86話 十六 奉仕と服從 7
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聖者が餓虎に逢ひて敢て抗はず、その血肉を彼が喰ふに任するとき、又正しき者が兇暴なる者に右の頬を批たれて更に左の頬をも差出すとき、彼等は猛獸に服從し、兇暴なる者に服從したのであるか、若し己れを捨てて對象の意志を成さしむる點よりのみ見れば、これも亦服從の一種でなければならないやうに見える。併し聖者が餓虎にその身を供養するとき、彼は己れを捨てて餓虎の意志を自己の中に生かすのではない。又正しき者が左の頬を差出すとき、彼は凶暴なる者の人格を自己の中に立して自己の人格をそのために捨てたのではない。故に彼等は餓虎若しくは惡者の意志に身を任せながら、その自我は超然として餓虎又は惡者の意志に染着せらるゝところがない。この場合に於いて彼等が「己れ」の代りに立するものは、神の意志若しくは道の要求である。彼等は餓虎又は惡者の意志を成さしめながら、自らは神若しくは道に服從してゐるのである。我等は、自己の意志を捨てて對象の意志を自己の中に立するとき、對象の意志を奉じてこれを自己の意志に代へるとき、始めてこれを名づけて服從といふ。故に餓虎供養や、左の頬をも差出すこと等は、この意味に於いて餓虎若しくは惡者に對する服從と云ふことが出來ない。自分は茲に、此の如く單純に「對者の意志を成さしむること」を服從の概念から除外する。
自分は又權力に對する服從を現在の問題から除外する。權力に對する服從は、ある場合には、餓虎にその身を與へること、右の頬を批つ者に左の頬をも差出すことと同樣の意味に於いて、我等の忍從である、自己犧牲である、神又は道に對する服從である。この場合に我等は權力に服從するのではなくて、神又は道に服從するのである。さうして又他の場合に於いては、自己の道徳的意志を獨立に保持しながら、權力關係に立てる限りの自己を、權力關係に立てる限りの長上の意志に服從させるのが權力に對する服從の眞髓となる。權力關係によつて秩序を與へられたる社會の一員である限り、我等はその社會を脱出せずには權力の命令を拒む權利を持つてゐないからである。併しこれは權力者の道徳的意志に自己の道徳的意志を服從させることとは全然別問題である。故に我等は又この意味の服從をも現在の問題から除外しなければならない。
又自己の意志が他の要求と全然一致してゐるとき、自己の意志が他の要求に逢つて一歩を進めることなしに、他の要求なきときと雖も全然同樣の方向に進行するが如きときに於いても――此の如く特殊の意味に於ける自他の意志の一致を條件とするときに於いても、我等はこれを特に服從と呼ぶことを避けたい。この場合に於いては、外來の要求は、我等の意志決定に對して何等の特殊なる意義を持つてゐない。故にそれは平俗の意味に於ける一致若しくは協同であつて、服從といふ言葉は強きに失すると云はなければならない。我等の此處に云ふ服從とは、自己の意志を排し、若しくは自己の意志に先んじ、若しくは自己の意志の空しきに當つて、他の意志が我等を率ゐ、我等を支配することを意味するものである。
自分は前に、服從とは「己れ」を捨てて「己れ」ならぬものの意志に從ふことであると云つた。併し上來獲得せる洞察によつて、更に嚴密に、而も一般に通ずるやうに、これを云ひなほせば、それは「自己」を――余と云ふ現實的自我の意志を捨てて、余ならぬものの――普遍的自我若しくは他の現實的自我の意志を自己の意志とすることである。故に我等が服從に於いて捨てるところのものは、單に我等の「己れ」ばかりではなくて、又我等の普遍的自我である場合も存在し得る。さうして我等が自己の意志の代りに立するところも亦單に普遍的自我に止らずして他の「己れ」――若しくは他の「己れ」を迂し來れる自己の「己れ」であることも亦あり得るのである。