吸血鬼

7話 妖術

6,801字 約14分 2017年10月21日 公開

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 月光に照らされて、倒れていたのは、小間使のお菊だ。えたいの知れない殺人魔は、矢継早に、第二の犠牲者を(ほふ)ったのであろうか。

 書生は気味悪がって、たじろいでいる(ひま)に、事に慣れた恒川警部は、いち早くお菊の側に駈け寄り、上半身を抱き起して、大声に名を呼んだ。

「大丈夫、御安心なさい。この人はどこにも傷を受けていません。気絶したばかりです」

 恒川警部の言葉に、一同ホッとして、近々と小間使を取囲んだ。

 やっと意識を取戻したお菊は、暫くあたりを見廻していたが、やがて何か思出した様子で、その青ざめた美しい顔には、何とも言えぬ恐怖の表情を浮べた。

「あれ、あすこです。あの茂みの中から覗いていたのです」

 彼女が、さも恐ろし相に、震える指先で、真暗に見える木立の蔭をさし示した時には、屈強な警官達でさえ、ゾッと、襟元に水をかけられた様な感じがした。

「誰です。誰が覗いていたのです」

 恒川氏が、せき込んで尋ねた。

「それは、あの、……アア、わたし怖くて、……」

 青白い月光、真暗な木立、怪物の様な物の影。その恐ろしい現場で今見たものの姿を話すのは、余りに怖いのだ。

「怖いことはない。僕等はこんなに多勢いるじゃないか。早くそれをいい給え、捜査上大切な手掛りなんだから」

 恒川氏は、小川の死骸紛失と、お菊の見たものとの間に、必然的な関係がある様に思ったのだ。

 せめ立てられて、お菊はやっと口を開いた。

 シグマが余り鳴き立てるものだから、傷口が痛むのかと、可哀相になって、見てやる積りで、犬小屋の側へ来て見ると、流石は猛犬、痛さなどで鳴いているのではなかった。

 何か怪しいものを見つけたのか、今いう木立の蔭を、遠くから睨みつけて(というのは、シグマは犬小屋に縛られていたので)勇敢に吠え立てていた。

 お菊は、思わず、犬の睨みつけている茂みを、すかして見た。すると、

「アア、わたし、思出してもゾッとします。生れてから、一度も見たことのない様な、恐ろしいものが、そこにいたのです」

「人間だね」

「エエ、でも、人間でないかも知れません。絵で見た骸骨の様に、長い歯が丸出しになって、鼻も唇もないのっぺらぼうで、目はまん丸に飛出しているのです」

「ハハハハハ、馬鹿なことを、君は怖い怖いと思っているものだから、幻でも見たんだろう。そんなお化があってたまるものか」

 何も知らぬ警官達は、お菊の言葉を一笑に附したが、その笑い声の終らぬ内に、またしても、シグマの恐ろしい唸り声が聞えて来た。

「ホラ、また吠えていますわ。アア、怖い。あいつは、まだその暗闇の中に、隠れているのではないのでしょうか」

 お菊は、おびえて恒川警部にしがみついた。

「変だね、誰か念の為に、あの辺を検べて見給え」

 司法主任が部下の巡査に命じた。そして、一人の巡査が、木立の中へ踏み込んで行こうとした時である。

「ワ、ワ、ワ、ワワワワワ」

 と、悲鳴とも何ともつかぬ叫声(さけびごえ)がして、お菊は恒川氏の胸に顔を埋めてしまった。彼女は再び怪物を見たのだ。

「ア、塀の上だ」

 巡査の声に、一同の視線が木立の斜向(ななめむこ)うの空に集まる。

 いた、いた。高いコンクリートの塀の上に、蹲って、じっとこちらを見ている怪物。

 半面に月を受けて、ニヤニヤと笑っている顔は、お菊の形容した通り、正しく生きた骸骨だ。

 この化物が、小川の下手人だとすれば、被害者の死体を(かかえ)ていなければならないのに、怪物は身軽な一人ぽっちだ。では、死体は(すで)にどこかへ隠してしまったのか。

 だが、こいつは下手人であろうと、なかろうと、異様な面体(めんてい)といい、夜中(やちゅう)他人の邸内をさまよう曲者、取押さえない訳には行かぬ。

「コラ、待てッ」

 警官達は、口々にわめきながら、塀際へと駈けつけた。

 怪物はいたずら小僧が「ここまでお出で」をする様な格好で、キ、キ、と不気味な声を立てたかと思うと、塀の向側へ姿を消した。

 ある者は塀をよじ昇って、ある者は門を迂廻(うかい)して、恒川氏と二人の警官とが、怪物のあとを追った。麹町の司法主任()けは、なお取調を行う為に、邸内に残った。

 塀外へ出て見ると、人通りもない屋敷町の、もう一丁程向うを、黒の鳥打帽に、短い黒いマントを(ひるがえ)して、走って行く怪物の姿が、月の光りでハッキリ分る。

 読者諸君は、この怪物の左手と右足が、義手義足であることは御存知だ。その不自由な身体で、杖もつかず、エッチラ、オッチラ、走る走る。かつて鹽の湯温泉の長い段梯子をかけ降りた調子である。義足だとて、使いなれると馬鹿にならぬものだ。

