三太郎の日記 第一

89話 三太郎の日記 5

1,897字 約4分 2011年8月12日 公開

読み方を変える
字の大きさ
行の間隔
1行の長さ
書体
配色
組み方

 自分の天分を問題とすることは近來の一風潮である。さうして此問題に觸れる人は大抵自分は強いと云ふ自覺を得て自分のちからの意識に就いて飽くことを知らざる享樂を恣にしてゐるやうである。私は此の自覺を諸友と共にすることが出來ない自然の結果として、此等の人の自信に對しても亦多少の疑惑を感じない譯に行かないが、併し私には此等の人の内省に立入つて其缺陷を指摘するの資格もないし、又此の自信を持つことそれ自身は彼等にとつて非常の幸福に違ひないから、彼等の爲に之を悲しまうとも思はない。併し此自信が彼等の中に如何に働いてゐるかに就いては、多少の憂慮がないでもない。

 或る天分を持つてゐるといふことは、その天分が實現して價値ある精神内容を創造することによつて始めて意味のあるものとなる。天分の有無は唯精神内容の創造に堪へるか堪へないかの問題に對する準備として始めてその意義を生ずるのである。從つて精神内容の創造に沒頭する人は大抵天分の問題を第二義の問題として閑却する。自己の天分に對する意識がなくとも、精神的内容の創造に堪へ得る人は寸毫もその價値を減じない。實際天分に對する神經過敏なる顧慮を缺くことは第一流の天才に共通なる特徴のやうに思はれる。彼等の内生の異常なる豐富と湧とは、輪廓に對する顧慮を問題としてとりあげてゐるの餘裕をなくなすからであらう。

 併し或種の天才は自分のちからに對する自信がなければ精神内容の創造に堪へない。自己感情の興奮を原動力として、彼は始めて精神内容の創造に猛進することが出來るのである。此の如き人の精神的所産には、必ず強烈なる自己崇拜の色彩を伴つて來る。併し此際に在つても價値あるは精神的内容の精彩と芳烈とであつて、自己の耽溺にあるのではない。ニイチエの勇ましく慘ましい哲學を除いて、彼の自我狂(エゴマニヤ)が何であらう。彼の自己崇拜は、彼の精神的創造によつて許容と是認とを受く可き附加物に過ぎない。

 自己の天分を問題としてゐる先輩同輩を通じて、私にも同感の出來るのは殆んど武者小路君一人の心持だけである。私の見る處では、彼は先づ認識論から始めなければ承知の出來ない哲學者のやうに、自分の天分に對する強烈な自信がなければ精神内容の創造に猛進することを得ざる弱い(此だけの意味で弱い)性格を持つてゐるやうに見える。それで彼は「お前には力があるかどうだ」と反復自問自答した。さうして最初には屡自信の動搖を感じて失望したり寂しがつたりした。併し内省の反復と共に彼には次第に自信が出來て來た。さうして彼は此自己感情の興奮を原動力として自分の事業に安んずることが出來るやうになつた。從つて此問題に對する彼の態度には内部的必然性を見ることが出來る。さうして此問題に對する肯定によつて精神的創造を勵まして行く趣を看取することが出來る。私は此意味で彼の自己崇拜を是認する。而も彼の價値はこの感情によつて仕上げて行く精神的創造の内容にあるので、自己崇拜の感情そのものゝ如きは其價値の末の末にすぎない。さうして彼の強烈な自信の當否は畢竟將來に於ける事業の分量によつてのみ決定される問題である。

 併し武者小路君の結論を以つて直ちに其出發點とする年少諸友の自己肯定には、之と同じ位に深い根を認めることが出來ない。少くとも彼等の文章には之と同じ位に深い根を認めることが出來ない。凡そ或人の強いことを證明するものは之に敵對する偉力の征服である。險難を通じて其途を開いて來た閲歴である。此閲歴を提供せずして、其強さを承認させることは自分自身にとつても出來ない筈である。況んやその強さが客觀的妥當性を得るが爲めには、「俺は強いぞ」と云ふ宣言だけでは到底駄目である。然るに年少諸友の或者は此閲歴の報告をする前に、だしぬけに「俺は強いぞ」と云ふ。さうして之によつて他人を凌辱する當然の權利を要求する。併し第三者から見ればこの種の強がりは一種の愛嬌にすぎない。本當に強い者は敵對力の征服によつて自己を語るがよい。さうして自己の力を宣言することは強者をして更に強きものたらしむる所以ではないのである。

 自己のちからに對する享樂は事業の成績のあり餘る人にのみ許される處である。假令その人格の中にちからが渦卷いてゐることを感ずるにしても、その貧弱なる實現と貧弱なる征服の記録を恥づる者は自己感情の興奮に耽溺すべきではない。ちからの必然の發現は詠嘆ではなくて事業である。さうしてちからの天賦が少い者と雖も、之を最もよく實現することによつて最もよく生きることが出來ることを知る者にとつて、天賦の大小は要するに第一義の問題ではない。(九月八日)

目次に戻る

目次