11話 十一 狐妖
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音楽家のS君が来て、狐の軍人という恠談を話して聞かせた。
それは明治二十五年の夏であった。軍人出身のS君はその当時見習士官として北の国の○○師団司令部に勤務中で、しかも自分が当番の夜の出来事であるから決して誤謬はないと断言した。狐が軍人に化けて火薬庫の衛兵を脅かそうとしたというのである。赤羽や宇治の火薬庫事件が頭に残っている際であるから、私は一種の興味を以てその話を聴いた。
どこも同じことで、火薬庫のある附近には、岡がある、森がある、草が深い。殊に夏の初めであるから、森の青葉は昼でも薄暗いほどに茂っていた。その森の間から夜半の一時頃に一つの提灯がぼんやりとあらわれた。歩哨の衛兵が能く視ると、それは陸軍の提灯で別に不思議もなかった。段々近いて来ると、提灯の持主は予て顔を見識っているM大尉で、身には大尉の軍服を着けていた。しかし規則であるから、衛兵は銃剣を構えて「誰かッ」と一応咎めたが、大尉は何とも返事をしないで衛兵の前に突っ立っていた。
返事をしない以上は直に突き殺しても差支ないのであるが、みすみすそれが顔を見識っている大尉であるだけに、衛兵もさすがに躊躇した。再び声をかけたが、大尉はやはり答えなかった。その中に衛兵は不思議なことを発見した。大尉の持っている提灯は紙ばかりで骨がなかった。大尉は剣も着けていなかった。衛兵は三たび呼んだが、それでも返事のないのを見て、彼はやにわに銃剣を揮って大尉の胸を突き刺した。大尉は悲鳴をあげて倒れた。
衛兵はその旨を届け出たので、隊でも驚いた。司令部でも驚いた。当番のS君は真先に現場へ出張した。聯隊長その他も駈付けて見ると、M大尉は軍服を着たままで倒れていた。衛兵の申立とは違って、その持っている提灯には骨があった。しかし剣は着けていなかった、靴も穿いていなかった。殊に当番でもない彼が何故こんな姿でここへ巡回して来たのか、それが第一の疑問であった。取あえずM大尉の自宅へ使を走らせると、大尉は無事に蚊帳の中に眠っていた。呼び起してこの出来事を報告すると、大尉自身も面食って早々にここへ駈付けて来た。
大尉は小作りの人であった。倒れている死体も小作りの男であった。何人も初めは一見して彼を大尉と認めていたが、ほんとうの大尉その人に比較して能く視ると、まるで似付かないほどに顔が違っていた。陸軍大尉の軍服は着けているが、どこの誰だか判らないということになってしまった。要するに彼はほんとうの軍人でない、何者かが軍人に変装してこの火薬庫へ窺い寄ったのではあるまいかという決論に到着した。果してそうならば問題がまた重大になって来るので、死体を一先ず室内へ舁き入れて、何や彼やと評議をしている中に、短い夏の夜はそろそろ白んで来た。死体は仰向に横えて、顔の上には帽子が被せてあった。
とにかくに人相書を認める必要があるので、一人の少尉がその死体の顔から再び帽子を取除けると、彼は思わずあっと叫んだ。硝子の窓から流れ込む暁の光に照された死体の顔は、いつの間にか狐に変っていた。狐が軍服を着ていたのであった。
「狐が化けるはずはない。」
若い士官たちは容易に承認しなかった。しかし現在そこに横っている死体は、人間でない、勿論M大尉でない。たしかに一匹の古狐であった。若い士官たちが如何に雄弁に論じても、この生きた証拠を動かすことは不可能であった。狐や狸が化けるという伝説も嘘ではないということになってしまった。S君も異議を唱えた一人で、強情に何時までも死体を監視していたが、狐は再び人間に復らなかった。朝がだんだん明るくなるに従って、彼は茶褐色の毛皮の正体を夏の太陽の強い光線の前に遠慮なく曝け出してしまった。ただし軍服や提灯の出所は判らなかった。
「狐が人間に化けるなどということは信じられません。私は今でも絶対に信じません。けれども、こういう不思議な事実を曾て目撃したということだけは否む訳に行きませんよ。どう考えても判りませんねえ」と、S君は首をかしげていた。私も烟にまかれて聴いていた。