17話 布川時代 大塚戸の花火
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布川へ両親が来てからしばらく後のことであった。布川の宿という所の利根川べりに空家を見つけて、両親と私達小さい者がそこに移り住むことになった。
関東は花火の流行時代であったが、布川から利根川を八、九里上ったところに、大塚戸という村がある。じつに淋しい村であったが、どういうものか花火の大会だけは毎年愉快にやり、そのために人がうんと集まった。花火だけを見に行くのでなくて、途中で羽目を外して遊ぶために集まるのだった。
村によっては若い者はいやがって行かないで、齢とった爺さん婆さん連中が、村から町から一船仕立てて出掛けて行くのであった。
花火大会だから見ていてちっともさし支えはないはずである。しかし隣近所をよく見ると、近くで見る人、遠くで見る人、みんなねているのである。風俗壊乱おかまいなしである。そんなところへ、私はただ何となくみなが行くというのでついて行った。親も郷里から来たばかりで何も知らなかったもので、もしも知っていたらいけないといったに違いない。船の往き帰り、向うでの乱雑さなど、とんでもない印象をうけて帰って来た。
もうよく憶えていないが、林の真中に御堂がある。信心のあついものはすぐ堂の近くに行っている。しかしその他の連中は、林の外側か、広い林の中かを、男女みな相携えて暗い所を歩いているのであった。そういう光景に吃驚して帰って来たことを覚えている。大塚戸の花火よりも異様な光景の方が印象に残った。
その後あれはどうなったろうか。人に聞くのもきまりが悪いから、聞いたことはないが、今でも大塚戸の花火はどうなりましたかと、聞いてみたいくらいである。そのころは花火のはじめなのであまり外では見られなかったらしい。川船というものも、その時はじめて乗ったので、ただただ驚くことばかりであった。
そんな行事の影響であったか、あるいは別々に起ったのかしらないが、その時分に念仏講というものが非常に流行ったものである。どこの家でも喧しいお爺さんお婆さんは、ことに片親になってしまうと、世間の者が勧めて念仏講に入れる。酒は朝から飲めないが、賑やかにお茶を飲んでしゃべったり、わずかな小遣で手をたたいたり何かして歌っている。老人処理法として極上のものである。それが花火でも見に行こうかという計画をする策源地になっていた。その状景は郷里の播州あたりでは見られない。下総あたりに残っている荒い生活の姿であった。長塚節の『土』みたいな生活からにじみ出たものである。
私の一家も、そんな生活を一通りは経たにしても、そう深くは入らなかった。あまり遠くに出たこともなく、筑波山なんかも東京へ出て高等学校の学生になってから、はじめて登ってみたようなわけであった。