなたに対する心持が、変りはしない。それよりも、僕にはあなたの富が恐ろしい。あなたの最初の人と同じ様に、僕も貧乏な書生っぽでしかないのですから」
「マア」
倭文子は、三谷の肩に手を置いて、頬と頬とがすれ合う程も、近々と相手の顔を視つめながら、マアよかったといわぬばかりに、美しく美しく笑って見せた。
丁度その時、邸の塀外から、俗っぽい、笛と太鼓の音楽が聞えて来た。
一番早くその音に気づいたのは、シグマだ。彼は何か不安らしく、耳を動かしてその方を眺めた。茂少年も犬の様子に誘われて、聞き耳を立てた。
音楽が門の前あたりで止ったかと思うと、チンドン屋の鹽辛声が幽かに聞え始めた。
三谷と倭文子とは、茂少年がいきなり門の方へ、駈け出して行くのを見た。シグマも御主人のお伴をして、あとになり先になり走って行った。
門の外では、珍妙な風体のチンドン屋が、お菓子屋の広告の、連ね文句を呶鳴っていた。
胸には太鼓、その上に箱があって、お菓子の見本が並んでいる。着物は友禅メリンスを滅茶滅茶に継ぎ合わせた、和洋折衷の道化服、頭には、普通の顔の倍程もある、張りぼての、おどけ人形の首丈けを、スッポリかぶって、その黒い洞穴みたいな口から、鹽辛声がボウボウとひびいて出る。
チンドン屋の声は、人形の首をスッポリと冠っていたせいか、やすものの蓄音器みたいに、変に鼻にかかって、殆ど意味が分らぬ程であった。
だが、意味は兎も角、歌の様な節廻しが面白く、その上、異様の風体の珍しさに、茂少年は、門の外へ駈け出して、思わずチンドン屋の側へ寄って行った。
「坊ちゃん、ホラ、このお菓子を差上げます。サァ、召上れ。頬っぺたがちぎれる程、おいしくてたまらないお菓子!」
張りぼての顔を、おどけた調子で振り動かしながら、太鼓の上の見本のお菓子を差出した。
茂少年は、サンタクロースの様に、親切な小父さんだと思って、喜んでそのお菓子を受取ると、別にお腹がすいていた訳ではないが珍らしさに、早速口へ持って行った。
「おいしいでしょ。サア、これからこの小父さんが、太鼓叩いて、笛吹いて、飛び切り面白い歌を歌って聞かせますよ」
ヒューヒュラ、ドンドン。頭でっかちのおどけ面が、肩の上でクルクルクル。友禅メリンスの道化服が、ピョンピョコ、ピョンピョコ、操り人形みたいに、面白おかしく踊り出した。
踊りながら、チンドン屋は、段々畑柳邸の門前を離れて行く。茂少年は、余りの面白さに、つい我を忘れて、まるで夢遊病者みたいに、そのあとからついて行く。
踊るチンドン屋を先頭に、可愛らしい洋服姿の茂。そのまたあとには、小牛の様なシグマ。いとも不思議な行列が、淋しい屋敷町を、どこまでもどこまでも歩いて行った。
それとは知らぬ、客間の倭文子。チンドン屋の音楽が、段々遠ざかって、とうとう聞えなくなってしまったのに、いつまでたっても、茂少年が帰って来ないので、ふと心配になり出した。
女中を呼んで、門前を探させて見たが、茂は勿論、愛犬のシグマさえ、どこへ行ったのか、影も形も見えぬという。何とやら唯ならぬ感じだ。
倭文子も、三谷も、召使達も、青くなって、邸の内外隅まで探し廻ったが、どこにも姿はない。そこへ、所用があって外出していた、乳母のお波が帰って来て申訳がないと泣き出す騒ぎである。
まさかチンドン屋に連れ去られたとは想像もしなかったが、こんなに探しても見つからぬ所を見ると、若しや人さらいの所業ではないかと、誰の考えもそこへ落る。
警察へ届けるか、イヤ、もう少し待って見ようと、ゴタゴタしている間に、時間は容赦なくたって行く。
やがて日が暮て、戸外が暗くなるにつれて、不安は募るばかりだ。果しも知れぬ暗闇の中を、母の名を呼びながら、さまよっている茂少年の、哀れな姿が見える様で、悲しい声が聞える様で倭文子はもう、居ても立ってもいられぬ気持である。
