吸血鬼

8話 名探偵

8,127字 約16分 2017年10月21日 公開

読み方を変える
字の大きさ
行の間隔
1行の長さ
書体
配色
組み方

 不思議は、青山の怪屋で、唇のない男が、三たび消失(きえう)せたことばかりではなかった。

 同じ日の夕方、突然畑柳家を訪ねた、小川正一とは(そもそ)も何人であったか、彼はなぜ無断で故畑柳氏の書斎へ入り、内側から戸締りをしたか、誰が彼を殺したのか。その下手人は、戸締りした部屋から、どうして逃出すことが出来たか。

 更に奇怪中の奇怪事は、書斎に打倒(ぶったお)れていた、血みどろの小川の死体が、()ぜ、誰によって、どこへ、運び出されてしまったのか。

 恒川氏は、唇のない男が、この小川の下手人であって、彼奴(きゃつ)が書斎から死骸を運び出し、どこかへ隠したのだと考えたが、なるほど妖術家の彼奴なら、この不可思議を為しとげ得たかも知れぬのだ。だが、その死体をどこへ隠してしまったのか。彼奴が畑柳家の塀を越して逃げ出す時には、全く単身であった。すると、死骸は邸内のどこかに隠してなければならぬ筈なのに、あのときあとに残った、麹町の司法主任が、屋内屋外、一寸角も余さず、検べ廻ったにもかかわらず、死骸は勿論、何の手掛りらしいものさえ、発見出来なかったのは、実に不思議といわねばならぬ。

 それはさて置き、恒川警部の努力によって、畑柳倭文子と茂少年を、無事取戻すことが出来たのは、何よりの仕合(しあわ)せであった。

 邸に帰ると、茂少年は、恐怖と疲労の為に、発熱して床につく、倭文子も唇のない男の、何ともいえぬいやらしい姿、ヌルヌルした歯ぐきの感触が忘れられず、恥かしさ、腹立たしさに、二三日の間は、一間にとじこもったまま、ほとんど誰にも顔を合わせなかった。

 恒川氏は両人に犯人捜査上手懸りとなるべきことを、色々に訊ねて見たが、結局読者に分っている以上の事柄は、何も発見されなかった。茂少年を鞭打った人物も、ただ「顔を黒い布で包んだ小父さん」という外には、何も分らなかった。

 三谷青年は、毎日の様に見舞にやって来た。彼の方から来ぬ時は、倭文子が待兼ねて電話で呼び寄せた。

 親戚といっても、立入って口出しをする程の近しい人はなかったし、斎藤老人は実直一方の好々爺(こうこうや)で、こんな時の力にはならなかった。乳母のお波は、多弁で、正直で、涙もろい外に取柄のない女だ。恋愛関係は別にしても、倭文子としては、さしずめ、三谷青年をたよる外はなかったのである。

 二三日は別段の出来事もなく過去った。が、獲物を奪われた悪魔が、そのまま指を(くわ)えて引込んでしまう筈はなかった。やがてまた、倭文子の身辺に、何ともいえぬ変なことが起り始めた。

 彼女は、ある時は寝室の窓に、ある時は化粧室の鏡の中に、またある時は、客間のドアの蔭にさえ、あの恐ろしい怪物の顔が、ソッと彼女を覗いているのに気付いた。

 どこから、どうして這入ってくるのか、いつの間に逃げて行くのか、書生などが、いくら素早く追っかけて見ても、相手を捕えることは出来なかった。

 警察でも犯人捜査に手を尽していたのだけれど、流石の恒川警部も、この妖術使いにかかっては、ほとんど手も足も出ない有様であった。

 三谷は、恋人が、日一日と憔悴(しょうすい)して行く様子を、見るに見兼ねて、ある日、とうとう窮余の一策を案じ出した。

 彼は倭文子の同意を得て、お(ちゃ)(みず)の「開化(かいか)アパート」を訪ねた。そこに有名な素人探偵、明智小五郎(あけちこごろう)が住んでいたのだ。

 三谷は新聞記事などで、この名探偵の噂を聞いていたばかりでなく、紹介状を手に入れる便宜(べんぎ)もあった。

 訪ねて見ると、丁度幸いなことには、名探偵は、関係していた事件が、どれも落着して、無事に苦しんでいる(ところ)だったので、三谷は喜んで迎えられた。

 素人探偵明智小五郎は「開化アパート」の二階表側の三室を借り受け、そこを住居なり事務所なりにしていた。

 三谷がドアを叩くと、十五六歳の、林檎の様な頬をした、詰襟服(つめえりふく)の少年が取次に出た。名探偵の小さいお弟子である。

 明智小五郎をよく知っている読者諸君にも、この少年は初の御目見えであるが、その外に、この探偵事務所には、もう一人、妙な助手がふえていた。文代さんという、美しい娘だ。

