吸血鬼

5話 悪魔の情熱

8,080字 約16分 2017年10月21日 公開

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 何という残忍酷薄の所業(しわざ)であろう。少年少女を誘拐して、その身代金を強要する犯罪はしばしば聞く所であるが、誘拐した少年自身に脅迫の文句を喋らせ、その悲痛な泣き声を聞かせ、母親の心をえぐらんとするに至っては、かつて前例のない悪魔の(かん)手段である。

 だが、倭文子にしては、悪魔の所業を(にく)むよりは、電話口でゾッとする様な、脅迫の文句を喋っている、茂少年の、何ともいえぬ恐ろしい境遇に、気も心も顛動(てんどう)して、何を考える余裕もなく、電話器にしがみついて、相手の声を失うまいと、半狂乱の(てい)であった。

「茂ちゃん。泣くんじゃありません。母さまはね、お前のいうことなら、何でも聞いて上げます。お金なんぞ惜くはありません。承知しました。エエ承知しましたと、そこにいる人にいっておくれ、その代り茂ちゃんは、きっと、間違いなく、返して下さいって」

 それに答えて、受話器からは、まるで無感動な、暗誦(あんしょう)でもする様な、たどたどしい子供の声が聞こえて来た。

「コチラハ、マチガイナイ。オマエノホウデ、サッキノコトヲ、一ツデモタガエタラ、シゲルヲ、コロシテシマウゾ」

 そして、カチャンと、電話が切れてしまった。

 いくら六歳の幼児でも、彼のいっている文句が、どんな恐ろしいことだかは、分っていたに相違ない。それをあの無感動な調子で喋らせた、悪魔の脅迫が、どんなに(はげ)しいものであったか。思うだに身の毛がよだつ。

 三谷を初め、乳母のお波、女中などが電話の前に泣き(ふし)た倭文子を、(なぐさ)めている所へ、やがて、所管の麹町(こうじまち)警察から、司法主任の警部補が、一名の私服を伴って、訪ねて来た。

「よくある手ですよ、ナアニ、お金なんか用意する必要はありません、新聞紙包か何かを持って、()(かく)もその約束の場所へ行って見るのですね。そして子供と引換てしまうのです。あとは警察の方で、うまくやります。無論犯人を引括(ひっくく)るのです。ただ、最初から我々が行ったのでは、犯人の方で用心して、逃げてしまいますから、あなたが、先方の申出を守って、警察の力を借りず、単独でお金を持参した様に見せかけるのですよ。僕はいつかも、この手で犯人をおびき寄せて、うまく逮捕した経験があるのです」

 司法主任は、事もなげにいってのけた。

「しかし、犯人はその場で、お金を(しら)べて見るでしょうから、若し贋物と分ったら、子供に手荒らな真似をする様なことはないでしょうか」

 三谷が不安そうに尋ねると、警官は笑って見せて、

「我々がついています。現場附近に数名の巡査を伏せて置いて、万一の場合は、八方から飛出して、有無をいわせず引括ってしまいます。それに、犯人にとって、子供は大切な商品なのですから、仮令(たとえ)この計画が失敗しても、危害を加える様なことは、決してありません。一体、身代金請求なんて一時代前の古くさい犯罪で、今時、こんな真似をする奴は、よっぽど間抜けな(ぞく)ですよ。それに、従来この手で成功した例は、(ほとん)どないといってもよい位です」

 結局、当夜は、(あらかじ)め現場附近の森蔭に七八名の私服刑事を、潜伏させて置いて、表面上は倭文子が単身、茂少年を受取りに出向くということに、相談が一決したが、三谷は倭文子の身の上を気遣う余り、更に奇抜(きばつ)な一案を提出した。

「倭文子さん、僕にあなたの着物を貸て下さい。あなたに化けて、僕が行きましょう。僕は学生芝居の女形(おやま)を勤めた経験がある。鬘だって訳なく手に入ります。真暗な森の中です、大丈夫ごまかせますよ。それに、僕が行きさえすれば、腕ずくだって、茂ちゃんを取戻して来ます。そうさせて下さい。あなたをやるのは、どうも危険な気がします」

 それ程にしなくてもと、反対意見も出たけれど、遂に三谷の熱心な希望が()れられ、彼が倭文子の身替りを勤めることになった。

 当夜、三谷は髭のない顔に念入の化粧を施し、鬘を(かぶ)り、倭文子の着物を着て、学生芝居以来久しぶりの女装をした。

 彼はこの奇妙な冒険に勇み立ち、女装そのものにも、少からぬ興味を感じているらしく見えた。(みずか)ら提案した程あって、彼の女装は、本当の女としか思われぬ程、よく出来た。

