故郷七十年

13話 布川時代 利根川のほとり

2,543字 約5分 2018年7月31日 公開

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 下総の布川(ふかわ)へ行ったのは明治二十年秋の初め、私の十三歳の時のことであった。それから約二年の間、私にとっては一日一日が珍しいことばかりに思われた。たんに親元を離れ、郷里から遠ざかっているというだけでなく、医者を開業している兄は新婚だし、書生として、われわれとまるで違った代診や薬局が三人ばかりいるし、その上、近所の人とは言葉が通じない、そんな状態であった。こんな中で私はいろいろと新しい経験をした。

 自分ではすっかり忘れていたが、布川の二カ年間、別れていた郷里の両親にやたらに手紙を書いたらしい。二年後に親がやって来ていっしょに住むようになったとき、「お前少し嘘を書いてよこしたね」といわれた。親を面白がらせようとして、いくらか文学的表現や、誇張を用いたのかもしれない。後に話すが、二匹の狐と隣家の刃傷沙汰など、異常心理にかられたと見えて、非常に詳しく報告したのであった。

 面白い二カ年であった。淋しいことは淋しかったが、誰も特別にかまってくれず、しかも新しいものは見放題。ザクロは酸っぱいものと思っていたのに、そこで食べてみると甘いザクロがあった。そういう種類の新発見、子供に利害の深い新発見というものが非常に多かった。私は学校へ入らず、身体が弱いからというので、兄貴は一言も怒らないことに決めてあったらしく、素っ裸で棒切れをもってそこら中をとびまわっている。それだけなら普通の悪太郎なのだが、帰って来るとやたらに本を読む、じつに両刀使いであった。

 そのころ東京では、尾崎紅葉が硯友社の仲間といっしょに『我楽多文庫』という同人雑誌を出していた。四六倍判で十六号まで出た。江見水蔭はまだいなくて、石橋思案その他四、五人の道楽者が集まってやっていた。明治二十一年のことだと思う。狐事件の時に手頸を斬られた隣の小川の小父さんがそれをもっていて、私は子供のくせに、その雑誌を見せてもらっていた。東京にいる石合(いしあい)という学者が、どういう知り合いか、小川家に新しい雑誌ばかり送ってよこしたものらしい。

 それが見たいために、小川さんを訪ねてゆき、傷をして退屈している小父さんの読み役をつとめていた。おそらくは上方訛で読んだろうと思うが、自分も楽しみ、小父さんも喜ばせたものだった。いちばん私の頭に残っているのが硯友社の『我楽多文庫』であった。今日では珍本といっているものを、出た当座読んでいたのであった。中には今考えて、本当に読まなければよかったというくらいに馬鹿げたことも書いてあったのを思い出す。あの時分はやっと坪内逍遙さんの『書生気質』が世の中に認められはじめたころだが、『小説神髄』などは見ていなかった。

 もっと愉快なことには、一方ではいちばん新しいはしりの文学に触れたと同時に、一方では非常に旧式なものも読んでいたのである。兄貴の家には代診と薬局の書生たちがいたが、その連中のとっていた雑誌は硯友社とは反対の側のもので、一つは『浮世雑誌』とかいった悪いことばかり書いてあったものと、今一つは『親釜集(おやかましゅう)』といって、都々逸の流行に乗じて皆がその競争をする雑誌であった。

 花柳界のもので、四六判の表紙に三味線の撥(ばち)を描き、中に『親釜集』と書いて、その脇に猫が聞いている画が描いてあった。書生がそれをとっていたので、そこへ行ってこういう花柳雑誌をよむ。一方では硯友社のはしりの文学や坪内逍遙の作に触れる。どうも博識ならざるを得なかったわけである。

 布川の小川氏に、東京からそのころとしては珍しい新刊書を送ってくれた石合という人は、幕末の有名な学者、田口江村の息子さんということであった。名前は震といった。小川家のどの代の人か知らないけれども、大変に学者を愛する人がいた。田口江村が維新の際に行くところがなくて困り、この家に来て、邸内に三間ばかりの長屋風の細長い家を建てて住んでいた。江村が東京へ帰るときに、家をそのまま小川家に引渡していった。

 その家を私の長兄が利用したのであった。幕末のころ江戸の周辺に縁故を求めて逃げていた人々が多かったが、これもその一つで、幕末の裏面史としては哀れな話であった。郷里から父がやって来たころには、まだ戸棚の中に羽倉外記(はくらげき)の文章なども残っていた。

 私は子供のことで、どうも分らないでしまったのだが、たぶんあの手頸を斬られた小川の小父さんにかなり世話になったものと見えて怪我の見舞いもよこすし、本や雑誌などもしょっちゅう送ってよこしたものらしい。隣の小父さんの方では、何を送って来たっていいんだと威張っていたが、ちょうど文学上にも新しい気運の向いている時分で、まだ『都の花』などの出ていないそのころに、退屈しているだろうからといって新刊を後から後から送ってくるということは、よほどの熱心と親切とがあってのことだろう。いずれにしてもなかなかできないことであった。

 こうして新刊書を読む一方、『親釜集』なども読み、その上、東京にいた次兄が、自分の読んだ本を読みきれないくらいたくさん送ってくれた。歌集などが多く、いくら読んでもさし支えのない本ばかりであった。

 県居(あがたい)の門下のものの著書とか、村田春海の歌集、千蔭の歌集など、どうしてそんなにたくさんの本を送ってくれたか、どんな方法で送ってくれたか、憶えていないが、ともかくついでのある毎に送り届けてくれるのであった。

 読書力のついた子供に、こんな古典ばかり送って知識欲を塞いでおこうとしても無理である。こちらはもっと事実が知りたいのだから、送ってくれたものは全部読んでしまうが、それだけでは物足りない。他のものも猟(あさ)って読んでいた。学校へ行かなかったから、いくらでも時間がある。兄の方ではこっちに引張りつけようと努めていたのだろうが、私の方ではむやみにいろいろのものに目を通していた。後に両親が来てからは、まるで形勢が一変してしまった。やかましいことばかりいうものだから、私もだけれど、長兄も大変緊張してしまった。

 この二十二年の秋までの二カ年というものは、悪いこともいろいろおぼえたけれども、何だか自然の生活といったものが分ったような気がした。

 考えてみれば播州の三木家についで、布川の小川家は第二の濫読時代を与えてくれたのであった。

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