三太郎の日記 第三

85話 十六 奉仕と服從 6

1,235字 約2分 2012年3月20日 公開

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 或ひは云ふであらう。奉仕とは對象に對する詮議を外にして、凡そ自己に要求さるゝものを、隨處に、無條件に、即下に充すことである。自己の使命を忘れ、對象の意志の善惡をも忘れ、唯對象の意志を充さざるを得ざるが故に充すことである。釋迦前生の餓虎供養、山上の垂訓の所謂「人汝の右の頬を批たば亦他の頬をも轉じて之を向けよ」といふが如きは、皆この意味に外ならないと。

 固より「己れ」を捨てることはそれ自身に於いて朗かな喜びである。故に個體的自我に對する征服の殆んど完成せる人にとつては、輕く、執着なく、身を餓虎に與へ、若しくは左の頬をもその敵に差出すことは恐らくは、一種の名状し難き喜びであるであらう。併しそれが唯身體を餓虎に噛ましめることの喜び、左の頬に感ずる痛さの故の喜び――此の如き犧牲の快感の享樂に過ぎないならば、それは婆羅門若しくは中世の修道士にのみ相應しい一種の感情耽溺であつて、釋迦にも基督にも相應しいことではない。若し身を餓虎に供養したために、虎は一層狂暴になり、左の頬をも差出したために、その敵が一層猛惡となるならば――自己犧牲の結果が、對象を一層惡くし、世界を一層惡くするならばどうであらう。又此の如くにして身を猛獸若しくは惡人に供養したために、自己の神と人とに對して負へる使命が滅び亡せるならばどうであらう。この場合にも猶身を餓虎に供養し、右の頬を打つものに左の頬をも差出すものは、「無我」の快感を味はむがために神と道とを私するものである。餓虎供養若しくは左の頬の譬喩の理由をなすものは、恐らくは此の如き「無礙の享樂」以外になければならない。

 自分の考へるところに從へば、此等の譬喩は一面に於いて、惡に抵抗するは惡を更に惡にする所以であり、惡に抵抗せざるは惡を善に赴かしめる所以であるとする信念――從つて餓虎供養は餓虎をより善くする所以であり、左の頬を批たしむるは惡人を幾分の善に赴かしめる所以であるとする信念を豫想するものである。善なるが故に助成することと共に惡なるが故にあらがはざることも、亦善に對する奉仕であるとする信念を豫想するものである。さうして一面には又、隨處に自己を犧牲にして、「三千大千世界にわが身命を捨置かざるところなき」ことが、即ち「神」と「道」とを(あかし)する所以であり、かく(あかし)するところに自己の使命があると信ずる信念を豫想するものでなければならない。この二つの信念を有するが故に、聖者は身を餓虎に供養し、右の頬を批たるゝ時左の頬をも亦これに向けることが出來るのである。

 併し凡ての現實的自我には夫々に自己の程度に應じたる「境」がある。その「境」を超ゆるとき、自己以上の境を模倣することも亦惡である。重ねて思ふ、若し釋迦が成道に垂んとして、先づ身を健かにせむがために、かくて「一切衆生を成熟せむがための故に」牧牛女人(もくごによにん)から乳糜の供養を受けたとき、若し忽然として餓虎があらはれて彼を喰はむとしたならば、彼はその時にも猶その身をこれに與へたであらうか。

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