「きっと茂ちゃんを連れて帰ります。安心して待ってて下さい」

 彼は出発する時、そういって倭文子を慰めたが、その時、双方とも女の姿で、顔を見合わせたのが、(しばら)くの別れになろうとは、誰が予知し得たろう。

 女装の三谷が、山下(やました)で自動車を降りて、山内(さんない)を通り抜け、図書館裏の暗闇にたどりついたのは、丁度約束の十二時少し前であった。

 交番もそんなに遠くはなく、桜木町(さくらぎちょう)の住宅街もついそこに見えているのだけれど、その一角は妙に真暗で、まるで深い森の中へでも這入った様な気持だ。

 刑事達は、どこに潜伏しているのか、流石(さすが)商売柄、それと知っている三谷にも、気配さえ感じられぬ。

 四方に気を配りながら、暫く(やみ)の中に立っていると、カサコソと草を踏む音がして、ボンヤリと黒く見える、大小二つの影が近づいて来た。小さい方は確かに子供だ。相手は約束をたがえず、茂を連れて来たのであろう。

「茂のお母さんかね」

 黒い影が、囁き声で呼びかけた。

「エエ」

 こちらも、女らしい低声で答える。

「約束のものは、忘れやしめえね」

「エエ」

「じゃ、渡してもらおう」

「アノ、そこにいるのは茂でしょうか。茂ちゃん、こちらへいらっしゃい」

「オッと、そいつはいけねえ、例のものと引換だ。サア、早く出しな」

 段々、暗に()れて来るに従って、ウッスリ相手の姿が見える。男の服装は半天(はんてん)股引(ももひき)、顔は黒布で包んでいる。子供は可愛らしい洋服姿が、(たしか)に茂だ。

 少年は余程激しい折檻(せっかん)を受けたと見えて、母親の姿を見ても、声さえ立てず、男に肩先を(つか)まれたまま、小さくなっている。

「それじゃ、確に十万円、百円札が十束ですよ」

 三谷は、(かさ)ばった新聞包を差出した。

 それにしても、余りの金高(かねだか)である。いくら可愛い子供の為とはいえ、易々(やすやす)と渡すのは、少し変だ。相手の男が果して信用して受取るであろうか。

 だが、賊の方でも、いくらか血迷っていたと見え、包を受取ると、別段検べもせず、子供をつき放して置いて、いきなり暗の中へ逃げ出した。

「茂ちゃん。小父さんですよ。母さまの代りに、君を迎えに来た、小父さんですよ」

 三谷が、少年を引寄せて、そんなことを囁いていた時、賊の逃げた方角に当って、異様な叫び声と共に、何かが木の幹にドシンドシンとぶつかる音がした。

「捕えた。賊は捕えたぞ」

 木蔭に忍んでいた刑事の一人が難なく曲者をとらえたのだ。

 四方に起る「ワッ」という様な声、人の走る足音。

 刑事の伏勢が、全部その方へ()せ集った。

 余りにあっけない捕物であった。

 刑事の一団は、賊の繩尻(なわじり)をとって、その顔を見る為に、少し離れた所に立っている常夜燈の真下へ連れて行った。三谷も少年の手を引いて、そのあとからついて行ったが、明るい電燈の光で、少年の顔を一目見ると、彼はなぜか「アッ」と異様な叫声を発した。