 警官達は、帯剣(たいけん)を握って走る。もつれる影、乱れる靴音。

 月下の大捕物(おおとりもの)だ。

 怪物は、近くの大通りへと走って行く。まだ(よい)(うち)だ、賑やかな大通りへ出たら、忽ち捕まってしまうと、高を括ったのは、大きな思い違いだった。

 町角を曲った所に、待ち構えていた一台の自動車、怪物の姿がその中へ消えたかと思うと、車は矢庭(やにわ)に走り出した。

 丁度向うから走って来る空タクシー。恒川警部は、すかさずそれを呼び止めると、警官一同を乗込ませ、

「あの車のあとを追っかけるのだ。賃銀は奮発(ふんぱつ)するぜ」

 と怒鳴った。

 賑やかな大通りを、横に折れると、淋しい町、淋しい町と、曲り曲って、飛ぶ様に走る怪物の車。

 残念ながら、追うものは、()りに撰ったボロ自動車。とても相手を追い抜く力はない。見失わぬ様について行くのはやっとである。その上、頼みに思う交番は、怪物の方で、巧みによけて通るのだ。

 神宮外苑(じんぐうがいえん)から、青山(あおやま)墓地を通り抜けて、暫く走ると、大邸宅の高い塀ばかり続く、非常に淋しい通りで、先の車がバッタリ止まったかと思うと、いきなり飛び出す黒マント。怪物は狭い横丁へと走り込んだ。

 ソレッとばかり、警官達は車を降りて、同じ横丁へ駈け込む。

 両側とも、一丈程もある高いコンクリート塀の、細い抜け道だ。見渡す限り、一丁ばかりの間、門一つなく、一直線に塀ばかりが続いている。

「オヤ、変だぜ。どこへ隠れたのか、影も形もありやしない」

 一人の巡査が横丁へ曲るや否や、ビックリして叫んだ。

 非常に変てこなことが起ったのだ。怪物が駈け込んでから、警官達が曲り角へ達するまで、ほんの数十秒、いくら足の早い奴でも、この横丁を通り抜けてしまう時間はない。

 昼の様に明るい月の光り、どこに一ヶ所、身を隠す場所とてはないのだ。

 いや、もっと確なことは、今しも横丁の向うから、ブラブラこちらへ歩いて来る通行人。近所の人と見えて、帽子も被らず着流しの散歩姿だが、その呑気らしい様子が、怪物と行違った人とは思われぬ。

「オーイ、今そちらへ走って行った奴はありませんかア」

 一人の巡査が大声に尋ねると、その男は、驚いて立止ったが、

「イイエ、誰も来ません」

 と答えた。

 警官達は、変な顔をして、両側の高いコンクリート塀を見上げた。

 何の手掛りもなく、一丈もある塀を、よじ昇ることは不可能だ。それに、警官達は知らなかったけれど、片足義足の怪物に、そんな芸当が出来る筈はない。

 どんな恐ろしい姿にもせよ、目の前に見えている内は、まだよかった。それが白々とした月光の下で、煙の様に消失(きえう)せてしまったと思うと、俄にゾッと気味が悪くなった。

 妖術だ。悪魔の妖術だ。

 だが、今の世に、そんな馬鹿馬鹿しいことがあるだろうか。

「ア、あんた、一寸待って下さい」

 恒川警部は、さい前の通りがかりの人が、すれ違って行くのを呼びとめた。

 彼は実に変なことを考えたのだった。さっきの怪物が、咄嗟(とっさ)の間に、風体を変えて、通行人に化けて、何気なく逃去るのではないかと思ったのだ。

「エ、何か御用ですか」

 その男は、びっくりしたように振返る。警部は無遠慮に、男の顔を覗き込んだが、無論、怪物とは似ても似つかぬ、整った容貌の青年だ。身体の格好から、服装から、何一つ似通った所はない。第一、その青年が怪物でない証拠には、左手右足共に完全で、義手も義足もつけていないのだ。

