7話 妖術
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月光に照らされて、倒れていたのは、小間使のお菊だ。えたいの知れない殺人魔は、矢継早に、第二の犠牲者を屠ったのであろうか。
書生は気味悪がって、たじろいでいる暇に、事に慣れた恒川警部は、いち早くお菊の側に駈け寄り、上半身を抱き起して、大声に名を呼んだ。
「大丈夫、御安心なさい。この人はどこにも傷を受けていません。気絶したばかりです」
恒川警部の言葉に、一同ホッとして、近々と小間使を取囲んだ。
やっと意識を取戻したお菊は、暫くあたりを見廻していたが、やがて何か思出した様子で、その青ざめた美しい顔には、何とも言えぬ恐怖の表情を浮べた。
「あれ、あすこです。あの茂みの中から覗いていたのです」
彼女が、さも恐ろし相に、震える指先で、真暗に見える木立の蔭をさし示した時には、屈強な警官達でさえ、ゾッと、襟元に水をかけられた様な感じがした。
「誰です。誰が覗いていたのです」
恒川氏が、せき込んで尋ねた。
「それは、あの、……アア、わたし怖くて、……」
青白い月光、真暗な木立、怪物の様な物の影。その恐ろしい現場で今見たものの姿を話すのは、余りに怖いのだ。
「怖いことはない。僕等はこんなに多勢いるじゃないか。早くそれをいい給え、捜査上大切な手掛りなんだから」
恒川氏は、小川の死骸紛失と、お菊の見たものとの間に、必然的な関係がある様に思ったのだ。
せめ立てられて、お菊はやっと口を開いた。
シグマが余り鳴き立てるものだから、傷口が痛むのかと、可哀相になって、見てやる積りで、犬小屋の側へ来て見ると、流石は猛犬、痛さなどで鳴いているのではなかった。
何か怪しいものを見つけたのか、今いう木立の蔭を、遠くから睨みつけて(というのは、シグマは犬小屋に縛られていたので)勇敢に吠え立てていた。
お菊は、思わず、犬の睨みつけている茂みを、すかして見た。すると、
「アア、わたし、思出してもゾッとします。生れてから、一度も見たことのない様な、恐ろしいものが、そこにいたのです」
「人間だね」
「エエ、でも、人間でないかも知れません。絵で見た骸骨の様に、長い歯が丸出しになって、鼻も唇もないのっぺらぼうで、目はまん丸に飛出しているのです」
「ハハハハハ、馬鹿なことを、君は怖い怖いと思っているものだから、幻でも見たんだろう。そんなお化があってたまるものか」
何も知らぬ警官達は、お菊の言葉を一笑に附したが、その笑い声の終らぬ内に、またしても、シグマの恐ろしい唸り声が聞えて来た。
「ホラ、また吠えていますわ。アア、怖い。あいつは、まだその暗闇の中に、隠れているのではないのでしょうか」
お菊は、おびえて恒川警部にしがみついた。
「変だね、誰か念の為に、あの辺を検べて見給え」
司法主任が部下の巡査に命じた。そして、一人の巡査が、木立の中へ踏み込んで行こうとした時である。
「ワ、ワ、ワ、ワワワワワ」
と、悲鳴とも何ともつかぬ叫声がして、お菊は恒川氏の胸に顔を埋めてしまった。彼女は再び怪物を見たのだ。
「ア、塀の上だ」
巡査の声に、一同の視線が木立の斜向うの空に集まる。
いた、いた。高いコンクリートの塀の上に、蹲って、じっとこちらを見ている怪物。
半面に月を受けて、ニヤニヤと笑っている顔は、お菊の形容した通り、正しく生きた骸骨だ。
この化物が、小川の下手人だとすれば、被害者の死体を抱ていなければならないのに、怪物は身軽な一人ぽっちだ。では、死体は已にどこかへ隠してしまったのか。
だが、こいつは下手人であろうと、なかろうと、異様な面体といい、夜中他人の邸内をさまよう曲者、取押さえない訳には行かぬ。
「コラ、待てッ」
警官達は、口々にわめきながら、塀際へと駈けつけた。
怪物はいたずら小僧が「ここまでお出で」をする様な格好で、キ、キ、と不気味な声を立てたかと思うと、塀の向側へ姿を消した。
ある者は塀をよじ昇って、ある者は門を迂廻して、恒川氏と二人の警官とが、怪物のあとを追った。麹町の司法主任丈けは、なお取調を行う為に、邸内に残った。
塀外へ出て見ると、人通りもない屋敷町の、もう一丁程向うを、黒の鳥打帽に、短い黒いマントを飜して、走って行く怪物の姿が、月の光りでハッキリ分る。