 読者諸君が想像された如く、三谷が取戻した少年は、茂とは似ても似つかぬ贋物であった。茂の洋服を着た、見も知らぬ子供であった。

 だが、仮令茂が贋物でも、賊の本人が捕えられているのだ。子供はいつでも取戻せる。

 三谷は見知らぬ少年を引連れて、賊を取巻く刑事の一団に近寄って行った。

 ところが、これはどうしたのだ。そこにもまた、実に変てこなことが起っていたではないか。

「ヘエ、わしは、そんな悪いこととは知らねえで、十円の金に目がくれて、そいつのいいつけ通りやったまでです。わしは、何も知らねえ者です」

 男は、覆面をとって、しきりと詫言(わびごと)を並べていた。

「僕はこいつを知っている。この山内に野宿している新米(しんまい)の子持ち乞食だ。あの洋服を着せられているのは、こいつの子供なんだよ」

 一人の刑事が、男の言葉を裏書した。

「それで、貴様が贋の子供と引換えに、金を受取ると、どっかに待受けている、その頼んだ男の所へ、持って行く約束なんだな」

 別の刑事が、乞食を睨みつけて呶鳴った。

「インヤ、金を受取れなんて、いやしねえ。ただ、女の人が四角な包を持って来るから、それをもらって、どっかへ捨っちまえ、といったばかりで」

「ホウ、そいつは妙だね。すると、賊の方では、金包が新聞紙だということを、チャンと知っていたんだな」

 何だか狐につつまれた様な、変な具合だ。

「そいつの顔を覚えているだろう。どんな奴だった」

 また一人の刑事が尋ねた。

「それが分らねえです。大きな黒眼鏡をかけて、マスクをつけて、その上外套の袖を顔へ当てて、物をいっていたんで……」

 アア、この風体! 読者は恐らく、ある人物を思い出されたことであろう。

「フン、合トンビを着ていたのか」

「ヘエ、新しい上等の奴を着て居りました」

「年配は?」

「ハッキリ分らねえが、六十位の(じい)さんでがした」

 刑事達は、この子持ち乞食を、一応警察署に同行して、なおきびしく取調べたが、上野(うえの)公園で聞き取った以上のことは何も分らなかった。

 態々(わざわざ)女装までして、ノコノコ出かけて行った三谷は、実に間の悪い思いをしなければならなかった。

 彼はそこそこに、刑事達に挨拶をして置いて、通りがかりのタクシーの中へ逃げ込んで、畑柳家に引返した。

 帰って見ると、更に驚くべき事件が、彼を待受けていた。

「奥さんは、さい前、あなたからのお手紙でお出掛けになりました」

 という書生の言葉だ。

「手紙? 僕はそんなもの書いた覚えはないが、その手紙が残っていたら見せて下さい」

 三谷は烈しい不安の為に、胸をワクワクさせて、叫んだ。

 書生が探し出して来た手紙というのは、何の目印もない、ありふれた封筒、ありふれた用紙、それに巧みに三谷の筆蹟を真似て、こんなことが書いてあった。

倭文子様。

この車に乗って直ぐ来て下さい。茂ちゃんが、怪我をして、今病院へ担ぎ込んだ所です。早く来て下さい。

上野、北川(きたがわ)病院にて、三谷。

 それを読むと、三谷は真青になって、いきなり玄関脇の電話室に飛込み、惶しく警察署を呼び出した。

 手紙にある北川というのは、実在の病院だが、倭文子がそこへ行っていないのは、分り切つている。

 では、可哀相な彼女は今頃は、どこで、どの様な恐ろしい目に合っていることであろう。

 倭文子は、贋手紙に驚いて、無我夢中であったから、彼女の乗った自動車が、どこをどう走っているのか、少しも気づかなかったが、車が止って、降りて見ると、そこは全く見覚えのない、非常に淋しい町で、病院らしい建物は、どこにもなかった。

「運転手さん、ここは場所が違うのじゃありませんか。病院って、どれなんですの」

 倭文子が驚いて尋ねた時には、既に、運転手と助手とが、両側に降り立って、彼女の腕を掴んでいた。

「病院っていうのは、何かの間違いでしょう。坊ちゃんはこの家にいらっしゃるのですよ」

 運転手は、平気で、見えすいた嘘をいいながら、グングン倭文子を引張って行った。

 小さな門を這入って、真暗な格子戸を開けると、玄関の式台らしい所へ上った。燈火(ともしび)のない部屋を二つ三つ通り過ぎ、妙な階段を下った所に、ジメジメと土臭い小部屋があった。

 小さなカンテラがついているばかりで、よく分らぬけれど、柱も何もないコンクリートの壁、赤茶けた薄縁(うすべり)、どうやら地底の牢獄(ろうごく)といった感じである。

 声を立てて助けを求めるという様なことを、考える(ひま)もない程、咄嗟(とっさ)の出来事であった。

「茂ちゃんは? あたしの子供はどこにいるのです」

 倭文子は、だまされたと感づいていながらも、まだあきらめ切れず、甲斐なきことを口走った。

「坊ちゃんには、じき会わせて上げますよ。暫く静かにして、待っておいでなさい」

 運転手達は、傲慢(ごうまん)な調子で、いい捨てたまま、部屋を出て行ってしまった、ガラガラと閉める頑丈(がんじょう)な扉、カチカチと鍵のかかる音。

「マア、あなた方は、あたしを、どうしようというのです」

 倭文子は叫びながら、扉の所へ駈け寄ったが、もう遅かった。押しても叩いても、厚い板戸はビクともしない。

 かたい、冷い薄縁の上に、くずおれて、じっとしていると、ひしひしと迫る夜気、地底の穴蔵の、墓場の様な、名状(めいじょう)(がた)き静けさ。倭文子は気が落ちつくに従って、我身の恐ろしい境遇が、ハッキリと分って来た。

