故郷七十年

21話 辻川の話 辻川のみち

1,709字 約3分 2018年7月31日 公開

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 私の家は辻川の村を貫いている道に面していた。この道は昔からさまざまの人が通っている。ことに鳥取と京都の間を通う際に、とくに途中で大阪を訪う必要があったとすれば、この街道が近道として選ばれたのであった。日記を残した人は少ないが、今後も記録を注意しておれば、相当にこの道を通った人が発見されることであろう。私の記憶に残る古人に、江戸時代の国学者で小説家の上田秋成がある。彼の紀行文の中には辻川を通ったことなども記してあり、懐しさをそそるのであるが、もう一人羽倉外記という幕末の学者が、大阪にいたころの旅中、辻川を通った旅行記がある。この人は私の尊敬する学者の一人で、伊豆七島の経営を研究するため自ら赴いて島の代官となり、つぶさに同地を研究して、島民の生活に同情を寄せた、傑出した学者である。この人をはじめて知ったのは、十三歳で茨城県布川に移ってから二年目のことである。布川の借家に離れがあって、私らの遊び場などに使っていた。そこの戸棚に多くの写本類があり、私より二年遅れて同地に移った父が、その蔵書の中から羽倉氏の著書を発見したが、その中に辻川に触れた旅行記があったため、じつに懐しく、この羽倉氏が、私の心に刻みつけられたのである。その後私も伊豆七島の研究を手がける因縁があったが、羽倉氏の著書を全部集めるためにいろいろ苦心した。ある時東京下谷の古書店でそれを捜していると、居合せた内田良平という有名な人が、「その志はいい」といって、氏の蔵書の中から頒けてくれた。それはいまもなお私の記念すべき蔵書の一つとなっている。

 辻川という地名を久しく疑問に思っていたのであるが、辻川を東西に貫いて前之庄を通り佐用の方へと延びる古い街道に、十字形に交叉して、古く開けた港の飾磨津(しかまづ)から北上して生野の方へ達する道のあることが、その由来であると気づくようになった。姫路から生野への道も、福崎までは川の西岸を通って来られるのであるが、福崎も山崎のあたりからは川沿いの道が作れず、やむをえず途中から東岸に道を移して辻川を通ったわけである。南北の道は現在のようになるまでは堰溝沿いの路や、私の旧屋の横をも通った時代もあったわけで、東西の道も別の旧道があったらしく、幾度かの変遷があったのであろう。堰溝に沿ったあの細い路も、馬が重要な交通機関であったころは、あれで十分だったのである。地蔵堂のある場所も、従って当時は重要な地点であったわけで、山の方へ上り、あるいは川の方へと下るための場所であった。

 いまもあのあたりの記憶が幻のように私の胸には蘇える。鈴の森神社から斜めに下りると、そこが崖になって小さな流れがあり、蟹も遊んでいようという、私らの遊び場で、そこにはアカイワシという、冬、茎が赤くなる濶葉樹があり、これを刀代りにして遊んだ。

 上田秋成の紀行文を読んでも、彼がどのあたりから北に折れて生野への道をとったのであろうか、堰溝のほとりであろうか、私の家のそばの上坂のところであろうかと、私の空想は楽しくひろがるのである。

 辻川の南を岩尾川という綺麗な細い川が流れている。北条の方から来る所に橋があり、その橋は私の見ている間に石橋にかけ代えられたのでよく知っている。それは姫路から来る国道がついた時のことであった。その少し上流に岩尾神社というお宮がある。妙徳山の鎮守さんだったらしい。それに向って左の所に私らが通った昌文小学校があった。

 妙徳山というのは古風な寺で、どういうわけか、支院ばかりいくつもあって本寺がない。妙徳山に一月の十六日か十五日に「鬼追い」という年中行事があった。子供にとっては、その行事はいちばん大きい興奮で、今もよく憶えている。

「おん、そこじゃい。めん、そこじゃい」というものだから、鬼におんとめんとがあるのかしらんと思ったりした。今も大門(だいもん)という地名があるが、その表口にもとは大門が建っていて、そこから文殊堂まで、少し斜め東北に向って真直ぐに参道がついている。播州の北ではいちばん歴史に旧いのはそこで、記録類によれば平安朝まで溯ることができる。大門がいちばん外の門だが、私の子供の時分にはもうなかった。懐しい所である。

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