88話 三太郎の日記 4
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眞正に自己の生命を愛惜する者は模倣と獨創との意味を深く理解して置く必要がある。模倣を嫌惡する意識と暗示に對する敏感とが手を携へて増長して行くことは注目すべき現象である。獨創を求める意識と作爲誇張とが蔓を並べてはびこつて行くことは看過す可からざる事實である。その結果として生れるものは獨創の外見とフレテンシヨンとの中に模倣の内容を盛つた鼻つぱしの強い思想と文藝とである。
新しい言葉と珍らしい思想との刺戟にひかされて、此新しい言葉を綴り合せ、此珍らしい思想をはぎ合せて嬉しがつてゐるのは、淺薄な、無邪氣な模倣である。此の如き模倣の經驗は私達の少年時代にも隨分あつた事である。今でも中學や女學校にゐる文藝愛好者の多數は、恐らくは此種の模倣衝動に浮かされてゐることゝ思ふ。此種の文藝には珍らしがり、新しがりの臭氣が著しく人の鼻を衝くから、他人も當人も此種の模倣によつて欺かれることが少ない、淺薄なだけに罪も少く又害も少い。
併し模倣とは此種のものばかりだと思ふのは大なる誤である。新しがり、珍らしがりの意識から出てゐるのでないから模倣でないと云ふ申開きは成立たない。模倣の深いもの、精かなものは「意識」に現はれずに「心」に潛んでゐる。「意志」にあらはれずに「本質」に隱れてゐる。模倣者に模倣せむとするつもりがなくとも、猶彼のする處は模倣に過ぎない場合が決して少くない。現今の青年によつて嫌惡されること模倣の名の如く劇しいものは滅多にないであらう。それにも拘らず彼等の思想文藝の多くに模倣の名を強ひなければならないのは悲しむ可き事實である。
模倣とは個性の底から湧いて來ない一切の精神的營爲に名づけらる可き名である。起源を外面のあるものに發し、經過の方向を外面のあるものより來る暗示によつて規定される行動は總て模倣である。碎いて云へば、自分の中から發する自然の衝動が溢れ出るのでなしに、眼に視耳に聽いたものに動かされて、視聽に映じた外部的存在と同じ型に從つて行動するものは總て模倣である。從つて模倣せむとする意志がなくとも猶模倣の事實がある。如何に興奮と熱情とを以つてする行爲の中にも猶模倣の事實がある。模倣を嫌惡する強烈な意識と獨創を誇りとする勇猛な自覺の下になされた行動の中にも猶模倣の事實がある。或る行動が模倣でないことを證據立てるものは興奮でも熱情でも獨創の自覺でも何でもない。それは唯興奮と興奮との推移の間に證明される深い人格的の連續性である。その行動がその人の全生活全生涯を押通して行く深い貫徹性である。この連續性と貫徹性とによつて證據立てられない行爲は、總て獨創として承認されることを要求する資格がない。此連續性と貫徹性とを裏切る樣な經過をとる一切の行動は、如何に興奮と熱情と獨創の自覺とを以つてするものと雖も畢竟するに模倣である。今の人は獨創と云ふことを餘りに廉價に考へ、模倣と云ふことを餘り淺薄に解しすぎてゐるやうだ。私達は自らに獨創の名を許すことが容易でないことを思ひ、自分から模倣の名を斥けるには深い内省を要することを思はなければいけない。
性情の輕薄で頭腦の雋敏なものは、外來の刺戟によつて容易に興奮する。さうして熱情と無意識(若しくは獨創の輕信)とを以つて模倣的に行動する。彼の模倣を證明するものはその興奮と興奮との間に人格的の連續がないことである。外來の刺戟に差等を附する人格的の判別が働かないことである。強力なる刺戟を反撥する餘儀なさと、世間の潮流と背進する寂しさとを知らないことである。外來の刺戟によつて生ずる興奮と興奮との間に、自ら道を開かむとする要求を感ぜざる懶惰が挾まれることである。彼等は自然主義來れば自然主義によつて興奮し、浪漫主義來れば浪漫主義によつて興奮する才人である。個性と獨創とを要求する聲が盛んとなれば、個性と獨創とを要求する叫びをさへ模倣し得る程「幸福」な人である。實際頭腦の雋敏な才人は、その興奮を抑へて内省するだけの底力を持つてゐない限り、殆んど模倣者に墮することを免れることが出來ない。彼等が模倣を斥け獨創を誇りとするの輕易なることは寧ろ彼等の模倣性に富む證據である。
先輩の影響は唯個性の萌芽を成育せしめる際にのみ、進路に困惑する個性の爲に新たなる道を指示する際にのみ、獨創の助けとなる。其他の影響は暗示にすぎない。模倣性の刺戟に過ぎない。此事は私一個の經驗として、私の閲歴から來る懺悔としても亦云ふを得ることである。
教育學者の説によれば模倣は兒童の發達に缺く可からざる階段であると云ふ。恐らくは教育學者の云ふ處に誤があるまい。併し模倣者が獨創者として自ら誇ることは孰れにしても不遜にすぎるやうだ。自ら知らざるに過ぎるやうだ。私は年少の諸友に向つて模倣と獨創との意味を再考することを要求したいと思ふ。