 この美人探偵助手が、どうしてここへ来ることになったか、彼女と明智とが、どんな風の間柄であるか、等々は「魔術師」と題する探偵物語に詳しく記されているのだが、三谷は、()ねて噂を聞いていたので、一目で、これが、素人探偵の、有名な恋人だなと、(うなず)くことが出来た。

 明智は客間の大きな肘掛椅子に凭れて、好物のフィガロという埃及煙草(エジプトたばこ)を吹かしていた。その紫色の煙幕を隔てて、有名なモジャモジャ頭と、(むぜん)の、どことなく愛嬌のある混血児の様な顔と、その癖鋭い目とがあった。

 美しい文代さんは、よく似合った洋装の裾を(ひるがえ)して、快活に客をもてなした。彼女の小鳥の様な明るい笑声が、このいかめしい探偵事務所に、新婚の家庭の様な華やかな空気を漂わせていた。

 三谷は、文代さんの入れてくれたお茶を(すす)りながら、鹽原温泉以来の出来事を、少しも隠さず、詳しく物語った。

「何もかも訳の分らぬことばかりです。到る所で、あり得ないことが起っているのです。私は妖術なんてものを信じることは出来ません。しかも妖術とでも考える外に、解釈の仕様もない事柄ばかりです」

 三谷は憮然(ぶぜん)としていった。

「巧な犯罪は、いつでも、妖術の様に見えるのです」

 明智は、絶えず、一種奇妙な微笑を浮べて、三谷の話を聞いていたが、やっと口を開いた。

「ところで、その唇のない男は、一体何者だと思います。あなた方は全くお心当りがないのですか」

 明智は、相手の心の奥底に潜んでいるものを、見通している様な調子で尋ねた。

「アア、若しや、あなたもそれをお気づきなすったのではありませんか」

 三谷は、ギョッと恐怖の表情を浮べて、明智の目色を読みながらいった。

「実は、まだ誰にも話したことはありませんが、私はある恐ろしい疑いを持っているのです。払のけても、その悪夢の様な疑いが、頭の隅にこびりついていて、離れぬのです」

 彼はそこまでいって、ふと口をつぐみ、あたりを見廻した。文代も、隣室に退き、客間には、主客二人切りだ。

「誰も聞いているものはありません。で、あなたの疑いというのは?」

 明智が先を促した。

「例えばですね」三谷は何かいいにく相に、「硫酸か何かで、ひどく焼けただれた皮膚(ひふ)癒着(ゆちゃく)するのには、どれ程の日数がかかりましょう。半月もあれば十分ではないでしょうか」

「そうですね。半月位のものでしょうね」

 明智は、何ぜか、面白くてたまらぬといった調子で答えた。

「すると、ある恐ろしい想像が、成立つのです」

 三谷は青い顔をして話しつづける。

「今度の犯人は、茂を誘拐して、身代金を要求した所を見ると、金銭が目的の様ですが、実は金銭などは(じゅう)であって、茂の母を手に入れるのが、第一の目的ではなかったかと思うのです。それが証拠に、あの時も、身代金は必ず倭文子自身で持参せよという、条件がついていました」

「成程、成程」

 明智は非常に興味をそそられて、合槌(あいづち)を打った。

「ところで、例の化物みたいな男が、鹽原温泉に現われたのは、さっきお話した岡田道彦が、温泉宿を出発してから、丁度半月程のちなのです」

 三谷は、声をひそめて、思い切った調子でいった。

「だが、その岡田は滝壺に身を投げて、失恋の自殺を遂げたのではありませんか」

「と、世間は信じているのです。ところが、岡田の死体が発見されたのは、死後十日以上たっていて、ただ、着物や持物、年配、背格好などの一致で、単純に、それを極められてしまったに過ぎません」

