20話 辻川の話 川舟交通
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明治の初年、全国地図を見るようになってから、これは机上でものを考える政治家の思いつきそうなことであるけれど、太平洋と日本海をもっと簡単につながねばならないという機運が強くなって来た。日本の中央部を掘り割って、利根川と信濃川を結ぼうという風な無謀な計画がその一例である。ことに日本の北半分の海運は時々の風に支配されており、冬行って春帰ってくるというようなことでは不便極まることであったから、こうした計画が始まったのである。琵琶湖と伊勢湾を結ぶことによって、日本の表裏をつなぐ計画も、明治以前の経済政策として考えられたことがある。明治に入ってからは丹波の由良川と武庫川とをつなぎ、市川と円山川とをつなぐ計画もあって、後者はわずか五、六年の間ではあるが、私の生まれる前後、この方法によって実行使用されたことがあるということである。私の郷里の方でもひき舟で市川を溯り、生野あたりから馬などで中継して山を越え、円山川を経て日本海へと荷物を運んだことがある。これは地図だけで経済政策をやろうとする人々のいいみせしめであると思うのだが、私は幼いころ、よく古老からその時代の話を聞かされたものであった。後日のことを考えずに決められた無謀なる計画である。私が幼かった当時、村には二軒の問屋と呼ばれる家があったが、その一つの方は、ひき舟時代の名残りであったと思われる。
私の父は辻川の辻という略字を使用することを嫌って、逵という字を使用したものであった。辻は日本で作られた字であるから、漢学者にはお粗末で気に入らなかったのであろう。
辻川の道は、文字通り交差しておった。北条の方から村に入って貫通する東西の道に、南方の長目や吉田の方から伸びて北上する道が交わっていた。私の旧屋はその角の所にあった。いま市川沿いに北上する道の一部は自動車が使われ始めてから出来た新道であり、北条から辻川へ入る手前から福崎の方へ通じる道はごく最近作られたもので、それ以前堰溝という灌漑用水の掘鑿に伴って作られた、南北に溝と平行する道もあったという風に、辻川の道は幾度かの変遷を重ねているのである。辻川には何の益もない風情を添えるだけのこの堰溝は、姫路藩の強圧政策の一つであった。
私の家の横手から鈴の森神社の方へ上る道の一部を上坂と呼んだ。その道を思い浮べるとき、微笑ましい弟の思い出が蘇ってくるのである。末の弟が三歳になった時、彼はお使に行くことを覚えて、しきりに母にねだっては買物に行ったものであるが、ある日すじ向いの豆腐屋に使いに行って買って来たのをみると、揚豆腐の端が少し齧られていた。不審に思った母が糺すと、「上坂の方から鼠が来て、味噌漉の端にちょこんとのって、端の方を齧って逃げた」のであると、即妙の答をしたので、さすがにしつけにやかましかった母も、三歳の子の答の可笑しさに笑い出して叱らなかった。幼な児の空想力の豊かさに感心したものであったろうか。
上坂を少し北へゆくと、札場という家号の家があった。昔高札を立てた所かと想像するが、そこに私と同年輩の和吉という子がいた。彼が里子帰りであるので、私はよく彼をいじめたものである。後日彼は北海道に赴いて産を成したが、ワキやんと呼んだ彼が、数年前ひょっこり私の家を訪ねて来た。「クニョはんはご在宅か」と、懐しい旧友の来訪には、驚きかつ古き日の思い出に耽ったことである。
その後埋め立てられ、登記所となったあたりに、自生のズズ玉の繁茂地があり、ワキやんとよくそれを採取して、首からジュズを掛けて遊んだことを思い出す。