故郷七十年

10話 私の生家 兄嫁の思い出

1,297字 約3分 2018年7月31日 公開

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 子供のころの思い出はつきない。私の家は貧しかったため、私にも方々から小僧に貰いうけようという話がかかった。その一つは瀬加(せか)(現市川町)の寺からで、その寺の住職は怖い顔をしていた。もう一つは辻川の文殊山という天台宗の寺だったが、その住職は獅子山さんといった。子供のころ、「いたずらをするとお寺にやるよ」といわれると、この何でもない顔をした獅子山さんと、瀬加の怖い顔をした住職が、獅子ということから連想されて、妙に二つが一致して、怖くなってきたものである。私が暗記力にすぐれていたため、お寺から貰いうけの話が出たのだろうが、両親もお寺にやるならば、京都の大きな所と考えたのであろうか、幸い実現はしなかった。

 同じく子供のころのことで、いまもしきりに思い出されるのは、長兄の許に嫁いで、母との折合いが悪く実家に帰った兄嫁のことである。北野の皐(おか)という医者の家であったが、その前に夏になると美しく蓮の花の咲く大きな池があった。辻川の灌漑用の貯水池であったが、ある冬の日、二、三人の友人たちとともにそこで氷滑りをして遊んでいた。子供のことで気がつかなかったが、池の中心の方は氷が薄くなっていた。家を出された兄嫁は土堤からみつめていたのであろう。忘れもしない、筒っぽの着物を着て、黒襟をつけた兄嫁は、いきなり家から飛び出して来て私を横抱きにすると、家へ連れていったものである。

 実家に帰ってもやはり姉弟の情愛があったものであろう。私はいつも帰郷するたびにそのことを思い出し、一度は昔の情愛を述べようと、再婚先の伊勢和山の寺を訪ねたことがある。兄嫁は折悪しく留守で、その機を失してしまったことが、いまも悔まれる。夫君はその頃大真さんとよばれ、美僧で村の有力者であり、加東の方の寺の住職をも兼ねた、天台宗門の相当な有力者であった。

 私が辻川にいたころは、茨城県から長兄が送金してくれるのだが、私は北条の町まで二里、為替をとりにやらされるのがつねだった。母は体が弱かったし、父は亡くなるまで天保銭が八厘であることを知らないでしまったという気楽人であったから、受取人はまだ九歳くらいの子供ではあるが、私より外になかったのである。

 為替が届くと、母は腹巻を作ってくれて、その中に金を入れて腹に巻くようになどと、くどくどと注意を与えて家を出すのだが、北条と辻川の間、郡境の所に大きな池が三つほどあり、淋しい、追剥ぎの出そうな所であった。北条で現金を受取って北条の外れまで来ると、あの地方で有名な家が一軒だけあり、榁(むろ)の木の生垣がめぐらしてあるので、私たちは「ブロンガワ」と呼んだのであるが、その家の前でしばらく遊んでいた。

 そこは淋しい個所にさしかかるちょうど手前であるから、子供心にここで誰か頼りになりそうな通行人を待っていたわけである。やがておじさんかおばさん、あるいは二人連れがやって来ると、その後からちょこちょこついて行った。金額は十二、三円であったろうか。幾度か北条までの道をそのため往復して神経をつかったので、十歳の時、北条へ移ることが決った時は、嬉しかったことを覚えている。北条には郵便局があるからであった。

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