 いやいや、もっと確な証拠がある。というのは、恒川氏が念の為に、その男の姓名を尋ねると、彼は実に意外な答えをしたのである。

「僕ですか。僕は三谷房夫というものです」

 それを聞くと、追手に加わっていた、麹町署の巡査が、びっくりして声をかけた。

「アア、三谷さんでしたか。あなたはこの辺にお住いなんですか」

「エエ、ついこの先の青山アパートにいるんです」

「この人なら、畑柳家の知合の人ですよ、ホラ、(せん)だって、上野公園の事件のとき、畑柳夫人に化けて、子供を取り戻しに行った、あの三谷さんです」

 巡査は青年を見覚ていて、一同に紹介した。恒川氏も三谷の名は聞いていた。

「今日も夕方まで畑柳にいて、さっき帰って食事と入浴をすませたばかりです。それにしても、あなた方は、やっぱり畑柳の事件で……」

「そうです。また奇妙な殺人事件があって、その犯人と覚しき怪物をここまで追いつめたのですが……」

 と恒川氏は手短に仔細を語った。

「アア、その化物なら、倭文子さんが、一度鹽原温泉で姿を見たことがありますよ。すると、あれはやっぱり幻ではなかったのだ。今度の事件には、最初から、そいつが関係していたに違いありません」

「ホウ、そんなことがあったのですか。それでは猶更(なおさら)、あの化物を引捕えなければならん。しかし、一体どうして消失せてしまったのか、少しも見当がつかぬのです」

「イヤ。それについて、思い当ることがあります」

 三谷は一方のコンクリート塀を見上げながら、調子を変えていった。

「この塀の向うに妙な家があるのです。僕はよくこの辺を通るので、気をつけて見ているのですが、いつも戸が締めてあって空家かと思うと、夜中(よなか)に燈火が()れていたりする、実に変な家です。人の泣き叫ぶ声を聞いたという者もある位で、近所では化物屋敷だといっているのです。()しや、その怪物は、どうかしてこの塀を乗り越して、今いう化物屋敷へはいったのではないでしょうか。そこが、悪人達の巣窟(そうくつ)ではありますまいか」

 あとになって、考えると、この塀外で、警官達が偶然にも三谷青年に出会ったのが、悪魔の運の尽きであった。

 とも角も、三谷のいった怪屋を(しら)べて見ることにして、一人の巡査を、念の為に、塀の所へ残して置いて、三谷青年を先頭に、恒川警部ともう一人の巡査とが迂廻(うかい)して、その家の表口に廻った。

 同じ様な門構えで、一軒立ちの、さして広くない邸が並んでいる。怪屋というのは、その一方の(はし)にあるのだ。

 門の戸は(あけ)っ放しだ。三人はかまわず門内には()って、玄関の格子戸を引いて見ると、何の手答えもなく、ガラガラと開いた。

 中は真暗だ。声をかけても、誰も出て来るものはない。

 なる程変な家である。まだ宵の内とはいえ、何という不用心なことであろう。悪人の巣窟だとすれば、なお更のことだ。それとも、こうして開けっ放しにしておくのが、彼奴(きゃつ)らの深いたくらみなのだろうか。

 流石(さすが)に、無暗(むやみ)()()む訳にも行かぬので、一同玄関の土間にためらっていると、奥の方から、幽かに誰かの泣きじゃくる声が漏れて来た。

「泣いている。子供の様だね」

 恒川氏が聞き耳を立てた。

「アア、あの声は畑柳の茂さんじゃないでしょうか」

 三谷がふと気づいて囁いた。

「茂? 畑柳夫人の子供ですね。そうだ。ここが果して犯人の住家だとすれば、その子供も、畑柳夫人も、この家のどこかにとじこめられている筈だ。……踏ん込んで見ましょう」

 恒川警部は臨機の所置をとる決心をした。

「君は門の外へ出て、逃げ出す奴があったら、引捕えてくれ給え」

 彼は傍らの巡査に命じて置いて、三谷と共に、玄関の式台を上った。

 真暗な部屋部屋を、手探りで探し廻ったが、人の気配もせぬ。

 二人は思い切って、手分けをして、一部屋一部屋、電燈をつけて廻ることにした。

 恒川警部は、最後に、最も奥まった座敷へ踏み込んだが、どの部屋も、どの部屋も、空っぽなので、ここもどうせ空部屋であろうと、高を括って、何気なくスイッチをひねると!

 アッと思う間に、黒い風の様なものが、部屋を横切って、一方の廊下へ飛び出した。

「ヤ、曲者!」

 警部の声に、怪しい男は、敷居をまたぎながら、ひょいと振返った。その顔! 畑柳家の塀の上で笑っていた、あの骸骨みたいな奴だ。唇のない男だ。

「三谷君、あいつだ。あいつがそちらへ逃げた。ひっとらえてくれ」

 警部はわめきながら、廊下へ飛出して怪物を追駈けた。

「どこです。どこです」

 廊下の行止りの部屋から三谷の声が聞えた。

 飛び出して来る人影。恒川氏は、廊下の真中で三谷青年にぶつかった。

「あの骸骨みたいな奴だ。君はすれ違わなかったか」

「イイエ、こちらの部屋へは誰も来ませんよ」

 怪物は確に、廊下を左へ曲った。その方角には三谷の出て来た部屋があるばかりで、両側は閉め切った雨戸と壁だ。怪物は再び、一瞬間にして消え失せてしまったのである。

 またしても悪魔の妖術だ!

