18話 布川時代 『利根川図志』のこと
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昭和十三年に、私は岩波書店から頼まれて『利根川図志』を校訂して覆刻したが、今ではもう絶版になっている。この本と私との関係については曾て雑文を書いたことがある。思えば深い因縁があるわけで、私が初めて下総の布川へ行った明治二十年の初秋から二十一年にかけて、この本を古い版本で見た時は、この著作が出来上った安政五年からちょうど三十年目であった。それから私が、それを再版したのは、また五十年あまり経った後というわけである。
著者は赤松宗旦という医者である。その家は代々、赤松宗旦といって、この本を書いた人は二代目である。私はその人の養子に当る三代目の宗旦に大変世話になっている。四代目はもう宗旦といわないで、小学校長だったが、私はこの人とも懇意にしていた。五代目も亡くなったかも知れないが、近ごろ布川へ行って来た人の話に、五代目の細君と六代目の主人に会ったとか、家はやはり元の所にあるということであった。
さて赤松という苗字だが、私の生家がやはり赤松系で、播州の西部から辻川へ移住してきたのに、わざと遠慮して、松岡を名乗るようになったという、古い言い伝えがあった。下総に移って、赤松という苗字の先住者を知ったとき、非常になつかしく思った。それで兄も私もみんな懇意になってしまったわけである。
この著者の赤松家は、必ずしも播州出ではないかも知れないが、同家の言い伝えでは、暫く遠州の掛川か、どこかに住んでいてから、下総へ移ったということになっている。播州のどこから出たのかはっきりしないが、その後、田舎には伝説ができてしまって、赤松系のお医者同士二人が、播州から連れだって家出をし、前途を開こうといって、ここに落着いたというのである。何分にも下総の松岡の家は、元祖が私の長兄の鼎であるから、みなで大笑いしたこともあったが、ともかく私どもとその赤松家とは大変親しくしていた。
赤松のお爺さんは産科のお医者だったので、私の姪などもみな取り上げて貰った。そのお爺さんの子供は女ばかりだったが、私と親しかった。異郷において、お互に播州の匂いを僅かながらも嗅ぐことが出来たわけであった。
『利根川図志』は、赤松の一代目が一生かかって計画したが、早く死んだため、その息子に当る二代目宗旦が本にして出したものであって、驚くべきことが書いてある。汽船のない時分に、三国峠か碓氷峠かを掘り抜いて日本海と太平洋とを繋ごうと企て、土地の高低を考えずに議論をしており、それを幕府にも、当路者にも進言しているのである。ちょうど印旛沼の開発計画が二度目に企てられ(一度目は田沼意次の計画)、この沼を掘り割って利根川と鬼怒川と海とをつなごうという話のあるころであった。悪く言えば山師的な計画とも見られ、どうも佐藤信淵あたりの影響がかなりあったのではないかと思う。ともかく、下総の赤松、松岡両家は大変親しくなったわけで、それが私の『利根川図志』の覆刻に協力した動機というべきものであった。