「ホウ、すると、顔などは、もう皮膚がくずれていたのですね」

 明智は膝に手をついて、ちょっと身体を乗り出す様にした。

「そうです。川を流れて来る間に、岩角に当ったという風に、顔はほとんど赤はげになっていました」

「するとつまり、あなたのお考えは、川を流れて来たのは、岡田の着物を着た別人の死体であって、本物の岡田は、硫酸か何かをあびて、化物みたいな面相になって、生き残っているというのですね」

「その上、完全な手足を義手義足と見せかけて、この世に籍のない、謂わば仮空の人物になりすましたのです。失恋の鬼となって、悪魔の恋を成就(じょうじゅ)したのです」

「常識では考え得ない心理だ」

 明智は首をかしげて、独言の様に呟く。

「それは、あなたが、岡田という男をご存じないからです。あいつは気違いです。職業は画家でしたが、芸術家なんてものは、我々に想像出来ない、えたいの知れぬ気持を持っているものです」

 三谷は、嘗つて岡田が宿を立去り際に、三谷と倭文子の死体写真を拵えて、残して行ったことを語った。

 明智は黙って聞いている。

「あいつの恋は恐ろしい程でした。私に、毒薬決闘を申込んだのも岡田です。そればかりではありません。あいつが温泉宿に滞在中の一ヶ月ばかり、倭文子さんをつけ廻した様子は、思い出してもゾッとする程、気違いめいていました。情慾ばかりのけだものみたいでした。どうも、あの男は、ずっと以前から、倭文子さんを恋していて、ただ倭文子さんに接近する機会が得たいばかりに、態々、あとを追ってあの温泉へやって来たとしか考えられないのです」

 三谷は憎悪に燃えて、夢中に話しつづける。

「だが、奴の目的は、倭文子さんを手に入れるだけではありますまい。態々贋の死骸を拵え、苦しい思いをして、顔を焼いてまでもこの世から姿をくらますというのには、もっと深い企らみがなくてはなりません」

「例えば、復讎という様な?」

「そうです。私はそれを考えると、身体中にあぶら汗がにじみ出す程、恐ろしいのです。奴は僕に復讎しようとしているのです。理由のない復讎をとげ様としているのです」

 だが、あとになって、岡田という男は、三谷が考えていたよりも、もっともっと恐ろしい悪事をたくらんでいる、極悪非道の悪魔であったことが分った。

「あなたに、御相談に伺ったのも、倭文子さんに加えられた、極度の侮蔑を恨む外に、一つはその復讎が恐ろしかったからです。彼奴(あいつ)は悪魔の化身です。あなたはお笑いなさるか知れませんが、私はこの目で見たのです。彼奴のあの不可解な消失は、妖術とでも考える外考え様がないではありませんか。あいつは全く別の世界から、この世に迷い出して来た、非常に不気味な、一種の生物みたいに思われるのです」

「岡田の元の住所を御存知ですか」

 三谷の物語が一段らくついた時、明智が尋ねた。

「温泉で名刺を貰っていました。何でも渋谷(しぶや)辺の、ずっと郊外の様に記憶しています」

「まだ、そこを調べて見ないのですね」

 成程、岡田の元の住所を調べて見るという手があったな。と三谷はちょっと迂濶(うかつ)を恥じた。

「イヤ、いずれそこへも、行って見なければなりますまい」

 明智はニコニコしながらいった。

「併し、先ず第一に、現在の賊の巣窟を見たいと思います。あなたの所謂妖術が、どんな風にして行われたか。そいつを調べたら、自然賊の正体も分って来る訳です」

「ではお差支えなければ、これから直ぐ青山へ御出かけ下さいませんでしょうか」

 三谷は、名探偵を見上げる様にしていった。

 明智はこの事件に、ひどく興味を(おぼえ)たので、少しも勿体(もったい)ぶる事なく、(ただち)に同行を承諾した。

 ところが、いざ出発という間際に、(はなは)幸先(さいさき)の悪い出来事が起った。

 明智が外出の支度をして、文代さんに留守中のことをいい残していた時、一足先に廊下へ出ようとした三谷が、ドアの下の隙間から、一通の封書が覗いているのを発見した。誰かが黙って差入れて行ったものに相違ない。

