9話 私の生家 大庄屋の家に
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私が自由な出入りを許された三木家の裏座敷は、上も下も八畳二室のがっしりした新築で、二階が本箱の置場となり、下がおばあ様の居室となっていて、時折は呼びとめられて珍しい菓子などが出る私たちの理想郷であったが、それ以外にもまだ一つ、生涯もちつづけた思い出がある。もう、いま話して置かないと、かつてなかったと同じに帰するのであるから、ちょっと惜しい。
男の四十二歳を厄とも初老ともいって、思い切った大きな祝宴を催すことが、あの地方では一種の流行であって、見栄とか名聞とかいう以外に、控え目にするとかえって怪しまれた。次兄井上通泰の養父の年祝いは明治十六年で、その折には私も半分父に手伝ってもらって、五言絶句の賀詩を作ってもっていった。
その祝いも三日つづきの盛宴で、目をまるくするようであったが、三木家の催しはずっと規模が雄大で、連夜の来集者の興奮は申すに及ばず、これと歓談する亭主方の態度にも、少しも努力作意の跡が見えなかった。
いちばんびっくりしたのは、日ごろは高い声でものもいわぬほどの女性が、いつ覚えて稽古したかと思うような長い歌を、みんな一個所もつかえずに唄ってのける。あいさつの辞令などもみなその通りで、長短緩急それぞれの場合にぴたりと合って、作った、こしらえた、という跡が少しもないと思った。
私などもこの空気に同化して、一遍もにらまれたり、つきとばされたりせずに、遠くからまた片脇から、酒宴というものの全容を見終せたような気がした。
そういう中でも心を惹かれずにおれなかったのは、町から招き寄せられた何人かの歌い女に付いて出た、歳は私より一つか二つも上かと思う舞妓が、はじめは左右に二人並んで、つぎには一人ずつで、それぞれの曲に合わせて美しく、またいたいけに舞い、かつ踊ったことであった。
一人の丸顔の背の低いのが、いつでも伴内みたような役にまわるのが私には哀れに思われ、もう一方の面長な眼の細い方の子が、泣いたり、憂えたり、同情せられる、八重垣姫のような役ばかりするのを、何だか少し不公平なようにも思えたが、後になって心づいたのは、それは教える人の計画という以上に、何か人間それぞれの生涯につきまとう運命のようなもののあることを、考えさせてくれたようである。
そうした踊子たちのあでやかな舞姿について、一種の感銘を受けたあと、三木家のおばあさんの居室となっている奥座敷でかいま見たのは、つい先ごろまで踊っていた娘たちが、すでに衣装も脱ぎ、化粧も落して、世間普通の、十二、三の娘姿にもどっているところであった。何か、しきりに遊び興じていたようであったが、それが少年の心にあわれとも思える印象を落したようであった。
仲間に入ってゆくには、気恥しさもあり、そのまま踵を返したが、その日の少年らしい思い出が、花やいだ記憶とともに、いくどか感傷めいて蘇った。
その日からのち、私は三木家の奥座敷を訪れる機会をついにもたなかったが、少年時代に世話を受けた三木家の恩誼を思い返すたびに、いま語ったような、はるかな思い出に浸るのである。