87話 十六 奉仕と服從 8
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奉仕は自我の擴充を根據とするに反して、服從は自我の無力を――自我無力の事實若しくは自覺を根據とする。換言すれば、奉仕の根據の愛なるに對して、服從の根據は謙遜である――眞實若しくは虚僞の謙遜である。
茲に服從の最も正當な場合を考察しよう。宗教的の欲求を心に持して自己の現實を反省するとき、我等の智慧は淺く、我等の意志は迷ひ易く、我等の内面的知覺は欺かれ易い。我等は煩惱具足の凡夫として、思へば思ふほど自ら信頼し難きことを感ずる。然るに、此處に人あつて、その人の指導に從ふとき、我等の生活の歩みが一歩々々に照さるゝことを覺え、自ら知らざりし本質の要求が喚び醒され且つ充されて行くことを感ずるとする。若しくは我等の衷に普遍的自我に對する――攝取不捨の意志として活動する普遍的自我に對する信があつて、その意志が刻々に自己の途を導いてゐることを感ずるとする。その時我等が弱小なる自己の意志を否定して、その「師」若しくはその「神」に服從するは當然である。我等は個體的存在の弱小を脱して、普遍的存在の中に歸るを得むがためにそれをするのである。自我の意志の確立せざるとき、自己の判斷の定め難きとき、自己の内面的知覺の恃み難きを感ずるとき、我等は未知を求むる憧憬と、未知の前に跪く敬虔と、本質を觸知する本能とを以つて、自己より優れたるものに服從する。
但しこの場合に於いて服從を正當にするものは、それが自我の本質を生かすものであるからである。我等の本能は、自ら認識すること能はず、自ら把握すること能はざるも、猶冥々の間に自己を生かすものを觸知する。さうしてこれに從ふことによつて眞正に自らの生きることを感ずる。故に彼は自ら知らざるものに服從することが出來るのである。我等の中に自己を生かすものを觸知す可き本能を缺くとき、所謂「師」若しくは「神」に對する服從は危險である。我等は此の如き服從によつて滅亡の途に陷ることも亦あり得るのである。我等は此の如き信を名づけて迷信と云ふ。迷信の對象は「師」でもなく「神」でもなくて「魔」と名づけらる可きものである。我等は正當に服從す可きものに服從するためにも、常に我等の内面的知覺を磨くことを心掛けなければならない。さうしてその服從によつて益内面的知覺を明かにして行かなければならない。