12話 布川時代 饑饉の体験
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饑饉といえば、私自身もその惨事にあった経験がある。その経験が、私を民俗学の研究に導いた一つの動機ともいえるのであって、饑饉を絶滅しなければならないという気持が、私をこの学問にかり立て、かつ農商務省に入らせる動機にもなったのであった。
北条町にいた明治十八年のことである。それがおそらく日本における饑饉の最後のものだったろう。私は貧民窟のすぐ近くに住んでいたので、自分で目撃したのであるが、町の有力な商家「余源」をはじめ二、三の家の前にカマドを築いて、食糧のない人々のために焚き出しをやった。人々が土瓶を提げてお粥を貰いに行くのであるから、恐らく米粒もないような重湯であったかと思われる。約一カ月も、それが続いたように憶えているから、よほど大きな饑饉だったのであろう。私の母親も用心をして、人のうらやむようなものを食べてはいけないと、近所の人づきあいの配慮もあったのであろうか、毎日私たちもお粥を食べさせられたのであった。
子供心に、こうした悲惨事が度々起るのではたまらないと思ったのが、学校を出るまで「三倉」(義倉・社倉・常平倉)の研究をやった動機である。その研究ノートが論文にならない前の形で、このほど発見された。そうした子供心の印象から、私は『救荒要覧』などを読まずにはおれなかった。確かまだ十三歳のそのころ、それを読んだのを記憶している。
やがて私の長兄の家は、茨城県布川町から利根川を隔てた千葉県の布佐(現我孫子市)へと移った。兄は布川に永住する気は最初からなく、ある程度の産を成した上で帰郷する心積りであった。ところが借りていた家はその身内の人が移住してくるというので、とりあえず布佐へ移ったのが、そのまま兄の墳墓の地となり、同地に家族が永住することになってしまった。
そのころ布佐の町は街道の、利根川を挾む中継所でもあり、相当繁華な所であった。早朝、土堤の上から眺めると、掛り舟が朝餉の煙をあげており、美しい河川風景であったように記憶するが、その後川床が高くなるにつれて、地形も往時の面影のないまでに変容した。そこに住みついてすら有為転変を如実に感じさせる所である。この町は昔、芭蕉が『鹿島紀行』を書いたころは、網場といって魚を獲る網を置いたところで、「夜の宿なまぐさし」などとも芭蕉は記している。茨城県側より水深も深く一時は栄えた宿場もあったが、それも位置を変えた。私は十五歳の時東京へ出て来て、時折帰った程度で、転変の歎きをそれほど身に沁みて感じなかったものの、やはり懐しい土地である。そこには両親も二人の弟たちも、私より二年ほど遅れて辻川から移り住んだのであった。