102話 三太郎の日記 8
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俺の今云はむとすることを曾て先輩が更に力強い言葉で云つてゐるにしても、俺の今云ふ言葉は空にはならない。俺の今云ふ言葉に體得したる眞理の響が籠つてゐる限り、俺の弱い言葉は先人の聲によつて打消されはしない。先人の聲は基音として俺の聲を支へて呉れてゐる。さうして俺の言葉は先人の言葉の倍音としてその響に參加してゐる。俺の言葉には猶存在の理由があり、猶存在の意義がある。
俺の今悟入する處が先人の曾て發見した處以上に一歩も出でないにしても、俺の新しい悟入は無意味にはならない。俺の心は此悟入によつて新しい世界に入り、眞理は新しく俺の胸に生きることによつて其光を増す。先人の靈は恐らくは新しい同胞を得たるが爲に歡喜するであらう。さうして「精神生活」の殿堂は新たに一つの燈光を加へることによつて更に輝くであらう。俺の今悟入した眞理は新しくないにしても、俺が今此眞理に躍入した事は新しい事實である。此新しい事實は俺自身にとつて、俺の生存する時代にとつて、最後に眞理そのものにとつて、決して無意味に終る筈がない。最も重要なるは眞理が生きて働くことである。現在生きて働いてゐる眞理が過去に類似を有するか否かは要するに第一義の問題ではない。
俺はドストイエフスキーよりも小さいが俺はドストイエフスキーをその儘に縮小した模型ではない。俺の衷に俺でなければ何人も入り得ない世界があるのは、俺が自分と他人とを區別する必要から拵へ上げたのではなくて、俺の中に、俺の個性の芽が植ゑ付けられてゐるからである。俺の聲が他の何人とも異つてゐるのは、俺が自分の聲を他人の聲以上に耳に立つものにしようと努力したからではない。俺の聲には俺の音色が自然に與へられてゐるからである。若し俺が獨特の世界と聲音とを與へられてゐないとすれば――換言すれば他人の模型として拵へ上げられてゐるとすれば――俺は芝居をするより外に此宿命を脱れる途がない。併し俺は芝居によつてオリジナルな人になるよりは、寧ろ宿命に從つて完全な模型になりたいと思ふ。
俺は他人と自分とを區別しようとする慾望から出發しても、自然に俺自身になることに落ちて行くであらう。併し俺が俺自身になるには必ずしも他人と自分とを區別せむとする努力を要しない。内容の不安から押し出される張力は自然に俺を俺自身にして呉れるに違ひない。
俺の道が先輩の道と一致するならば、俺は一緒に行ける限り先輩の跡を追つて行かう。さうして愈一緒に往けなくなつた時にさやうならと云はう。俺が終生その先輩の跡を追ふにしても、或は幾許もなく俺一己の道に踏込むにしても、兎に角俺は眞理に深入することによつて最もよく生きるのである。さうして最もよく俺の事業を完成し、最もよく日本と世界とに貢獻するのである。(十二月十三日)