暫くすると、元の客間に集まって、不安な顔を見合わせていた倭文子達の所へ、一人の書生が、真青になって、惶しく駆け込んで来た。
「確かに誘拐です。シグマが帰って来ました。こいつは坊ちゃんの為に、こんなに傷つくまで忠実に闘ったのです」
書生の指さすドアの外を見ると、小牛の様なシグマが、全身あけに染まって、悲しいうなり声を立てながら、グッタリと横わっていた。
ハッハッという、せわしい呼吸。ダラリと垂れた舌、ともすれば白くひきつって行く眼。数ヶ所にパックリ口を開いた、むごたらしい傷口。
倭文子は、廊下に寝そべっている、真赤なものを見た刹那、どこか遠い所で、同じ運命にあっている、いたいけな我が子の聯想の為に、フラフラとめまいがして、倒れ相になるのを、やっとこらえた。
彼女には、血みどろのシグマが、むごたらしく喘いでいるのが、いつまでたっても茂少年の、のたうち廻る姿に見えて仕方がなかった。
畑柳家には、執事の様な役目を勤めている、斎藤という老人がいたのだけれど、あいにく不在の為に、三谷が代って、警察へ電話を掛け、事情を告げて、茂少年の捜索を依頼した。
警察からは、係りの巡査が出向くという返事であったが、その用件をすませて、受話器を掛けるか掛けないに、またけたたましいベルが鳴った。
まだその卓上電話の前にいた三谷が、再び受話器を耳に当てて二言三言うけ答えをしている内に、彼の顔が真青になった。
「誰ですの? どこからですの?」
倭文子が心配に息をはずませて尋ねた。
三谷は送話口を手で押えて、振返ったが、ひどくいい悪く相に躊躇している。
「何か心配なことですの? 構いません、早くおっしゃって下さい」
倭文子がせき立てる。
「確に聞き覚がある。贋物ではありません。あなたのお子さんが、自身で電話口に出ていらっしゃるのです。だが……」
「エ、何ですって? 茂が電話口へ? あの子はまだ電話のかけ方もよく知りませんのに。……でも聞いて見ますわ、あの子の声は、あたしが一番よく知っているのです」
倭文子は駆け寄って、まだ躊躇している三谷の手から、受話器を奪い取った。
「エエ、あたし、聞こえて? 母さまよ。お前茂ちゃんなの? どこにいるの?」
「ボク、ドコダカ、ワカラナイノ。ワカラナイシ、ヨソノオジサンガ、ソバニイテ、コワイカオシテ、ナニモイッテハ……」
バッタリ声が切れた。突然、その怖い小父さんが、少年の口を手で塞いだらしい様子だ。
「マア、本当に茂ちゃんだわ。茂ちゃん。茂ちゃん。サア、早くお話し母さまよ。あたし、お前の母さまよ」
辛抱強く声をかけていると、暫くして、また茂のたどたどしい声が聞えて来た。
「カアサマ、ボクヲ、カイモドシテクダサイ。ボクハ、アサッテ、ヨルノ十二ジニ、ウエノコウエンノ、トショカンノウラニ、イマス」
「マア、お前、何をいっているの、お前の側に悪者がいて、お前にそんなことを喋らせているのね。茂ちゃん。たった一言、たった一言でいいから、今いる場所をおっしゃい。サア、どこにいるの?」
だが、少年の声は、まるで聾の様に、倭文子の言葉を無視して、子供らしくない、恐ろしいことを喋っている。
「ソコヘ、十マンエン、オサツデ、カアサマガ、モッテイラッシャレバ、ボクカエレルノ。十マンエンオサツデ。カアサマデナクチャ、イケナイノ」
「アア、分った分った。茂ちゃん安心おし、きっと助けてあげるからね」
「ケイサツヘ、イイツケルト、オマエノコドモヲ、コロシテシマウゾ」
アア、何ということだ。「お前の子供」というのは、話ている茂少年自身のことではないか。
「サア、ヘンジヲシロ。ヘンジヲシナイト、コノコドモガ、イタイメニアウゾ」
その言葉が切れるか切れないに、ワーッという、悲しい子供の泣き声が聞えた。