読者諸君は、この怪物の左手と右足が、義手義足であることは御存知だ。その不自由な身体で、杖もつかず、エッチラ、オッチラ、走る走る。かつて鹽の湯温泉の長い段梯子をかけ降りた調子である。義足だとて、使いなれると馬鹿にならぬものだ。
警官達は、帯剣を握って走る。もつれる影、乱れる靴音。
月下の大捕物だ。
怪物は、近くの大通りへと走って行く。まだ宵の内だ、賑やかな大通りへ出たら、忽ち捕まってしまうと、高を括ったのは、大きな思い違いだった。
町角を曲った所に、待ち構えていた一台の自動車、怪物の姿がその中へ消えたかと思うと、車は矢庭に走り出した。
丁度向うから走って来る空タクシー。恒川警部は、すかさずそれを呼び止めると、警官一同を乗込ませ、
「あの車のあとを追っかけるのだ。賃銀は奮発するぜ」
と怒鳴った。
賑やかな大通りを、横に折れると、淋しい町、淋しい町と、曲り曲って、飛ぶ様に走る怪物の車。
残念ながら、追うものは、撰りに撰ったボロ自動車。とても相手を追い抜く力はない。見失わぬ様について行くのはやっとである。その上、頼みに思う交番は、怪物の方で、巧みによけて通るのだ。
神宮外苑から、青山墓地を通り抜けて、暫く走ると、大邸宅の高い塀ばかり続く、非常に淋しい通りで、先の車がバッタリ止まったかと思うと、いきなり飛び出す黒マント。怪物は狭い横丁へと走り込んだ。
ソレッとばかり、警官達は車を降りて、同じ横丁へ駈け込む。
両側とも、一丈程もある高いコンクリート塀の、細い抜け道だ。見渡す限り、一丁ばかりの間、門一つなく、一直線に塀ばかりが続いている。
「オヤ、変だぜ。どこへ隠れたのか、影も形もありやしない」
一人の巡査が横丁へ曲るや否や、ビックリして叫んだ。
非常に変てこなことが起ったのだ。怪物が駈け込んでから、警官達が曲り角へ達するまで、ほんの数十秒、いくら足の早い奴でも、この横丁を通り抜けてしまう時間はない。
昼の様に明るい月の光り、どこに一ヶ所、身を隠す場所とてはないのだ。
いや、もっと確なことは、今しも横丁の向うから、ブラブラこちらへ歩いて来る通行人。近所の人と見えて、帽子も被らず着流しの散歩姿だが、その呑気らしい様子が、怪物と行違った人とは思われぬ。
「オーイ、今そちらへ走って行った奴はありませんかア」
一人の巡査が大声に尋ねると、その男は、驚いて立止ったが、
「イイエ、誰も来ません」
と答えた。
警官達は、変な顔をして、両側の高いコンクリート塀を見上げた。
何の手掛りもなく、一丈もある塀を、よじ昇ることは不可能だ。それに、警官達は知らなかったけれど、片足義足の怪物に、そんな芸当が出来る筈はない。
どんな恐ろしい姿にもせよ、目の前に見えている内は、まだよかった。それが白々とした月光の下で、煙の様に消失せてしまったと思うと、俄にゾッと気味が悪くなった。
妖術だ。悪魔の妖術だ。
だが、今の世に、そんな馬鹿馬鹿しいことがあるだろうか。
「ア、あんた、一寸待って下さい」
恒川警部は、さい前の通りがかりの人が、すれ違って行くのを呼びとめた。
彼は実に変なことを考えたのだった。さっきの怪物が、咄嗟の間に、風体を変えて、通行人に化けて、何気なく逃去るのではないかと思ったのだ。
「エ、何か御用ですか」
その男は、びっくりしたように振返る。警部は無遠慮に、男の顔を覗き込んだが、無論、怪物とは似ても似つかぬ、整った容貌の青年だ。身体の格好から、服装から、何一つ似通った所はない。第一、その青年が怪物でない証拠には、左手右足共に完全で、義手も義足もつけていないのだ。
いやいや、もっと確な証拠がある。というのは、恒川氏が念の為に、その男の姓名を尋ねると、彼は実に意外な答えをしたのである。
「僕ですか。僕は三谷房夫というものです」
それを聞くと、追手に加わっていた、麹町署の巡査が、びっくりして声をかけた。
「アア、三谷さんでしたか。あなたはこの辺にお住いなんですか」
「エエ、ついこの先の青山アパートにいるんです」
「この人なら、畑柳家の知合の人ですよ、ホラ、先だって、上野公園の事件のとき、畑柳夫人に化けて、子供を取り戻しに行った、あの三谷さんです」
