10話 十 お染風
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この春はインフルエンザが流行した。
日本で初めてこの病が流行り出したのは明治二十三年の冬で、二十四年の春に至ってますます猖獗になった。我々はその時初めてインフルエンザという病名を知って、それは仏蘭西の船から横浜に輸入されたものだという噂を聞いた。しかしその当時はインフルエンザと呼ばずに普通はお染風といっていた。何故お染という可愛らしい名を冠らせたかと詮議すると、江戸時代にもやはりこれに能く似た感冒が非常に流行して、その時に誰かがお染という名を付けてしまった。今度の流行性感冒もそれから縁を引いてお染と呼ぶようになったのだろうとある老人が説明してくれた。
そこで、お染という名を与えた昔の人の料見は、恐らく恋風というような意味で、お染が久松に惚れたように、直に感染するという謎であるらしく思われた。それならばお染には限らない。お夏でもお俊でも小春でも梅川でもいい訳であるが、お染という名が一番可愛らしく婀娜気なく聞える。猛烈な流行性を有って往々に人を斃すようなこの怖るべき病に対して、特にお染という最も可愛らしい名を与えたのは頗る面白い対照である、流石に江戸児らしい所がある。しかし例の大虎列剌が流行した時には、江戸児もこれには辟易したと見えて、小春とも梅川とも名付親になる者がなかったらしい。ころりと死ぬからコロリだなどと智慧のない名を付けてしまった。
既にその病がお染と名乗る以上は、これに着かれる患者は久松でなければならない。そこでお染の闖入を防ぐには「久松留守」という貼札をするがいいということになった。新聞にもそんなことを書いた。勿論、新聞ではそれを奨励した訳ではなく、単に一種の記事として昨今こんなことが流行すると報道したのであるが、それがいよいよ一般の迷信を煽って、明治二十三、四年頃の東京には「久松留守」と書いた紙札を軒に貼付けることが流行した。中には露骨に「お染御免」と書いたのもあった。
二十四年の二月、私が叔父と一所に向島の梅屋敷へ行った、風のない暖い日であった。三囲の堤下を歩いていると、一軒の農家の前に十七、八の若い娘が白い手拭をかぶって、今書いたばかりの「久松るす」という女文字の紙札を軒に貼っているのを見た。軒の傍には白い梅が咲いていた。その風情は今も眼に残っている。
その後にもインフルエンザは幾度も流行を繰返したが、お染風の名は第一回限りで絶えてしまった。ハイカラの久松に着くにはやはり片仮名のインフルエンザの方が似合うらしいと、私の父は笑っていた。そうして、その父も明治三十五年にやはりインフルエンザで死んだ。