101話 三太郎の日記 7
読み方を変える
トルストイを追越さうとする Ambition よりも、強く深く眞理を攫んで、人生究竟の價値に參せむとする Aspiration の方が、更に純粹な、更に精神的な、更に内面的な、さうして更に大きい慾望である。
比較の對象を自分の外に、自分に近く、さうして具體的な個人として持つてゐる時に、その人の努力は一層眞劔に、一層猛烈に、一層死物狂ひになるかも知れない。此意味に於いて、アンビシヨンは精神的創造の原動力として決して無意味なものではないであらう。アンビシヨンから行くのも一つの人情に近い行き方に相違ないことゝ思ふ。
併しトルストイを追越さうとするアンビシヨンは、強く深く眞理を攫んで、人生究竟の價値に參せむとするアスピレーシヨンに變形するに非ざれば實現の途に就く事が出來ない。他人に勝つ爲の唯一の途は、其競爭者よりも更に深く眞理の中に沈潛する事である。此途によらずして他人に勝たむとする者は、空虚なる名譽慾に囚はれて實質の問題に參する事を知らざる人生の外道である。從つてアンビシヨンの問題も其本質的意義に於いてはアスピレーシヨンの問題に歸する。アスピレーシヨンとならざるアンビシヨンは無意味である。併しアンビシヨンの背景を缺くアスピレーシヨンは決して無意味ではない。自己の周圍に競爭者なき場合と雖も、其人の精神に現實の不安から押し出さるゝ張力が働いてゐる限り、アスピレーシヨンは其純粹なる形に於いて作用する事が出來る筈だからである。
自分はアンビシヨンによつて眞理に深入りした二三の人を知つてゐる。さうして其人が眞理に深入した程度に從つて其人を尊敬することを忘れる者ではない。併しアンビシヨンは個人的性癖の問題であつて、アスピレーシヨンと同じ意味に於いて人間全體の問題ではない。アンビシヨンがなければ駄目だと云ふのは、個人的性癖を人間全體に通ずる必然として主張せむとする誤謬である。
自分は「人を對手にせずして天を對手にせよ」と云つた人の意味深い言葉を忘れることが出來ない。アンビシヨンからはひる道の外にも猶眞理に深入する途は儼存してゐるのである。自分は天を對手にするアスピレーシヨンが精神的創造の無限なる行程を導くに足る力であることを確信して疑はない。