巡査は青年を見覚ていて、一同に紹介した。恒川氏も三谷の名は聞いていた。
「今日も夕方まで畑柳にいて、さっき帰って食事と入浴をすませたばかりです。それにしても、あなた方は、やっぱり畑柳の事件で……」
「そうです。また奇妙な殺人事件があって、その犯人と覚しき怪物をここまで追いつめたのですが……」
と恒川氏は手短に仔細を語った。
「アア、その化物なら、倭文子さんが、一度鹽原温泉で姿を見たことがありますよ。すると、あれはやっぱり幻ではなかったのだ。今度の事件には、最初から、そいつが関係していたに違いありません」
「ホウ、そんなことがあったのですか。それでは猶更、あの化物を引捕えなければならん。しかし、一体どうして消失せてしまったのか、少しも見当がつかぬのです」
「イヤ。それについて、思い当ることがあります」
三谷は一方のコンクリート塀を見上げながら、調子を変えていった。
「この塀の向うに妙な家があるのです。僕はよくこの辺を通るので、気をつけて見ているのですが、いつも戸が締めてあって空家かと思うと、夜中に燈火が漏れていたりする、実に変な家です。人の泣き叫ぶ声を聞いたという者もある位で、近所では化物屋敷だといっているのです。若しや、その怪物は、どうかしてこの塀を乗り越して、今いう化物屋敷へはいったのではないでしょうか。そこが、悪人達の巣窟ではありますまいか」
あとになって、考えると、この塀外で、警官達が偶然にも三谷青年に出会ったのが、悪魔の運の尽きであった。
とも角も、三谷のいった怪屋を検べて見ることにして、一人の巡査を、念の為に、塀の所へ残して置いて、三谷青年を先頭に、恒川警部ともう一人の巡査とが迂廻して、その家の表口に廻った。
同じ様な門構えで、一軒立ちの、さして広くない邸が並んでいる。怪屋というのは、その一方の端にあるのだ。
門の戸は開っ放しだ。三人はかまわず門内には入って、玄関の格子戸を引いて見ると、何の手答えもなく、ガラガラと開いた。
中は真暗だ。声をかけても、誰も出て来るものはない。
なる程変な家である。まだ宵の内とはいえ、何という不用心なことであろう。悪人の巣窟だとすれば、なお更のことだ。それとも、こうして開けっ放しにしておくのが、彼奴らの深いたくらみなのだろうか。
流石に、無暗に踏ん込む訳にも行かぬので、一同玄関の土間にためらっていると、奥の方から、幽かに誰かの泣きじゃくる声が漏れて来た。
「泣いている。子供の様だね」
恒川氏が聞き耳を立てた。
「アア、あの声は畑柳の茂さんじゃないでしょうか」
三谷がふと気づいて囁いた。
「茂? 畑柳夫人の子供ですね。そうだ。ここが果して犯人の住家だとすれば、その子供も、畑柳夫人も、この家のどこかにとじこめられている筈だ。……踏ん込んで見ましょう」
恒川警部は臨機の所置をとる決心をした。
「君は門の外へ出て、逃げ出す奴があったら、引捕えてくれ給え」
彼は傍らの巡査に命じて置いて、三谷と共に、玄関の式台を上った。
真暗な部屋部屋を、手探りで探し廻ったが、人の気配もせぬ。
二人は思い切って、手分けをして、一部屋一部屋、電燈をつけて廻ることにした。
恒川警部は、最後に、最も奥まった座敷へ踏み込んだが、どの部屋も、どの部屋も、空っぽなので、ここもどうせ空部屋であろうと、高を括って、何気なくスイッチをひねると!
アッと思う間に、黒い風の様なものが、部屋を横切って、一方の廊下へ飛び出した。
「ヤ、曲者!」
警部の声に、怪しい男は、敷居をまたぎながら、ひょいと振返った。その顔! 畑柳家の塀の上で笑っていた、あの骸骨みたいな奴だ。唇のない男だ。
「三谷君、あいつだ。あいつがそちらへ逃げた。ひっとらえてくれ」
警部はわめきながら、廊下へ飛出して怪物を追駈けた。
「どこです。どこです」
廊下の行止りの部屋から三谷の声が聞えた。
飛び出して来る人影。恒川氏は、廊下の真中で三谷青年にぶつかった。
「あの骸骨みたいな奴だ。君はすれ違わなかったか」
「イイエ、こちらの部屋へは誰も来ませんよ」
怪物は確に、廊下を左へ曲った。その方角には三谷の出て来た部屋があるばかりで、両側は閉め切った雨戸と壁だ。怪物は再び、一瞬間にして消え失せてしまったのである。
またしても悪魔の妖術だ!