 茂のことで、心が一杯になっていて、我身の危険を(かえり)みる(いとま)がなかったとはいえ、どうして、こうも易々と、こんな所へ連れ込まれたのかと、寧ろ不思議な感じがした。

 ふと気がついて、耳をすますと、どこか上の方から、子供の泣声が聞えて来る。深々(しんしん)と静まり返った夜の中に、細々と絶えては続く、淋しい泣声。

 幼い子供が、折檻されている様子だ。

 いとし子の声を、なんで聞違えるものか。あれは確に、茂の泣声だ。そうでなくて、こんなにも、ヒシヒシと胸にこたえる筈がない。

「茂ちゃん。お前、茂ちゃんですね」

 倭文子は、(たま)らなくなって、思わず高い声で叫んだ。

「茂ちゃん。返事をおし。お前の母さまは、ここにいるのよ」

 恥も外聞も忘れて、気違いの様に叫び続ける声が、やっと相手に通じたのか、一刹那、泣声がパッタリ止ったかと思うと、(にわか)に調子の高まった、身を切られる様なわめき声が響いて来た。その調子が母さま母さまと呼んでいる様に聞える。

 それに混って、ピシリピシリと異様な物音、アア、可哀相に、子供は鞭で打たれているのだ。

 だが、その間に、倭文子にとって、茂の泣声よりも、もっともっと恐ろしいものが、忍びやかに、彼女の身辺に近づいていた。

 運転手達の出て行った、扉の上部に小さな覗き穴が作ってあって、今、その(ふた)が、ソロソロ開きつつあるのだ。

 痛ましい子供の泣き声が、少し静まったので、天井の方に集まっていた注意力が、解けると同時に、目についたのは、扉の表面に起っている、異様な変化であった。

 倭文子はギョッとして、少しずつ、少しずつ、開いて行く、覗き穴を凝視した。

 カンテラの赤茶けた光が、(わず)かに照らし出だす扉の表面に、糸の様に黒い隙間(すきま)が出来たかと思うと、それが徐々に半月形となり、遂にポツカリと、真黒な穴があいた。

 誰かが覗きに来たのだ。

「茂に逢わせて下さい。あの子を折檻(せっかん)しないで下さい。その代りに、わたし、どんなにされても構いません」

 倭文子は一生懸命に叫んだ。

「本当に、どんなにされても、構わぬというのかね」

 扉を(へだ)てたせいか、ひどく不明瞭な、ボウボウという声が、答えた。

 その調子が、ゾッとする程不気味に思われたので、彼女は容易に次の言葉が出なかった程だ。

「お前さんが、そんなにいうなら、茂と逢わせてやらぬでもないが、今の言葉は、まさか嘘じゃあるまいね」

 やっぱり、非常に聞き取りにくい声がしたかと思うと、丸い覗き穴に、ヒョイと人の顔が現われた。

 一目それを見た倭文子は、余りの怖さに、ヒーッと、泣くとも叫ぶともつかぬ声を立てて(たもと)で目かくしをしたまま、俯伏(うっぷ)してしまった。

 嘗つて鹽原温泉で見た、何ともいえぬ恐ろしい幻が、またしてもそこに現われたからだ。

 顔一面の引釣、赤くくずれた鼻、長い歯がむき出しになった、唇のない口、この世の中のものとも思われぬ、不気味にも醜い怪物であった。

 やがて、俯伏している襟元に、スーッと冷い風を感じた。扉が開かれたのであろう。

 アア、一歩、一歩、あいつが近づいて来るのだ。と思うと、居ても立ってもいられぬ怖さだが、逃げようにも、身体がすくんで、立上るのはおろか、顔を上げることさえ出来ぬ。悪夢にうなされている気持だ。

 倭文子は見なかったけれど、扉をあけて、はいって来たのは、黒いマント様のもので、身体ばかりでなく、顔まで隠した、異様の人物であったが、マントのふくれ具合といい、その隙間からチラチラ見える素肌といい、彼は真ぱだかの上に、直接マントだけを引かけているらしく見えた。