「アア、お手紙の様です」

 彼はそれを拾い上げて、明智に渡した。

「誰からだろう。ちっとも見覚のない筆跡だが」

 明智は独言をいいながら、封を切って読み下した。読むに従って、彼の顔に一種異様の微笑が浮んで来た。

「三谷さん。賊は、あなたがここへいらしったことを、もうちゃんと知っていますよ」

 明智がそういって、差出した手紙には、()の様な恐ろしい文句が(したた)めてあった。

明智君、とうとう君が出馬することになったね。俺の方でも働き甲斐があるというものだよ。だが、用心し給え。俺はね、君が今まで手がけた悪人共とは、少々違っているのだ。その証拠には、君がたった今この事件を引受けたのを、俺の方では、もうちゃんと知っているのだからね。

「すると、あいつは、私達の話を、ドアの外で立聞きしていたのでしょうか」

 三谷が青ざめていった。

「立聞きなんて出来ませんよ、僕はドアの外へ聞える様な声では、決して話をしませんし、あなたも、非常に低い声でした。賊は多分、あなたを尾行して、ここへはいられたのを見届け、僕がこの事件をお引受することを、見抜いてしまったのです」

「では、奴はまだこの辺にウロウロしているかも知れませんね。そして、また私達のあとをつけて来るのではありますまいか」

 三谷が心配すればする程、明智は(かえ)って、ニコニコ笑って見せた。

「尾行をして来れば、寧ろ好都合ですよ。あいつのありかを捜索する手数が、(はぶ)ける訳ですからね」

 彼は三谷を励ます様にして、先に立って、玄関に待っていたタクシーに乗った。

 青山の例の怪屋への途中、絶えずうしろの窓を注意していたけれど、尾行して来る自動車を発見することは出来なかった。

 賊は彼等の行先を察して、とっくに先廻りをしているのではあるまいか。危い、危い。あの化物屋敷へ、武装もせず、たった二人で乗り込んで行くのは、あまりに向う見ずな、振舞ではなかったか。

 二人は、少し手前で車を捨てて、小春日和の、晴れ渡った日をあびながら、例の怪屋へ歩いて行った。

 締切った門には、警察でとりつけたのか、いかめしい錠前がぶら下っている。白日に照らし出された怪屋は、何の変てつもない、ただの空家としか見えなかった。

「鍵がなくては這入れませんね」

 三谷が、錠前を見ていった。

「裏へ廻って見ましょう。賊が消えたという塀の所へ」

 明智はもう、その方へ歩き出していた。

「でも、裏の方からは(とて)這入(はい)れませんよ。裏門なんてありませんし、それに塀がとても高いのです」

「併し、賊はそこから這入ったのです。我々も這入れぬという訳はありませんよ」

 明智は無論妖術を信じてはいなかったのだ。

 並んだ屋敷を迂回して、広い復興道路に出で、そこから裏手の高い塀にはさまれた、問題の通路へ曲って行った。

「ここですね」

「そうです。ごらんの通り、梯子(はしご)を掛けて乗り越す外には、ここから邸内へ這入る方法がないのです。どんな高飛びの名人だって、この高い塀に飛びつくことは出来ません。それに、上には一杯ガラスのかけらが植えつけてあるのですから」

「あの晩は月夜でしたね」

「昼の様な月夜でした。それに、繩梯子をかける余裕なんて、絶対になかったのです」

 二人はそんな会話を取交しながら、その通路を行ったり来たりした。明智は両側のコンクリート塀を見上げたり、地面を眺めたり、そうかと思うと、突然広い幹線道路に走り出して、附近を見廻していたが、例の一種異様のニコニコ笑いをして、妙なことをいい出した。

「賊がここから這入ったとすれば、仮令(たとえ)我々の目に見えなくても、どこかに出入口がある筈です、例えば、余り変てこな出入口である為に、我々はマザマザとそれを見ながら、少しも気がつかぬ様な。……」

「まさか、この塀に隠し戸があるとおっしゃるのじゃありますまいね」

 三谷は驚いて相手の顔を眺めた。

「隠し戸なんかは、警察で十分調べたでしょうし、こう見た所、そんなものがあるとは思えませんね」

「すると、外にどんな方法があるのでしょう」

 三谷はいよいよ変な顔をした。

「やれるか、やれないか、一つ僕も賊の真似をして、ここから這入って見ましょう。あなたは、その時の様に僕のあとから追駈けて見てくれませんか」

 この際、明智が冗談なぞをいう筈はない。しかも、彼は賊と同じ妖術を使って見せようというのだ。全く入口のない、コンクリートの壁を、つき抜けて見ようというのだ。

 三谷はあっけにとられて、しかし非常に好奇心にそそられた様子で、()(かく)名探偵の言葉に応じて見ることにした。

 三谷は幹線道路の十間程向うに、明智は幹線道路から問題の場所への曲り角に立った。

 明智の合図で、二人は同時に走り出した。明智は曲り角から姿を消した。三谷は息せき切って、明智の立っていた個所へ走りついた。そして、ヒョイと、塀の方を見ると、彼は「アッ」と叫んで、立ちすくんでしまった。