 二人は気違いの様に、部屋から部屋へと歩き廻った。襖という襖は開け放され、戸棚も押入れも、人の隠れ得る場所は、便所の隅までも捜索された。

 雨戸を密閉してあったので、そこから外へ逃げ出す心配はない。逃げ出せば音がするし、掛金をはずす時間もかかるのだ。

 二人は捜しあぐんで、とある部屋に突っ立ったまま暫く顔を見合わせていたが、突然三谷が顔色を変えて囁いた。

「ホラ、聞えますか。あれはやっぱり子供の泣き声ですよ」

 どこからともなく、物憂い様な泣声が、幽かに幽かに漏れて来るのだ。

 二人は耳をすまし、足音を忍ばせて、泣き声をたよりに進んで行った。

「何だか台所の方らしいですね」

 三谷はいいながら、その方へ歩いて行く。

 だが、台所はさっき調べた時、何の異常もなかった。電燈もその時つけたままだ。

「そんな筈はないのだが」

 と恒川警部が躊躇している間に、三谷はもう台所の敷居をまたいでいた。と同時に「アッ」というただならぬ叫び声。

 恒川氏は驚いて駈けつけて見ると、三谷は、真青になって、台所の片隅を見つめたまま、立ちすくんでいた。

「どうしたんです」

 と尋ねる警部の声を制して、三谷は、聞えるか聞えないかの囁き声で答える。

「あいつです。あいつがこの上げ板を取って、縁の下へ這入って行ったのです」

 台所の板の間が、炭などを入れる為の上げ蓋になっている、よくある奴だ。

 警部は、勇敢に飛んで行って、その上げ板をめくって見た。

「ヤ、地下室だ」

 板の下は、意外にも、コンクリートの階段になっていた。その部分()け箱の様に、床下とは遮断されているので、怪物は外へ逃げることは出来ぬ。地下室へ降りたに(きま)っている。もう袋の鼠だ。

 二人は、用心しながら、真暗な階段を下って行った。先に立つ恒川氏は、帯剣の柄を握りしめている。

 階段を降り切った所に扉があって、その隙間から幽かな光りが漏れて来る。泣き声が俄に大きくなったのを見ると、子供はたしかにこの扉の向うにいるのだ。

 どうしたことか、鍵穴には鍵をさしたままになっている。恒川氏は手早くそれを廻して、扉を開いた。

 二人は扉を小楯(こだて)に、部屋の中を覗き込んだ。と同時に、外からも、中からも、驚きと喜びの叫び声。

 部屋の中には、淡いカンテラの光に照らされて、倭文子と茂が抱き合っていたのだ。

 飛込んで行く三谷青年、すがりつく倭文子。

 だが、恒川警部は、この感激の場面をよそに、不満らしい顔をして、キョロキョロと部屋を見廻していた。肝腎(かんじん)の賊の姿が見えぬのだ。

 今来た階段の外に、どこにも出入口はない。確にここへ逃げ込んだ怪物が、またしても消え失せてしまったのだ。

 倭文子に尋ねると、賊は昨夜茂をこの部屋へ連れて来て、立去ったまま、一度も顔を見せぬということであった。茂は、終日食事を与えられぬ空腹と、恐怖の為に泣いていたのだ。

 恒川警部は、壁のカンテラをはずして、階段を上から下まで検べて見たが、どこにも隠戸や抜道はなかった。

 結局、誘拐された畑柳母子を取戻すことは成功したけれど、その犯人の逮捕は全く失敗に終った。

 表の門、裏の塀外に見張りをしていた二人の巡査に尋ねても、誰も家から出たものはないとの答えであった。

 見張りはそのままに続けさせて置いて、附近の電話で、応援の警官を呼びよせ、その夜から翌日にかけて、邸内は申すに及ばず、両隣の庭までも、残す所なく捜索したけれど、犯人は勿論、たった一つの足跡さえも発見することは出来なかった。

 怪物は不具者の身を(もっ)て、どうして一(じょう)もあるコンクリート塀を乗り越すことが出来たか。(附近には足場になる様な電柱も立木もなかった)また、邸内で、恒川氏と三谷とに、はさみ撃ちになった時、一瞬の間にどこへ身を隠し得たか。その様な隠れ場所は一つもなかった。更に、明かに地下室へ姿を消した怪物が、どうしてそこにいなかったか。(すべ)て、全く、解き難い謎であった。

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