二人は気違いの様に、部屋から部屋へと歩き廻った。襖という襖は開け放され、戸棚も押入れも、人の隠れ得る場所は、便所の隅までも捜索された。
雨戸を密閉してあったので、そこから外へ逃げ出す心配はない。逃げ出せば音がするし、掛金をはずす時間もかかるのだ。
二人は捜しあぐんで、とある部屋に突っ立ったまま暫く顔を見合わせていたが、突然三谷が顔色を変えて囁いた。
「ホラ、聞えますか。あれはやっぱり子供の泣き声ですよ」
どこからともなく、物憂い様な泣声が、幽かに幽かに漏れて来るのだ。
二人は耳をすまし、足音を忍ばせて、泣き声をたよりに進んで行った。
「何だか台所の方らしいですね」
三谷はいいながら、その方へ歩いて行く。
だが、台所はさっき調べた時、何の異常もなかった。電燈もその時つけたままだ。
「そんな筈はないのだが」
と恒川警部が躊躇している間に、三谷はもう台所の敷居をまたいでいた。と同時に「アッ」というただならぬ叫び声。
恒川氏は驚いて駈けつけて見ると、三谷は、真青になって、台所の片隅を見つめたまま、立ちすくんでいた。
「どうしたんです」
と尋ねる警部の声を制して、三谷は、聞えるか聞えないかの囁き声で答える。
「あいつです。あいつがこの上げ板を取って、縁の下へ這入って行ったのです」
台所の板の間が、炭などを入れる為の上げ蓋になっている、よくある奴だ。
警部は、勇敢に飛んで行って、その上げ板をめくって見た。
「ヤ、地下室だ」
板の下は、意外にも、コンクリートの階段になっていた。その部分丈け箱の様に、床下とは遮断されているので、怪物は外へ逃げることは出来ぬ。地下室へ降りたに極っている。もう袋の鼠だ。
二人は、用心しながら、真暗な階段を下って行った。先に立つ恒川氏は、帯剣の柄を握りしめている。
階段を降り切った所に扉があって、その隙間から幽かな光りが漏れて来る。泣き声が俄に大きくなったのを見ると、子供はたしかにこの扉の向うにいるのだ。
どうしたことか、鍵穴には鍵をさしたままになっている。恒川氏は手早くそれを廻して、扉を開いた。
二人は扉を小楯に、部屋の中を覗き込んだ。と同時に、外からも、中からも、驚きと喜びの叫び声。
部屋の中には、淡いカンテラの光に照らされて、倭文子と茂が抱き合っていたのだ。
飛込んで行く三谷青年、すがりつく倭文子。
だが、恒川警部は、この感激の場面をよそに、不満らしい顔をして、キョロキョロと部屋を見廻していた。肝腎の賊の姿が見えぬのだ。
今来た階段の外に、どこにも出入口はない。確にここへ逃げ込んだ怪物が、またしても消え失せてしまったのだ。
倭文子に尋ねると、賊は昨夜茂をこの部屋へ連れて来て、立去ったまま、一度も顔を見せぬということであった。茂は、終日食事を与えられぬ空腹と、恐怖の為に泣いていたのだ。
恒川警部は、壁のカンテラをはずして、階段を上から下まで検べて見たが、どこにも隠戸や抜道はなかった。
結局、誘拐された畑柳母子を取戻すことは成功したけれど、その犯人の逮捕は全く失敗に終った。
表の門、裏の塀外に見張りをしていた二人の巡査に尋ねても、誰も家から出たものはないとの答えであった。
見張りはそのままに続けさせて置いて、附近の電話で、応援の警官を呼びよせ、その夜から翌日にかけて、邸内は申すに及ばず、両隣の庭までも、残す所なく捜索したけれど、犯人は勿論、たった一つの足跡さえも発見することは出来なかった。
怪物は不具者の身を以て、どうして一丈もあるコンクリート塀を乗り越すことが出来たか。(附近には足場になる様な電柱も立木もなかった)また、邸内で、恒川氏と三谷とに、はさみ撃ちになった時、一瞬の間にどこへ身を隠し得たか。その様な隠れ場所は一つもなかった。更に、明かに地下室へ姿を消した怪物が、どうしてそこにいなかったか。凡て、全く、解き難い謎であった。