2話 一 思想と實行 2
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或人は考察の生活、觀照の生活、瞑想の生活――約言すれば思想の空しきを説いて、事業と實行との生活に就く可き事を奬説する。此際に於いて問題となるものは、人間生活の理想としての思想と實行との對立である。
思想の生活はその客觀に對する態度から云へば受納の生活である。受動の生活である。思想は(客觀と關係する點から云へば)客觀より與へらるゝ處を受納し之を材料として主觀内に於いて溌剌たる能動の態度を採る。その對象とする處は「物」としての客觀にあらずして、自己主觀裡に攝取せられたる客觀である。故に思想の内容は森羅萬象を網羅するに拘はらず、思想家の面々相接する處は寧ろ思想家自身である。從つて思想家の生活には屡孤獨の感情、空漠の感情、遊離の感情が襲來し易い。思想家が往々自家の生活の空しきを感じて事業の生活、實行の生活を慕ひ、遂にその生活に轉移する心持は決して無理だとは思はれない。實行の生活に於いて、客觀は赤裸々に、その全面を呈露して「對象性」をとる。さうして主觀は此對象に對して能動の態度をとり、客觀は又主觀に對して溌溂として反應する。故に實行の生活は的確で、明晰で、痛快で、猛烈である。吾人は此生活に於て全人の根柢から搖り動かさるゝ機會を持つことが多い。自分も亦屡實行生活に對する憧憬によりて思想生活の根柢を震撼される心持を經驗する。自分は此類の主張に對して相應の理解を持つてゐるつもりである。
併し、確乎たる思想上の根柢を有せざる實行の生活も亦空しい。全體を統一する大なる力の支配の下に立たずして、きれ/″\に、離れ離れに、唯動くが爲に動く生活の惶しさを思へ。内化されず、把握されぬ空しい動亂は、唯意識の表面を掠めるのみで、砂上の足跡のやうに果敢なく消えて了ふ。實行のために實行を追ふものは、唯無數の事件を經驗するのみで、眞正に「我」を經驗する機會を持たない。吾人の周圍にウヨウヨしてゐる所謂政治家、實業家、法律家、教育者の生活――彼等の生活こそ In Abstracto に實行の生活である――の空しさを見れば誰か面を背けて逃出さぬを得よう。空漠な、遊離せる思想の生活が厭はしいやうに、根柢に横たはる大きい深い者を原動力とせざる實行の生活も亦空しい。思想の生活を實にする者は恐らくは實行の生活のみではあるまい。思想の生活と實行の生活とを併せて實にする或者が、恐らくは此兩者の奧に君臨してゐるのであらう。
暫く自分の經驗の未だ及ばざる範圍に思索を馳せる事を許して頂きたい。宗教家の經驗するところに從へば神は愛であると云ふ。若し神が愛ならば、此神の愛を身に受けて之と交通するに餘念のない生活――瞑想のみの生活は眞正に宗教的な生活とは云ひ得ないであらう。神の愛を眞正に身に受けたる者は此愛を他の闇黒裡に蠢く同胞に光被させようとしなければならない筈であらう。約言すれば神より愛さるゝのみに滿足せずして、神と共に愛する者とならなければならない筈であらう。濟度の慾望とならず、傳道の慾望とならぬ宗教の不徹底な所以は自分にも微にのみ込めてゐる。宗教の信はその本來の性質上必然に行とならなければなるまい。換言すれば宗教上の思想生活は必然に實行生活に移らなければなるまい。併し神の愛を深く心の底に味はひしめた事のない者がどうして之を他人に與へることが出來よう。傳へるとは何を傳へるのか、與へるとは何を與へるのか。光は固より照さなければならない。照すは光の本質である。併し徒に照さむと焦る闇ほど滑稽なものはない。野に出でて叫ぶ者の活動を正しき者とするは唯密室に於ける神との交通である。唯内より輝き出づる光である。
神との交通は瞑想の生活を正しくする、又實行の生活を正しくする。瞑想の生活を實にする。又實行の生活を實にする。今自分の思想の生活は寂しい。自分は屡孤立を感じ、空漠を感じ、遊離を感ぜずにはゐられない。今自分の實行の生活は頼りがない。自分は屡動きながら逡巡する。進みながら疑惑する。此寂しさと此頼りなさは自分の「實なるものを實にする者」に對する、根本的實在に對する、「神」に對する憧憬である。それは、思想生活より實行生活に向ふ憧憬と解釋して了ふには、餘りに深い根柢を持つてゐる。餘りに内面的ななやみに溢れてゐる。
自分が思想の生活と實行の生活との根柢として待望むものは Vision(直視)の生活である。Vision の生活に進めば、自分の思想生活の對象は空漠を脱して溌溂として活躍するものとならう。從つて自分の思想生活の態度も亦痛烈にして勇猛なものとなるであらう。さうして自分の實行生活は根柢を得、内容を得、統一を得るであらう。
(三、五、一七)