 男は倭文子の上に、のしかかる様な格好になって、またもや不明瞭な声で、

「お前さんの言葉が、本当か(うそ)か、今すぐためして上げるよ」

 といいながら、倭文子の背中を、軽く叩いたが、その拍子に、左の手首が、彼女の頬にさわった。

 倭文子は、その手首の、瀬戸物みたいに、固くて冷い肌ざわりに、ゾッと動悸(どうき)が止ってしまう様な、恐れを感じた。

「あなたは誰です。どうして私達をこんなひどい目に合わせるのか、その訳をおっしゃい!」

 倭文子は死にもの狂いの顔を上げて、上ずった声で叫んだ。

 いつの間に、カンテラを吹き消したのか、部屋の中は、真の闇だ。怪物のありかも、その異様な呼吸の音で、やっと察し得るに過ぎない。

 相手は不気味に押黙っている。

 闇の中に、暗よりも黒いものが、(かすか)(うごめ)いて、いまわしい息遣いが、徐々に徐々に、近づいて来るのが感じられる。

 やがて、頬にかかる熱い息、肩を這い廻る指の感触……

「何をするんです」

 倭文子は肩にかかる手を払いのけて立上った。

 いくら怖いからといって、彼女は小娘ではないのだ。されるがままになってはいない。

「逃げるのかね、(しか)し逃げ道はありやしないぜ。わめいて見るかね。だが、地の底の穴蔵だ。誰も助けに来るものはあるまいよ」

 不明瞭な声が、毒々しくいいながら、逃げる彼女に、追い迫って来た。

 暗の中の、悲惨な鬼ごっこだった。

 何かにつまずいて、バッタリ倒れる倭文子。その上にのしかかって、抱きすくめようとする怪物。お互に顔も見えぬ、暗闇の触覚の争い。

 あの唇のない、赤い粘膜そのものの様な顔が、今にも彼女の頬にふれはしないかと、倭文子は、それを考えただけで、気の遠くなる程、怖かった。

「助けて、助けて」

 組みしかれた彼女は、絶え絶えの声で叫んだ。

「お前、茂に逢い度くないのかね。逢いたければ、おとなしくするがいいぜ」

 だが、倭文子は抵抗をやめなかった。

 おいつめられた鼠が、却って猫にはむかって行く、あのむごたらしい、死にもの狂いの力で、彼女は相手を突き倒そうとした。それがかなわぬと知ると、あさましいことだが、ふと口に触れた相手の指先を、思い切って、グニャッと()みしめたまま、放さなかった。

 怪物は悲鳴を上げた。

「放せ、放せ。こん畜生(ちくしょう)、さもないと……」

 丁度その時、天井の方から、またしても、茂少年の、絶え入る様な泣き声が聞こえて来た。

 ピシリ、ピシリ、残酷な(むち)の音だ。

「打て、打て、もっと打て。餓鬼(がき)が死んでも構わねえ」

 不明瞭な、ゾッとする様な、呪いのわめき声が、怪物の口からほとばしった。

「分ったか。お前が抵抗している間は、餓鬼の折檻をやめないのだ。お前の抵抗がひどければ、ひどい程、お前の子供は、死ぬ苦しみを受けるのだぞ」

 そういわれては、流石に(くわ)えている指を、放さぬ(わけ)には行かなかった。

 そして、彼女がグッタリ抵抗力を失うと、不思議なことに、上の泣き声も静まった。

 またしても、ヌメヌメと、襲いかかる怪物の触覚。

 ゾッとして、身を固くして、襲いかかるのを、払いのけると、

「ワーッ」

 と上る、子供の悲鳴、鞭の音。

 アア分った、怪物は何かの方法で、上にいる相棒に、指図をしているのだ。折檻させたり、やめさせたり、緩急自在に操って、倭文子を責める武器としているのだ。

 抵抗すれば、間接ながら、我がいとし子を死ねとばかり、責めさいなむも同然だ。アア、どうしたらいいのだ。こんな残酷な責道具が、この世にまたとあろうとは思われぬ。

 倭文子は、子供の様に、声を上げて泣き出してしまった。智恵も分別も尽きたからだ。

「とうとう、参ってしまったね。フフフフフフフ、どうせそうなるのだ。じたばたするだけ、無駄というものだ」

 耐えがたき圧迫感、耳元に響く嵐のような呼吸の音、熱い息。……

 その刹那、倭文子は、名状し難き困迷を覚えた。今彼女の上に、のしかかっているものの体臭に、微な記憶があったからだ。

「こいつは、決して見ず知らずの人間ではない。それどころか、いつか、非常に親しくしていたことのある男だ」

 知っている人だと思うと、彼女は猶更(なおさら)ゾッとした。今にも思い出せそうで、なかなか思い出せぬのが、非常に不気味であった。

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