1話 大久保湖州(1)
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或秋の夜、僕は本郷の大学前の或古本屋を覗いて見た。すると店先の陳列台に古い菊判の本が一冊、「大久保湖州著、家康と直弼、引ナシ金五十銭」と云ふ貼り札の帯をかけたまま、雑書の上に抛り出してあつた。僕はこの本の挨を払ひ、ちよつと中をひろげて見た。中は本の名の示す通り、徳川家康と井伊直弼とに関する史論を集めたものらしかつた。が偶然開いた箇所は附録に添へてある雑文だつた。「人の一生」――僕はこの雑文の一つにかう云ふ名のあるのを発見した。
人の一生
徳川家康
急ぐべからず。
心に望おこらば困窮したる時を思ひ出すべし。
怒は敵と思へ。
勝つ事ばかり知てまくる事をしらざれば害其身に至る。
及ばざるは過ぎたるより勝れり。
大久保余所五郎
後るべからず。
心に望失なはば得意なりし時を思ひ出すべし。
卑屈は敵と思へ。
負くる事に安んじて勝つ事を知らざれば損其身に至る。
成すは成さざるより勝れり。