 一丁程も続いた、見通しの通路に、人の影もないのだ。先夜と全く同じことが起った。明智小五郎は、完全に消え失せてしまったのだ。

「三谷さん、三谷さん」

 どこかで、呼ぶ声がした。キョロキョロ見廻していると、ポンポンと拍手の合図、それが確に、高いコンクリート塀の向側から響いて来る。

 三谷は声のする個所に近づき、塀越しに伸び上る様にして、耳をすましていると、暫くは何も聞えなかったが、やがて、うしろの方で、カタンと妙な物音がした。

 塀の向側へ注意を集めていたのに、反対に、うしろの道路に音がしたので、オヤッと思って、振返ると、これはどうだ。そこにヒョッコリ明智が立っているではないか。

 三谷は狐につままれた様な顔をした。

 ウラウラと晴渡った、昼日中、何とも解釈の出来ない、奇蹟が行われたのだ。日が照っている。明智の影が、黒々と地面に射している。夢でも幻でもないのだ。

「ハハハハハハハ」

 明智は笑い出した。

「まだ分りませんか。ナアニ、馬鹿馬鹿しい様なトリックなんです。手品がすばらしければ、すばらしい程、その種は一向あっけないものですよ。あなたは錯覚にかかっているのです。現に見ていながら、気づかないのです」

 三谷は眼を落して、何気なく明智の足元を見た。そこの地面に直径二尺程の丸い鉄の蓋がある。近頃、東京市中に目立ってふえた、下水道のマンホールだ。

「アア、それですか」

「マンホールとは考えたものですね。我々はこの鉄の蓋の上を踏んで歩きながら、一向意識しないのです。復興道路には、到る所にこれがあります。田舎から出て来たばかりの人は、存外これが目につく相です。併し東京人の我々は、慣れてしまって、道に落ちている石塊(いしころ)程にも注意しません。いわば盲点に入ってしまっているのです」

 明智の説明を聞いている内に、三谷はやっとそこへ気がついた様に、口をはさんだ。

「それにしても、こんな狭い横丁に、マンホールがあるのは、変ですね」

「そこですよ」明智は引取って、

「僕もさい前、それを変に思って、よく見ると、この鉄の蓋は、向うの大道路の奴とは、どこか違った所があります。ごらんなさい。真中に心棒があって、一寸ここの留金をはずすと、がんどう返しに、グルッと廻転する仕掛けになっている」

 明智はいいながら、鉄蓋を押して、半廻転させた。丁度一人通れる程の穴である。

「つまり、これは私設のマンホールなんです。下に下水道がある訳ではなく、狭い穴がこの塀の内側へ通じている。簡単な抜け穴の入口のカムフラージュです」

 私設の赤いポストを、町角に立てておいて、重要書類を盗んだ泥棒の話さえある。我々は、ポストがどこに立っているかを、常に正確に記憶しているものではないからだ。マンホールとても同様である。全く不用のマンホールが、一つ位余計にあったところで、当の工事をした人夫でさえ、気がつかぬかも知れないのだ。

 二人はそこの狭い穴を通って、塀の内側へ抜け出した。穴は庭内の小さな物置小屋の床下へ通じている。床板の一部分が上げ板になっている。

 入口の鉄の蓋を元通りにして、留金をかけ、この上げ板をはめて置けば、誰だってこれが抜け道とは気がつかぬ。

「こんな抜け穴を(こしら)えた所を見ると、賊は非常に大げさな悪企(わるだく)みをしていたのかも知れませんね。折角(せっかく)の隠れ家がバレてしまって、彼奴さぞかしくやしがっている事でしょう」

 明智は例の微笑を浮べていった。

 まさか邸内に賊が隠れているとは思わぬけれど、何となく薄気味悪く感じないではいられなかった。

 やがて二人は、台所の引戸を開けて、薄暗い土間に踏み込んだ。そこの板の間の下に、倭文子がとじこめられていた、例の穴蔵があるのだ。

目次に戻る

目次